この世界の片隅に
2016日本
監督:片渕須直
原作:こうの史代
これは良い映画だと思う。
どのように良いのかを言葉にするのは時間がかかるので、ここでは大体諦める。
戦時中を健気に生きた主人公の物語、というのとはちょっと違うと思う。
戦時中も罪のない庶民の愛すべき日常があった、というのもちょっと違うと思う。
罪のない庶民の生活を戦禍が踏みにじった話というのは、まあその通りなんだけど、
それもそういう映画なんだと言っちゃうとちょっと違う感じがする。
違わないとも言えるけど。
この映画は、日常というには起伏のある生活を丹念に描いているのだが、
そこには愛も憎しみも正義も悪意も善行も罪もみんな一緒くたになって、
どれかを一つテーマとして扱うというようなことをしていないのだ。
ワタシたちの日常はいままさにそういう不可分な混沌としてここにあるじゃないですか。
愛も育み憎みもし、正義を信じつつも無自覚に罪を犯しているじゃないですか。
そういう混沌をうまく捉えているのだと思う。
この感じ、何かに似ているんだよな。
なんだろう。。
ふと思い出したのは、エドワード・ヤンの名作『ヤンヤン 夏の思い出』
全然時代も背景も何もかも違うけど(あっちは群像劇だし)、
でも、起伏のある日常をただただそのものとして包んだ感じはよく似ている。
未分化でまだ意識にも言葉にもならない日常に潜んでいる、何やら複雑で層をなして絡み合ってるあれこれを、
そういうものとして一定の時間の中にパッケージしてしまった。
そういう奇跡的なことが、この二つの作品に共通しているのではないかしら。
その奇跡は映画では時々起こる、映画が実は得意とする(しかし滅多に起こらない)奇跡なのではないかしら。
という点で、これは素晴らしい映画だと言えると思います。
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という映画的素晴らしさというのはしかしどこから生まれるのかね。
脚本が優れているというのはある。
そこに書かれた言葉を発する人物が置かれた状況を、いろいろな面でよく表す絵と音。
そういうものがちゃんとそろっているということだろう。
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「主人公がやたら前向きなのが怖かった」という評があると聞いたので、考えてみたのだが、
いや、決してすずさんはいつも前向きなのではなかった、と
丹念に思い出してみるとわかると思う。
ネタバレといわれるとアレなのであれですけど、あの布団の上のシーンとか
あの別室でのシーンとかで、すずさんの絶望がわかるよね。
前向きに見えているのは、彼女の「子供のころからいつもぼおっとしている」性格のために、
機敏に状況に応じて悲しんだり反発したりという反応を見せないからだと思う。
このことは、映画の冒頭にまず提示される重要な前提だと思う。
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「ありがちな反戦メッセージがないのでよかった」という評も目にしたので、これまた考えてみる。
う~ん
確かに誰一人として「この戦争は愚かだ!」とか「日本は負ける!」とか言わない。
そういうこといわれるとウザいてのもわからんではない。
でもこれ観ると、やっぱり戦争というものがなかったらすずさんたちは
「みな笑って暮らせる」ようになったかもしれない、というレベルのメッセージは受け取るだろう。
戦争は正しかった、戦時中の日本は理想の社会だ、というメッセージではない。
(そう受け取っている人は、自己を投影しているだけよね)
同じメッセージでもあからさまでなければOKで、あからさまだとNGというのは
なんというか、自分の「気分」を大事にしすぎなんじゃないかと思うなあ。
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庶民の罪を描いていないのでダメ!という評も目にしたが、
これについては、最初のほうに書いたように、罪もなにもかも含めて描かれていると思うので、
ダメということは全然ない。
戦時中のあの日常を見たら、いまの自分の日常の危うさに思い至るだろう。
あの時代でコレクトネスを涵養して正しく声を上げるのは非常に困難だっただろうが、
今の我々にはそれができる。
そこに気づかねばならないだろう。
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アングルも引きも寄りもよく考えられていたと思う。適切なときに適切な画が出てくる。
音も非常によくできている。音楽よりも砲弾の音などが印象に強く残る。
個人的にはコトリンゴさんの歌が弱点なように思う。
音楽家としては素晴らしいし尊敬もするが、
ああいう声のアプローチは、いまやある種のポピュリズムで、
そのポピュリズムの力を安易にアニメ映画にはめ込んでいるように思えてしまったのだ。
この映画の唯一の安易な点となってしまったのではなかろうか。
まあ自分が女性でああいう声をもっていたら
たぶんああいう音楽をやっているだろうとは思うけど(笑)