Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「愛、アムール」ミヒャエル・ハネケ

2013-04-29 01:54:50 | cinema
愛、アムールAMOUR
2012フランス/ドイツ/オーストリア
監督・脚本ミヒャエル・ハネケ
出演:ジャン=ルイ・トランティニャン、エマニュエル・リヴァ、イザベル・ユペール、アレクサンドル・タロー 他


ハネケのパルムドール受賞作を観ました。

ジャン=ルイ・トランティニャンとエマニュエル・リヴァの共演となると
どうしても観ないわけにはいかないじゃないですか。
もっともエマニュエルは『ヒロシマ・モナムール』しか観たことがないのです。
あの映画ではほんとにステキだった。
ファンを名乗るにはあまりにも知らなすぎるエマニュエルの今日の姿は是非観たいと。

と思ったら『トリコロール/青の愛』にも出演しているのね。
全く思い出せないが。



誰の人生にも訪れる可能性のある
老いの日々の一形態。
ウチにも老いた親がいるので身につまされる。
老いてなお心身健康ならば幸運。
どうしても病や認知症に無関係ではいられない。
そのときどのように我々は生きるだろう。

元気だった人の変わりようというのが応えることのひとつだよね。
本作でもピアノ教師でありどちらかというと気位も高く聡明だったと思われるアンヌ。
症状が出始めたころも気丈に振る舞っていたが、悪化するにつれそんな面影すらなくなっていく。
この変化を見るのが周囲としてはつらいだろう。

同じく老いたジョルジュがひとりで面倒を見るのは限界がある。
とはいえ、夫婦の生き方の問題だから、簡単には他人に委ねられない。
ヘルパーも何人か雇ってみるのだが、中にはがさつな扱いをして平気な人もいる。
自ずとジョルジョは一人で背負った方がましだ、そのほうが我々らしいあり方ができるのだと思う。
そのことはよくわかる。

結局本人が納得いくようにやっていくしかないのだが、
アンヌにはもうそういうことを思うこともできない。
ジョルジュが我を通しただけなのか?
いや、違うだろう。
どのような形であれ、納得いかなくても納得するように自分を変えながらやっていく形に
正解も間違いもないのだ。


結末は意見が分かれるところだろう。
あれを責める気には到底なれない。

*********

冒頭の音楽会以外は
ほぼ夫婦の暮らす程度の良いアパルトマン内部での撮影
その閉塞感が、老いの暮らしの空間を感じさせてよい。
ラスト近く、いないはずのアンヌが再びきびきびと動き夫婦で部屋を出て行くシーンでは
それまでの閉塞感から一気に外気が感じられて
そのギャップに思わず涙腺がゆるんだ(というか号泣寸前^^;)

照明もほとんど自然光に近く、薄暗い感じもよい。


鳩の使い方もそうとうにすばらしい。
トランティニャン。鳩を捕獲する。


エマニュエルの演技は感動的。
利発な教師としてのアンヌと、発症後のアンヌをそれぞれ説得力をもって演じている。
あまり観る機会がないけどすばらしい役者さんだ。


****

しかし、自分の身近な例などもあわせて思うのは、
人間、脳だな
ということですw

どんなに体を鍛えても、老いて脳が衰えたらダメなんだよね~

どんなに聡明で性格が良い人であっても
脳が衰えたらそんなことはどこかに行ってしまうわけだし
しかもそれは本人に責任はないことなのだし

脳が最後まで衰えないように願うばかりです。


@Bunkamura ル・シネマ


【追記】
肝心なことを忘れていたけれど
この映画の音の設計はもの凄いことになっています。
いや、もの凄いってことはないのかもしれませんが・・・
余計な音楽の類いはいっさいなく
オープニングでもエンドロールでもそれは貫かれていて

これはハネケが音楽について熟考した結果なのか
単に使い方に正解を見いだせなかったからなのかはわかりませんが
映画の主題に大変よくあった扱いだと思うのです。
唯一の音楽は教え子が弾くピアノと
ジョルジュが弾くバッハ(BWV639のブゾーニ編曲版ですね)。
これは夫婦の音楽家・教師としての日々を思わせて効果的です。

しかしよりによってBWV639か。
これはまいるよね!
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「孤独な天使たち」ベルナルド・ベルトルッチ

2013-04-26 03:02:50 | cinema
孤独な天使たちIO E TE
2012イタリア
監督:ベルナルド・ベルトルッチ
脚本:ベルナルド・ベルトルッチ、ニッコロ・アンマニーティ、ウンベルト・コンタレッロ、フランチェスカ・マルチャーノ
出演:ヤコポ・オルモ・アンティノーリ、テア・ファルコ、ソニア・ベルガマスコ、ヴェロニカ・ラザール、トンマーゾ・ラーニョ、ピッポ・デルボーノ


ベルトルッチの新作を観ました。

冒頭カウンセラーと思しき人物が車椅子を使っているのに少し心が動く。
ベルトルッチが車椅子生活になったことはつい最近友人から聞いたところ。

そして主人公であるロレンツォの顔を伏せたショットで、
この少年が内向的な資質を持っていることが瞬時にわかる。
この内向性は自分にも覚えがある。これはワタシの映画だ、と勝手に所有してみる。

ロレンツォの顔が吹出物だらけでアップに耐えないところも素晴らしい。
映画の突出とは人物の顔の突出である。と持論を述べてみる。
ロレンツォをはじめ、姉のオリヴィアやロレンツォの祖母の深い皺に、突出した顔を観る。
オリヴィアが深夜地下室の窓からロレンツォを脅すシーンの彼女の顔はまた素晴らしく女優から逸脱した顔だ。
主役の二人はオーディションで見つけた無名に近い俳優ということだが、美男美女を撮ってスターを生み出してきたベルトルッチも、こういう顔を探し求めるようになったのだ。



ロレンツォがなぜこのような性格になったのかについては、明確に説明されたりはしない。
(ベルトルッチ作品で「説明」のあるものがかつてあっただろうか?)
だから理にかなった?共感を観客にもたらすことはないのかもしれない。
ロレンツォは割とよい暮らしをしている普通の家族の一員で、ことさら特殊な環境にいるわけではない。
性格には理由はいらないのだ。恵まれていようとも、彼には居場所がないことが事実なのだ。

異母姉の闖入によって、確かにロレンツォの心持ちは変わったのかもしれないが、これもまた劇的に変わって成長譚で人を感動させたりはしない。
このあとのロレンツォのあり様は、われわれが想像してみるほかはない。少しは人と打ち解けた心を得るようになるかもしれない。そうあって欲しいが、母親の過度な期待に再びめげてしまうのかもしれない。

あるいは、ヘロインはやめるとロレンツォと約束したオリヴィアも、この先どうなるのか。
結局売人から手に入れたヤクをとりあえずタバコの箱に押し込めた彼女だが…
(その箱を忘れて出て行きそうになったのはまたステキな演出だったな)



『ドリーマーズ』に似て、世間から隔絶された数日間をわりと自堕落に過ごして、かすかな心の揺らぎを持ちつつ、はかなくその生活は終わる。
最後のあまり技巧的でないストップモーションのロレンツォの笑顔に、われわれの想像力は多くを負うことになる。
大きな物語ではなく、何が起きたのか定かではないもしかしたら何でもない7日間を淡々と描いたこの映画は、やはり何でもないがゆえに心にそっと残り続けるものとなっているだろう。

*********


オリヴィアが写真をやっていて、18の時に賞をとった、と言うシーンがあるが、それはオリヴィア役のテア・ファルコ自身の実話なのだと。
実際に彼女は写真家なのだそうだ。
彼女がひどい顔をして登場した時はどうなるのかと思ったが、だんだん柔らかい顔になっていくのがよかった。


ロレンツォは14歳だが、ロレンツォ役のヤコポも撮影時14歳。役者だねー。


そしてこの映画のためにあったかのようにはまりまくったのがデビッド・ボウイ「スペースオディティ」にイタリア語歌詞を付けたRagazzo Solo, Ragazza Sola。
歌詞は原曲とは違うもので、むしろこの映画のように若い心に問いかけるような内容だ。実にしっくりくる。
さらにこの曲をオリヴィアも一緒に歌わせることで、シーンの深みが100万倍だった。
むかーし渋谷陽一氏がFM番組でこの曲をかけた時、イタリア語はすごい、どんな曲でもイタリア語で歌われるとカンツォーネって感じになる、と言っていたのを思い出す。

イタリア語バージョンは『スペイス・オディティ』40周年記念エディションに収録されている↓
スペイス・オディティ(40周年記念エディション)
クリエーター情報なし
EMIミュージックジャパン




@シネスイッチ銀座
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「ホーリーモーターズ」レオス・カラックス

2013-04-24 02:48:35 | cinema
ホーリー・モーターズHOLY MOTORS
2012フランス/ドイツ
監督・脚本:レオス・カラックス
出演:ドニ・ラヴァン、エディト・スコブ、カイーリ・ミノーグ、ミシェル・ピコリ、エヴァ・メンデス 他


カラックスの新作とあらばやはり観るでしょう。

実に不可思議な映画です。

冒頭映画館の観客が身じろぎもせずこちらを見据えている、まるで鏡のような画面に狐につままれた感。

そしてカラックス本人が薄暗がりの中サングラスをかけて不安げに目覚める部屋は、
空港を窓から望む場所にありながら港の雑音が聞こえる変な場所。

壁の一部が隠し扉のようになっていて、それを開ける鍵はカラックスの指と一体化した金属のパイプ。
ドアを開けた向こうには電灯が点滅する暗がり。奥にさらにドアがあり、開けると劇場の2階席に。
映画上映中の劇場客席の通路をゆっくりと巨大な犬が歩いてくる。



記憶が適当なので違うところがあろうかとは思うが、これはまるでデヴィッド・リンチの映画の始まり方である。
この魅力的な導入は、あとから思い起こすとその後の展開とは全く関係ないと思われるモノであるからまた厄介である。

魅力的な導入という点では例えば『ポンヌフの恋人』でも橋に至るまでの長い長い導入が印象的である。
イントロで不可解な力で観客をつかむのがカラックス的な魅力のひとつなのだろう。
不穏な暗がりに目覚めて不穏な暗がりの劇場に不穏な鍵を使って入り込む、
それが映画なのだという宣言のようでもある。

これから観るものは「映画」なのだという宣言。


そのあとに延々続くのは、リムジンの中で変装を繰り返し演じられるドニ・ラヴァンの百面相なのだが、
それぞれの変装はひとつひとつがひとつの映画と言ってよい。

観客とは、映画から映画を移り渡る存在だとも言える。映画と映画の間は映画でない余白である。
『ホーリーモーターズ』は余白を極端に縮めた映画体験を映画にしたものなのかもしれない。
映画体験を見せる映画。
そこに展開するのはサスペンスあり家族風景あり対話劇あり、果てはミュージカル仕立てのピースありと、
映画ジャンルを横断するようである。



しかしもちろんただ異なるエピソードが並んでいるといった映画でもない。
一人の人物の一日の行状として示されるドニ・ラヴァンは、途中現れる昔のボス?らしき人物(ミシェル・ピコリ)との対話で語られるように、カメラが消えたあとのカメラ無き俳優である。

人生はカメラ無き映画でペルソナを取り替えては演じ抜ける俳優のようなものなのだ、
といささか青臭く古臭く捉えることも可能だろう。
リムジンのほかには帰る場所すら定まらない。仮面を取る場所はリムジン以外にはないのだ。



一方でそういう分析的で教訓的なことを目的にカラックスは映画を撮ったのではないとも思える。
一人超越的な存在である運転手のことや、リムジンの寝床での車たちの会話wや、銀行家を見かけて襲撃するwwところなど、
無邪気で回収できないアイデアがこの映画を一層謎めいたものにしている。

運転手が最後になぜ仮面を着けるのかという問いについて、カラックスはインタビューで「わからない」と答えている。
あるいは「観客をどう捉えているか」と問われると、「観客のことは全く考えていない」とも。
どの程度真面目に答えているのかはわからないが、基本的にはアイデアの人であり、
理詰めに何かを伝えようとするタイプの作家ではないのだと思う。

この点でもリンチに似た資質があるように思える。
冒頭のリンチ的シークエンスは、この映画が個人的で突発的なものであり、かつ解釈の中に回収しきれないものであることを示す、
おそらくは無意識の命ずるままに付けた安全弁?タグ?のようなものなのかもしれない。

*******

『TOKYO!』で登場した(ということだ。未見)メルド氏が闊歩するペールラシェーズ墓地に流れる音楽に吹き出す。
無邪気な児戯のようだ。

同じく墓地でモデルを撮影しているカメラマン、その助手の女の子がかわいいったらないのだ。
彼女はアナベル・デクスター・ジョーンズという人だそうだ。



あとパーティーでトイレに閉じこもってたという少女もとてもよかったと思う。
彼女はジャンヌ・ディソン。


カイーリ・ミノーグが歌うシークエンスは実に感動的。歌詞も曲も素晴らしい。歌詞はカラックスらしい。
サントラ欲しい。

あとは、ジェラール・マンセの歌が使われている。
マンセを聴くのは25年ぶりくらい。
昔音源を探したがまったく入手できなかった。。今はどうなんだろう?


@ユーロスペース


【追記】
冒頭の映画館を這う犬だけど、なにやらそっくりな犬の絵が先日行ったフランシス・ベーコン展で展示してあったので、もしかしたら??
「走る犬のための習作」っての。
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「あやつり糸の世界」ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー

2013-04-15 00:59:51 | cinema
あやつり糸の世界Welt am Draht
1973年(第1部=105分・第2部=107分)
監督:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
原作:ダニエル・F・ガロイ「模造世界」
脚本:フリッツ・ミュラー=シェルツ、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
撮影:ミヒャエル・バルハウス
出演:クラウス・レーヴィチュ、マーシャ・ラベン、アドリアン・ホーフェン、バーバラ・ヴァレンティン 他


もうけっこう内容忘れてしまったんだけど^^;
少し前に観ました。。

TV用の作品ということですが、前半後半で200分くらいあり、なかなかの長丁場です。

ファスビンダーが未来SFを撮るというのは意外な感じですが、自分のアイデンティティが崩れて自分や自分自身の属する世界の正体に疑問を抱いていく眩暈のする題材は、やはり一筋縄ではいかないという印象を与えていい感じ。

もちろんその題材がワタシ的キーワードたる「ディック的」であることもこの作品を気に入る重要なポイントなのですが。


全編低予算風味の(しかしファスビンダーの中ではかなりお金がかかっている感じではありますが)B級感あふれる世界は、いかにも昔の民放深夜映画枠で放映していそうなもので、その時分にTVでこの作品に出会っていたら、と想像すると、それはもう一発で気に入ってしまい、ファスビンダーという名前をカルト的な崇拝の対象にしていたでしょう。
そんな映画です。
(なにしろワタシはタルコフスキーですらそのように出会っていますから)


この世界はスーパーコンピュータの演算の中に成立している虚構かもしれないという疑惑は(この設定が、グレッグ・イーガンを先取りしているところも嬉しい点ですが)、上位の世界でのプログラム改変によって人物が跡形もなく消え去ってしまうことにより主人公の意識に上るのですが、この場面、人物が消えるところを見せるでもなく、人物が座っているところからフレームアウトしていって、再び椅子を写すと人物のいない空の椅子が写る、とかいう安上がりな方法で貫くので、実にしびれます。

また、未来を想定したと思われるオフィスなどの内装が、プラスティックやガラスでキラキラ感を醸し出していて、その辺は2001年宇宙の旅的な未来感なのですが、ところどころ妙に普通に70年代のデザインのままの室内や建物や車(!)が出てきて、なんとも面白い既視感のある未来が出来上がっています。
(↑写真のかぶり物なんかは普通のヘルメットを加工した感ありありw)

あるいは、逆にたとえば仮想現実を司るシステム『シミュラクロン』が動いているメインフレーム(w)のルームはなぜか前面鏡張の部屋だったりして、過剰に装飾的だったりもするし。

そこらへんもまあ低予算と感じるのも面白いのですが、どこか作り物めいた怪しげな不安感を世界に与えることに、期せずして成功しているのだと見ると面白いと思いますw




が、そういう道具立ての面白さと同時に、危うい現実に疑問を投げかけつつ上位の世界からの圧力(かもしれないもの)に怯え苦悩しつつも果敢に乗り切ってゆく主人公(しかもバッドエンディング)の姿が、これまたディック的なのですね。ディック的な人=自らの存続が根底から覆るような困難の中にあって困惑しながらも果敢にふるまい状況を打開してく人、なのですな。

その苦悩と勇気の物語であるところが、妙にファスビンダー臭い。
このことがよくわかる映画です。
道具立ての人ではあるけれども(他の作品でも道具立てが物語りを起動し駆動するけれど)、物語の芯はとことん泥臭く不器用な人間のがんばりなわけですね。

人情主義的な意味で人間中心論というわけではないんですけども、このような職人的SF映画でもそこのところは変わらなかったんだなとある意味感心したわけです。

*****

後半に、とても異質なシークエンスがあって、
そこに出て来るのが他ならぬエディ・コンスタンティーヌなのです。
おおっと思うわけですが、やはり『アルファヴィル』のことは念頭にあるのかもしれません。
もっとも『アルファヴィル』でのエディというよりは、イメージとしてですが、マックス・フォン・シドー(の声)が具現化したような人物として出てきたなと思った。

主演のクラウス・レーヴィチュはどうも見たことがある顔だと思ったら、どうやら『マリア・ブラウンの結婚』の旦那役であるようだ。ついでに『四季を売る男』の旦那役でもあると思う。
もう亡くなっているようである。

さっそく原作本を買ったが、まだ読んでいない。


『マトリックス』や『攻殻機動隊』を先取りという言われかたもあるようだけど、
ワタシ的にはそれらの映画が後発なだけーという印象なんだよね・・・



あ、そうそう、小屋が吹き飛ぶところは、きたーっ!と思いましたねw
『マリアブラウン~』についで再びのガス爆発!!
(ガスが多少漏れたからってすぐにあんな爆発はしないと思うケド・・・w)


@アテネフランセ
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「スカイラブ」ジュリー・デルピー

2013-04-09 14:20:30 | cinema
スカイラブLE SKYLAB
2011フランス
監督・出演:ジュリー・デルピー
出演:エマニュエル・リヴァ、ベルナデット・ラフォン 他


ジュリー・デルピー監督作を観ました。
ある面予想通りではありましたが、大変ステキな映画でありました。
ロメールやアルトマンがどうしたって記憶や歴史に残るのと同じように、
デルピーの映画も我々の意図とは関わりなく残っていくでしょう。


監督自身が述べているように、この映画には劇的な要素は一切なく、
舞台となるブルターニュの一軒家の主であるお婆さんの誕生日に、
あちこちから集まった一族老若男女の他愛もない大騒ぎを延々113分に渡り写しているそれだけのモノです。

誰でも、誰の記憶においても、実感されると思うのだけど、大事なこと、ずっと残るものは、人生のなんでもない細部にこそ宿っているのだと、改めて思わざるを得ません。
そして、映画はそのことを表現すること、共感を持ってそのことを人に伝えることに優れた表現形式だということも。

形や重みはそれぞれ違うけれど、タルコフスキーやアニエス・ヴァルダやロメールや小津安二郎や晩年のベルイマンなどは、そのことを踏まえて映画の可能性を信じていた作家だと思います。
極めて個人的な出来事の連なりが人の記憶や意識を型取り大切な澱としてずっと残っていくことへの共感は、時代や地域を越えていく普遍性のようなものを帯びる。大げさではあるけれども、そこにこそ映画が地道に作品を無数に更新していくことの一つの意味のようなものが見出せるのかもしれません。あるいは、無数の映画のあとでなお撮る意味はなにかということに対する一つの答えがここにはあるのかもしれません。

様々な社会矛盾に我々は立ち向かい、日々よりよき人生を、よりよき世界を実現しようと動くわけだけど、どこか根本にはこの映画の世界がある、おりに触れ「それぞれの」この映画に立ち戻り、思いを新たにする、そんな映画だと思いました。

*****

カット割も編集も脚本も、どうやっているのか想像がつかないくらいに滑らかで自然。脚本で魅せる力については、以前の作品『パリ、恋人たちの2日間』でも存分に発揮されていて、ほとんどウディ・アレンクラスなのだが、本作でも見事としか…

出演にはエマニュエル・リヴァ、ベルナデット・ラフォン、と、その筋のw人が華を添えているのも嬉しい。
前日にハネケ『愛、アムール』を観ているのでエマニュエルは2日連続で観た^^


スカイラブが落ちてくる話も懐かしい。そう、舞台は70年代なんだわね。
左翼かぶれの俳優一家とかそれと思想的には対立するアルジェリア帰還兵の一家とか。
もしかしたら自分のものだったかもしれない家族の物語。

『ブリキの太鼓』と『地獄の黙示録』の話も笑えた。

惜しむらくは、ギルバート・オサリバンだが、
あそこまでいったらいっそフルコーラスを望むのは贅沢だろうか?


メッセージ性があるとすると、あの少女が長じて得たあの家族のあり方だろうか。
よくも悪くもあの女性のメンタリティはあの一族の記憶と共にあり、人目を気にせず家族の一体感を優先した彼女の行動は、顰蹙とも言えるし、あれを世間が許容すべしという風にも見える。
そこはよくわからない。



@シアターイメージフォーラム
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