Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「イカリエ XB-1」インドゥジヒ・ポラーク

2018-06-13 01:35:30 | cinema



チェコ・スロバキアの1963年の伝説のSF映画。
伝説といってもワタシはよく知らなかったのだが。。

期待したほどの大名作というわけではなかったが、例によって期待値が大きすぎただけで、
間違いなくヨーロッパ周縁臭濃厚な好きなタイプのアレ。

二癖ありそうな濃い人々が集う密室たる宇宙船で、
それぞれの出自やら立場やら政治的背景やらを濃厚に漂わせつつ織りなされる人間模様の一方で密かに進む未知との遭遇。

不可解な現象の中で事件というより人の心がどんどん変調していくドラマになるのはレム的。
不可解の末に出会うであろう未知の存在が「高次な」生命体であろうところは、クラーク的な希望に満ちている。



キューブリックのアレの元ネタになったかも?!という宣伝文句が目立つが、
取り立ててそういうわけでもないと思われた。宣伝だから仕方がないとは思う。

強いて言うならあの生命誕生のアイデアか。あるいはこういう思弁的なもの、
人知の範囲内での刺激的な事件のエンタメ映画でなくてもいいんだという発想には通じるのかも。

宇宙船内で生まれる世代が出るというネタは流石に今はそんなにインパクトはないが、
60年代なら結構訴えるものがあったのではないかしら。
にしても、あれは副船長(だったか?)が妊娠を理由に妻を地球に残してきたことに対する疑惑
(本当にその理由だったのか?)みたいなことに繋がってもいる、
むしろ説話的な仕掛けでもあるわけだけど。

このネタは「2001年〜」のような形で昇華するとまた違うインパクトになるね。
まああれは原作があるのだが。



上映は音が結構デカくて、宇宙船が飛ぶ時のチープな電子音とか、
電子音によるバルトークみたいな強烈な音楽が無防備に耳に突き刺さる。

音楽のズデニェク・リシュカは、シュヴァンクマイエルなどチェコアニメの音楽を多く手がけている人で、
要するにかなり好み。
ラストのクラーク的カタルシスのところだけ妙に大時代的にロマンティックだったのは、
あれもズデニェクの作なのかしら。



レム「マゼラン星雲」を下敷きにしているとのことだが、
あれはレムが自ら封印してしまったといわれる作品であることもあり残念ながら未読。

原作もクラーク的(何度も言いますがw)希望エンディングであるとしたら
レムが封印する気持ちもわからんでもない。

「マゼラン星雲」の内容とか、封印の経緯とかは、別途調べてみよう。
映画はだいぶ話を変えているとの話も聞くし。


公式サイト

@シネマカリテ

 

【追記】
レムが封印した「マゼラン星雲」は、
関係諸氏の努力により国書刊行会から邦訳刊行されました。
なんという感動でしょう。。。

 

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「ラッキー」HARRY DEAN STANTON IS LUCKY ジョン・キャロル・リンチ

2018-06-09 03:28:42 | cinema
これ観たのは4月だった、もうそんなに経ったのか。。

ハリー・ディーンは好きな俳優さんというふうに思ってはいるものの、
あまり出演作を観ていないので申し訳ないのだが、
遺作となればもう無条件に劇場にお金を落とす必要があるのです。

ということで、シネスイッチ銀座に久しぶりに行きました。

基本は田舎町の老人の繰言で構成されているのですが、
老いたところにある蒙昧や聡明、達観や諦めや希望、
過去と現在と未来への幾重にも折り重なった思いが、
絵と音にしっかりと刻まれている素敵な映画になっておりました。

日々の暮らし方を頑固に守り世に背を向けて凝り固まっている一方で、
周囲の人たち、同世代の友人や若い人たちやとても若い人たちとの交流で変化について考え受け入れもする。
考えを深めたり改めたりする。

そういう人としてのダイナミズムへの偏見のない真摯なアプローチのある素晴らしい映画でした。

正直そんなに期待していたわけではないんですが、リンチ監督(デヴィッドではないですねw)良いですねー。




印象に残るエピソードは(ほぼ全編印象深いんですが)、
忌み嫌って殴り合いの挑発までした保険屋さんとダイナーで偶然会って、
彼のちょっとした恐怖体験を聞き、心の中では和解をするシークエンス。

小さな変化のシーンですが、これも冒頭画面をノソノソ横切る亀の映像から、
リンチ(デヴィッドね)扮する友人が語る亀についての理解の変遷から、
ラストのやはり荒野を歩く亀の姿まで、全編を流れる流れの中のひとつになっていて、
密かに感動的。


歩くといえば、全編ハリーが歩く映画でもありました。
繰り返し近所の同じルートを歩く彼。同じ風景ながら、ひとつとして同じ心持ちではない。
「パリ・テキサス」で歩く彼との繋がりでもあろうかと。

あるいは、夜半目覚めてベッドで呆然とするラッキー。
流れる歌の暗い歌詞。
彼の抱えてきた心の闇、しかし劇中では語られることのない闇がひしひしと伝わる印象的な場面。

よく出来ていますなー。


ひとつリンチ(デヴィッド)を思わせる不思議な演出もあった。
夜、友人を追って店の外に出て、不思議な路地とドアに引き寄せられ、
呆然と立ち尽くす。あの感じ。。


そしてもちろん、あのウェディングパーティーでの歌。。。。。。


***

と惹かれつつも、
一方では彼らの考え、言葉遣い、人との関係のちょっとしたひねり、
自我の通し方と多賀の受け入れ方、
みたいのものが、ワタシのいる文化圏とはつくづく違うな〜と思ったり。

彼らのノリはよくわかる気がするし、好きではあるのだが、
もう自分とはかなり違う。異質。
彼らの社会ではワタシは生きられない、、と感じたのです。


この感覚は時々ある。
例えばカサヴェテスの「アメリカの影」とか
えーと、ボグダノヴィッチ「ラスト・ショー」とか観るときと同じ。。

なんとも言えないが、こういうのは多分人の心の奥底というか綿密なヒダみたいなのを映画が捉えちゃったからではないかしら。。



あとDVDとかになったらエンドロールをチェックして使用曲をリストアップする必要があるね!
すべての映画はエンドロールの全情報をネットにアップするようにしたらいいんじゃないかと常々思う。

音楽作品のクレジットも同様だけど。


公式サイト

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