Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「ゴダール・ソシアリスム」ジャン=リュック・ゴダール

2010-12-31 22:01:29 | cinema
「ゴダール・ソシアリスム」FILM SOCIALISME
2010スイス/フランス
監督:ジャン=リュック・ゴダール
監督部:ファブリス・アラーニョ、ポール・グリヴァス、ルーマ・サンヴァール、アンヌ=マリー・ミエヴィル、ジャン=ポール・バタジア
撮影:ファブリス・アラーニョ、ポール・グリヴァス
サウンド:フランソワ・ミュジー、ガブリエル・アフネール


映画納めはゴダールでした。

初のデジタル撮影という話でありましたが、
これまでのどの作品とも違うむき出しの荒々しさ(画像が荒いということではなく)が驚きの映画。
基本自然光で撮った時のデジタルカメラの特性を
よくも悪くもそのままさらけ出してしまう、
そういうところが、批評性という距離感すら超えてしまうゴダールの映画との関わりを想像させて、なにやらぞっとしたりもする。

よりによってそうした映像を、水=海原で始めてしまう大胆さも
驚きでした。
曇天でもなくしかし凪でもない、
降り注ぐ陽光から逃げ場のないあの海辺の厳しさを
そのままカメラに写し取った導入部は
この映画のこれからの80分あまりの困難さ、険しさを伝えて余ある。

はたして、実に険しい三部構成の映画でありました。
常に逆光も露光不足もモノともしない画像で
シルエットと成り果てた人物が語る、そのかたわらでは
自然らしさということを微塵も意識していないであろうサウンドが
時には右チャンネル、時には左チャンネルと耳障りなノイズを重ねて来る。

見苦しく聞き苦しい時間のなか、
思念は常に妨害されながら、ヨーロッパの(禍々しい)来し方行く末を必死に考えている。
辛い辛い思念の第1楽章と第2楽章のあとは
前作『アワーミュージック』にも通じるマッシュアップされたイメージの応酬で挑むのは「人類史」だ。

ここまで来てしまったか。。と思う。
それはもはや自然の色彩さえも大胆な編集の対象としてしまう
デジタルの技術の傍若無人な手つきによって感覚的に訴えられる
終末感。

もはや名作とも必見作とも言いがたい
劇映画とも言いがたい
あらゆる位階を虚しく感じさせる作品
もしこれが本だったら
すり切れて手あかにまみれぼろぼろになり
あげくに惜しげもなく捨てられるような
そういう作品だと思う。

*****

パンフで知ったのだが
この映画の題材となっているスペインの黄金の話は
なんとジャック・タチが生前ゴダールに語った話がもとになってるとのこと!!
こんな形でタチの影が落ちるなんて
意外だねーー


あと、サウンドやばすよ。
フランソワさんのワザさらに極まれり。
ゴダールよりも彼が凶暴なんじゃないか?w
オープニングのピーってのからしてありえん。


もういっかい行くかも。


2010.12.31 16:50 TOHOシネマズシャンテ4F



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介護世代に突入的近況

2010-12-30 04:44:31 | diary
ウチの奥様の母親ですが
かるーい脳梗塞だったので最近は
ウチに来てもらって暮らしていたのですが、

先日外出時にこけて足を骨折。
救急車で搬送されてそのまま入院。

手術で治したんですけど
入院中に大腸がんもわかり、また手術。
進行はしてないようなのでよかったんですが。

で今はリハビリ病院に転院して歩行訓練などをしています。

入院中にすっかり足腰が弱ってしまいましたが
その後なんとか伝い歩きは出来る、
訓練中は短い距離をひとりで歩ける
程度になったようです。

1~2ヶ月で退院できるようなのですが、
まあ家でひとりでトイレに行ける程度の回復だろうと思います。

一気に介護生活に突入の感のあるまにまに家です。
先日職場の某研修で講師が
「介護は突然ずっしりとやってくる」
と言ってましたが、たしかに突然やってきました。



ウチの奥さんはなんというか
生活力があるので
介護認定?とか入院だの転院だのの手続きや交渉を
どど~~っとスゴい勢いでやり、
介護がずっしりきたという感じがないので
まったく感心してしまいます。

まあ、そのことで
「私はすごいんだ」
と自分で言ってしまうところがまた何とも言えぬ微妙さなのですがw


ワタシの両親は
義母よりも10くらい若いので
時間差でそっちの介護も降ってくるのでしょうが
そのときはきっとウチの奥様は
「あんたのおやなんだからアンタがなんとかしなさいよ」というに違いなく
生活力のないワタシはわたわたして消耗するんだろうと思うと
いまから気が重いです。

勉強しておこう。


ウチの子供たちは、ぶつぶついいながらも
頻繁に見舞いにいっていろいろ手伝ってくれるので
いい子だなあと親バカ的。
病院はウチからはちょっと遠いので大変なのですが。

リハビリ病院で働く理学療法士さんほかの職員さんたちも
親切でいい感じです。
そういう人たちを見るのも子供たちにはよい経験だろうと思います。

手術で入院していた病院はもうちょっと余裕のない感じだったので、
やはりいろいろなんだなあ。。

介護というのは介護保険も導入されたし
これからは民間ビジネスとして成長していくだろうか。
未曾有の高齢化社会になると、なんというか
高齢者が貯めた財を切り崩していくことで経済がまわるということになって
それは想像できない社会だなあ・・・


それから、歳取ってもの言うのはやっぱりお金とよき子供(笑)
蓄財と教育に力を入れていこうとちょっとだけ心に誓うのでした。
(上手く行く気がしないんですけども・・・)


という近況です。



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モニターと演奏する快楽について

2010-12-26 03:01:39 | diary
モニターと演奏する快楽について
(というわりとどうでもよいハナシ、かつ写真は本文とは全然関係ないホールのモノです)


先日参加させていただいた第九演奏会。
初の合唱あわせリハを、とあるホールでやったのです。

普段小さな部屋で練習していると、ホールのステージでは演奏するときの音の聴こえ方が普段とまるで違うんでとても弾きにくいのですが、そのホールではいつになく(ってそんなにホール経験があるわけではないんですが)音が拡散していたように思えました。

遠くの楽器の音が聴こえないのですねー。
セカンドバイオリンの後ろの方に座っていると、チェロやコントラバスがよく聴こえない。
木管も遠くで鳴っている。
さらには、自分の周りの人の音ですらいつもより遠い=自分の音が一番大きく聴こえるという、悲しい(笑)状態になるのです。

本番のこういうバランスの悪さはもちろん織り込み済みですので、ある程度覚悟はできているのですが、やはり当日リハで慣れておく必要がありますねー。




本番ステージ上での音の聴こえ方という問題は、大きなオーケストラだけでなく、普通に小さいライブハウスでバンドをやる場合でも同じくあるんですよね。
ライブハウスでは大体「ころがし」とか言ってボーカリストの前の床に小さいスピーカーが置いてあったり、ドラムの横とかギター、ベースの横とかにもスピーカーがあって、そこにミキサー卓からの出音が返ってきてるんですね。

バンドのリハのときは、主にこの「返し」の状態を調整します。
(曲の仕上がりが切羽詰ってなければですがねw)
演奏してみて、「すいませーん、ここにキーボード大きめに返してくださいー」「ボーカル大きめにおねがいしまーす」とかやるんですね。

ここでいい感じに調整できると、自分たちの思ったような音環境で演奏ができるので、気が散らずに演奏に集中できますね。
適当に妥協してしまうと、変なバランスの中で演奏しなきゃいけないので苦しい。

でも大概はそんなに理想的にはいかないのです。
どこかバランスが変だけれども、そこは自分のなかでそういうもんだとうまく変換してやらなきゃいけない。
お客さん相手なので優先は外の音がきっちりしていることで、そのために「中の音」にはある程度制約があるのですね。ベースはアンプの音をあまり大きくできないとか。

だから、本番の演奏って、音環境的にはどこか「演奏する喜び」からはすこしずれたところにある感じがする。外音をきっちりさせるために自分たちの快楽はちょっと削っている感じ。
ある程度はそういうもんだと思うけれども、あまりに苦しい状況だと、いったいなんのために演奏しているんだ?という根源的問いまでさかのぼりそうになることもしばしば(笑)。
ほどよくなんとか楽しくできるくらいの環境が中の音にも必要なんだよね。


最近TVなんかでプロの人が耳に密閉型のイヤホンつけているのが多くなってきたですよね。
(マイケル・ジャクソンが「This is It」で「これいまいちやりにくな」っていってたやつですね。)
あれはどんな感じなんだろう?
モニタリングとしては究極のスタイルで、すべての音を生音ではなくてイヤホンの音で聴くわけだよね?
バランスとかはばっちり調整してありそうだけれど、今度はいわゆる生音を聴きながらの演奏ではなくなってしまうので、バンドとしての臨場感とか音圧とかそういうものからは遠くなっちゃうのではないかなあ?これもやはり完璧な出音を目指すために多少演奏側の快楽はガマンしているのかもしれない。

プロならではの我慢。




話をオケのホールに戻すと、ホール客席での音響設計っていうことはよく聞くけれど、演奏者に聴こえる音、ステージ上での音響設計ってのもやっぱりやるんだろうね?
クラシックではPAでのモニタリングて基本やらないと思うから、いわばナチュラルモニタリングができる空間でないといけないよね。

とはいえ、反射板とかいろいろ駆使して最高の中音っていう環境はある程度できるんだろうけど、ここでもやっぱり最高にしなくちゃいけないのは客席なわけだから、ステージ上での音づくりはやっぱり制約が出てくるのではないのかな?やたら反射板立てると客席での音が悪くなりそうだとか。

と、ここでも本番演奏には演奏する側の快楽をすこし抑制することが必要になってくる。これはもう宿命なのでしかたないんだろうけれど、なるべくならいい音環境で弾きたいよね。
先日のホールのように、自分の音ばかり大きく、低弦と木管は遠く、トランペットだけが後頭部にガンガン響く、みたいなところで必死に指揮者を見てテンポを合わせているとか(笑)そんなのでは「合奏する楽しみ」どころじゃないよなw

本番のホールでは幾分ましであるように願うとともに、これからホールを設計する人とか運営する人には、モニタリングの観点もよく考慮してくださるようお願いする。
などと偉そうにワタシが言わなくても当然考慮されてはいるのだろうけれど。

*****

というわけで、人前で音楽をやる際には、最高の音環境をつくるために、自身は最高とは言えない環境でえんそうをしなければならないことが多々あるというジレンマ?のようなことについて、書きたかったわけでした。

もちろん、一番大事なのは、モニタリング云々というような些事はぶっ飛ばして、ここでオレタチは音楽をやるんだよという衝動のような意志なのだ。
悲惨な環境でも音楽を続けてきた先達に学ぶべきはそこだ。




ちなみに第九本番のホールでは、座る位置もあって割とよい状態で弾くことができ、
楽しい演奏ができましたよ~


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「映画史特別編 選ばれた瞬間」ジャン=リュック・ゴダール

2010-12-21 01:24:33 | cinema
映画史特別編 選ばれた瞬間
LES MOMENTS CHOISIS DES HISTOIRE(S) DU CINEMA
2005フランス
監督・編集:ジャン=リュック・ゴダール


問題作『映画史』の編集版。
もとは全8部からなる長大な作品なのだが・・・というと本作はそのダイジェストなのかーという印象だけれども、そもそも『映画史』自体が膨大な(しかし極端に偏ったw)映画・文学・音楽・写真の記憶のダイジェストなわけで、さらにそのダイジェストだからといってなにかがわかりやすくなったり整理されたりするわけではない。

「編集」が映画の成立において、重要という以上になにかの根幹をなす行為であることをおそらくは人の2500倍くらい感じているであろうゴダール氏は、「映画史=編集」といわんばかりにまあ手当たり次第に壮大なミクスチャーをやってみせたのだが、この特別版も、尺が短いだけで別バージョンのミックスである。

編集によって「別のもの」であった映像と音がつなぎ合わされるときに生じる運動が映画のエンジンだとするならば、乱暴に言えばストーリーだとかプロットだとかという「外部の」説話構造を持たない手法によっても映画は成立するだろう、そしてその方法によって(のみ?)映画による映画史の「記述」は可能だろう。そこに生じる運動性を「観る」ことが映画史の体験である。
・・・というものだろう、とワタシは勝手に思っている。

なので一義的にはぼんやりと(あるいは熱心に)画面を見つめ、音を聴き文字を読む。ときおりワタシという私的な記憶媒体と響きあう場面があり、おおっと思う。映像と文字と言葉のリズムに酔う。字幕を読む苦行が加わる。これを繰り返すことが楽しみである。

一方で、この長大な「編集」にはまた複雑な物語が内在しているともいえる。「編集=引用」としたときに(初めて?)映画による映画史が可能なのだともいえるからだ。作品中の夥しい引用の原点を探り、リストアップし、関係性をマッピングしてみる。引用元について調べ、飲用された理由を推測してみる。そこにはひとつの(あるいは複数の)知の体系(もしくは混沌)を読むことができる。
これが『映画史』の物語である。

この物語はゴダールが紡いだものとして読むことはもちろん、それを読む側の記憶や調査力に左右される観る側の物語でもある。映像と外部を行き来する間に生まれる複数の場である。そういう楽しみもこの作品の「観方」として正しいあり方であるだろう。『映画史』には「ゴダール以降」の作品へのまなざしがない、とか東洋へのまなざしが欠如しているとかで怒るのも、そのような外部の楽しみである。

ワタシという人間にとってみると、後者の「外部の物語」を紡ぐ能力は残念なことにきわめて低く、せっかくの『映画史』体験もあれよあれよという音と像の奔流下りになって最後はおぼれてしまうのが関の山なのだが、そこは幸運にも、「映画史日本DVD制作集団2001」(総合監修浅田彰)による膨大な注釈が映像にリンクする形で付けられた『ジャン=リュック・ゴダール 映画史 全8章』ボックスが販売されている。DVDを観つつ止めつつ注釈を読み、ほほー、へーと感心するのがワタシのスタイルである。

もともとヴィデオ作品でありVHSでの販売のみの形態であった本家『映画史』であるから、このように所有し再生・ポーズ・巻き戻しを駆使するのも間違ったスタイルではあるまいし、DVDになってその「非劇場性」はグレードアップされより「便利に」なっている。
(『映画史』を世界で最初に劇場公開した日本がむしろ特異な出来事なのだろう。)

で、延々と述べておいてナニではあるが結論としては、この「特別編」を劇場で観たワタシは、この止めつ読みつつという行為を封じられたがゆえに、性懲りもなく怒涛の潮流にぐるぐる振り回されてしまい、結果ろくに記憶もできずにすごすごと退散したのです、ということが言いたかったわけです。

特別編も「ああ所有したい!」という欲求が高まったというところですか。

****

全体はやはり8章に分かれているのだが、それぞれの時間が短いがゆえに、章ごとに異なるテーマ(引用のテクスチャーの微妙な違いとなって表れる)の違いがあまりはっきり意識できず物足りない気がしたのは、ワタシの読解力によるものか。

やはり本編?の各章ごとにどっぷり数十分浸かって肌理の濃淡に涙するような観方のほうがよりゴダールに接近できるような気がする。
タイトルを含め、ナレーション等の言葉をかみ締めながらじっくり映像を見ると、時間をかけて迫ってくる映像からはなんとなくなにごとかが伝わってくるものである。ああ、「絶対の貨幣」ってそういうことなのか??とかね。

なので「特別編」でいまいちピンとこないなーと思われた向きには、ぜひこのページで本編DVDをポチっとして、膨大な外部体験込みのDVDを所有し楽しまれることをお勧めする。
(という誘導で終わったりする。)


ジャン=リュック・ゴダール 映画史 全8章 BOX [DVD]
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紀伊國屋書店





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猫沢エミ LIAISON-La fête de NOËL@渋谷Liaison

2010-12-20 01:11:55 | 猫沢エミ
LIAISON-La fête de NOËL@渋谷Liaison
2010年12月18日(土)
猫沢エミ(vo.per)+円山天使(g)+田ノ岡三郎(Acco)



猫沢さんのライブにまたもや行ってきました。

そういや昨年のいまごろに
すっごいさむ~いライブがあったなあと思い出しつつ
今回は渋谷に最近出来たカフェ・リエゾン
普通に暖かい部屋でのライブで安心ですw

リエゾンのオーナーさん?も
猫沢さんのライブでよくお見かけする方で、
昨年には、いつかお店を持ちたいと仰っていたのですが
本当に実現してしまったのですね。
めでたいことです。
末永く続くように、ときどき行けたらいいなと思います。

*****

猫沢さんのライブ
編成は前回に続き、ギターとアコーディオン
最強の組み合わせですね。

アコーディオンはメロディはもちろん
コードでリズムも刻めるしドローンもできるし
ベース的な低音もでるしで、
音の彩りが豊かになってすばらしいです。

前回はわりと静かというか厳粛な感じのする白い箱だったせいか
今回は同じ編成だけどなにか開放感がありました。
客席に近い感じもありました。
座った位置にもよるのかもしれませんが。

前回は席もぎっしり、立ち見もぎっしりで
飲み物の注文にもイケナイしトイレにも行けない的な人口密度だったのですが
今回もまあぎっしりながら少し余裕があって
ほっとしました。
もうちょっとゆったりとくつろいで聴けるといいのですが
まあ、贅沢なんでしょうね~



あらためて歌声を聞くと
やっぱり昔の、というかCDとして残っている声からは
ずいぶん変わってきているのだなあと
思いました。

声質も基本はかわらないにしてもやや太くなっているようでもあるし
それは歌い方というか、歌への気持ちの込めかたの変化であり
また歌い方に幅が出ているということでもあるでしょうね。

以前はどこかつきはなしたような
独特の声がこの世界とは別のところで聴こえているような
そんな感じが魅力でありましたが
いまはもう少し生身の人間が歌う歌に近づいた
そのことでいろいろな歌い方が出てきたって感じでしょうか。

そんなことを思いながら聴いてました。
昔はゾビラムーシュみたいなワイルドなモノは想像できませんでしたからねw



******

<やった曲>

羊飼いの少年へ
C'est vous sur le pont
Les Cafes
私の世界
Zo-wa-zo Oiseaux

Last tango in Paris(アコーディオンソロ)
レントゲン
Attends
I am a kitten
TABACの森
madrigal
Zobi la mouche
Mon petit chat

Mandarin world
Marshmallow-Waltz



レントゲンは久しぶり。
絶妙にいい曲だよね
曲は朝本浩文さん

Attendsもいいんだよねー
CDのフルートがいっぱい入った感じも好き。
今回のアコーディオンが効いた感じも好き。

アンコールの
マンダリン・ワールドも
マシュマロワルツも久しぶり~
前者は熟れ熟れのあふれんばかりの幸福感
後者は生の最後を思う叙情
歌もここでは昔の猫沢エミのままでした。

田ノ岡さんのソロでやった
ラストタンゴ・イン・パリは
すごかった。
あんだけアコーディオンが弾けたらどんなにうれしいだろう。
とうらやましっと。



******

次は1月22日のようですよ。
ギター+アコーディオンにさらにベースが加わるとか
そりゃあスゴい楽しみです。

円山さんギター


田ノ岡さんアコーディオン


焼きカレーたべました。





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「ウイークエンド」ジャン=リュック・ゴダール

2010-12-18 04:47:37 | cinema
ウィークエンド [DVD]
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「ウイークエンド」WEEK END
1967フランス/イタリア
監督:ジャン=リュック・ゴダール
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
音楽:アントワーヌ・デュアメル
出演:ミレーユ・ダルク、ジャン・ヤンヌ、ジャン=ピエール・カルフォン、ヴァレリー・ラグランジェ、ジャン=ピエール・レオ、ジュリエット・ベルト、アンヌ・ヴィアゼムスキー



いやもう正直言って一回観ただけでは記憶がごちゃごちゃなのです。
もう一度観たいのです。

タッチとしては60年代の傍若無人なゴダールがさらにエッジをハードに立てはじめたという印象で、画も音の使い方も実に人を食ったやり方。
基本はどたばた、一切説明なし。

ミレーユ・ダルクが愛人?とベッドで夢で見た淫靡な出来事を語る場面で、唐突にデュアメルの(だと思う)内省的な音楽が濃厚に鳴り出すが、それはどういうわけか音量を随時操作され、小さくなったかとおもうとにわかに会話が聞き取れないほどに大きくなりまた去ってゆく、といった調子。
この音の感覚はもちろんゴダールではおなじみというか普通のことなんだけれども、それでも本作より前の作品たちでは、まだ別種のふてぶてしさにとどまっていたように思うのだ。

同じ時期には『中国女』『メイド・イン・USA』『彼女について私が知っている二、三の事柄』が撮られている。いずれもそれ以前のたとえば『アルファヴィル』『気狂いピエロ』などとはかなり趣が違っているように思える。

このあと68年には例の5月革命があり、その後のゴダールは70年代のほとんどを、人間の手によるものとは思えない作品によって過ごすことになる。その変転は5月革命の影響によるものと考えることもできるが、それ以前にすでにゴダール自身が勝手になにかを掬い取って傍若無人に振舞い始めていたということができるのだろう。

これについてはゴダールが言葉を残していて、引用する。

 私はまだ完全には存在していなかった出来事から着想を得いていたということです。つまり、私はある種の出来事を、―それが存在する以前にではなく―、人々が《それは存在している》と言いはじめる以前にとりあげたということです。
(「ゴダール/映画史 II」、奥村昭夫訳・筑摩書房より)

これは、「ウイークエンド」の翌年に5月革命が起きたことについて、その関係を述べたものだけれど、まあ、革命を先取りしたとか先導したとか(あるいはその失敗さえ予言したとか)いうことではなくて、他の人々と同じように時代の変化の中を生きていて、映画作家としてその変化が形になっていたと、そしてそれはたまたま「事件」として事態が名づけられるより前のことだったということなのだろう。

そういうことで、ワタシ的には『ワン・プラス・ワン』『東風』『ヒア&ゼアこことよそ』とかの恐ろしさよりも、さらに『彼女について~』やこの『ウイークエンド』のほうが恐ろしい感じがするのですね。名付けられる以前に凶暴になってしまった表現者の痕跡という感じで。

また、そういう変転を経て人間離れしたところをさまよったあとの、80年代以降のゴダールを自分なりに考えてみる上でも、この67年ころの作品はなにか重みを持っていると思うのよね。もう後戻りできない人間が生き延びるということ、みたいなことを考える上で。

***************

有名な自動車大渋滞+事故頻発シーンはやっぱり可笑しいよな。
ジャック・タチ『トラフィック』の反映があるね、といいたかったけれど、『トラフィック』のほうが後に撮られているようだ。

自動車がたくさん連なることの可笑しさというのは『トラフィック』以前にも『ぼくの伯父さん』『プレイタイム』でみられたことなので、タチの影響を受けたゴダールということを考えられなくもないし、その逆もあるかもしれない。
最も、タチはあんなに悪趣味に車を燃やしたり死体をごろごろさせたりはしないだろうけれど。

タチの影響をかなり明示的に作品にとりこんでいるトリュフォーに対し、ゴダールはその影響をこれまたふてぶてしく自分らしい毒を注入して我が物にしているという感がある。この資質の違いがまた面白いよね。
(もちろん、両者がタチの影響を受けている、という前提つきの話だけれども・・・まあ、間違いない。)

******

「ゴダール・ソシアリスム」公開記念ゴダール映画祭にて
2010.12.13mon

↑考えたら、以前あった「フォーエバーゴダール」(だったっけ?)という企画のときのラインナップを取り込んだアンソロジーでしたな。





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「ノルウェイの森」トラン・アン・ユン

2010-12-15 08:22:34 | cinema
「ノルウェイの森」NORWEGIAN WOOD
2010日本
監督・脚本:トラン・アン・ユン
原作:村上春樹
撮影:マーク・リー・ピンビン
美術:イェンケ・リュゲルヌ、安宅紀史
出演:松山ケンイチ ワタナベ
   菊地凛子 直子
   水原希子 緑
   高良健吾 キヅキ
   霧島れいか レイコ
   初音映莉子 ハツミ 他



原作のほうには結構前にがっつりはまり、一気に読みたいがために仕事を休んだというくらい阿呆なワタシでしたので、巷で「重い」とか「メンヘルと電波系のハザマでふりまわされる話」とか要約されているのを見聞きしても、そんなことははじめからわかってることじゃん?とか思ってしまうのだよね。

そういう「初期感想」をもう一歩越えてこの映画を語ろうとすると、それはなかなか骨の折れることだよね。できることならそうしたいという気持ちはあるけれども自分にできる自信はまるでないよ。(と先回りで言い訳しておく)

【以下・ややネタバレでござるよ!!】

観ていてまず強烈に感じたのは、人物の語る言葉の異質な感じである。
ほとんど愚鈍なほどに原作中のセリフを忠実に用いている彼らの言葉は、発せられるたびに身がすくむような恥ずかしさを覚える。これは菊地凛子の存在感がワタシ的にはちょっと違和感があることにも関係して主に直子のセリフで強くそれを感じたのだけれど、それでもいちばんぎょっとして心臓が縮み上がりそうになったのは、ワタナベの「常にそうありたいと思っているよ」というセリフだった。
このセリフは、それはもうこの上なく村上春樹的なセリフであって、彼の小説の話し言葉の魅力の根幹を成すような類のセリフである。これが生身の青年から発せられたことで、その異質さが全くの留保なしに現前したのには驚いた。
書かれた言葉としての小説と話し言葉としての映画。これは別物だというのはこういうことなんだなあ、と改めて思うのでした。書かれた言葉を受容していても、それがひとたび身体を持つととたんに奇形性を帯びてくる。

ここで感じた話し言葉の異質さは、もちろんワタシ自身が慣れ親しんでいる時空間における「普通の」「自然な」話し言葉との距離感から来るものなのだろう。この時代のこの環境の言葉。
とするとこの映画の体験は、たとえば過去の邦画を観るときの感覚と似ているだろう。小津や溝口や大島の映画を観るときの「へえこんな言葉遣いだったのか当時は」という驚き。あるいは70年のトリュフォー『家庭』で、日本人女性たちの会話が驚くほど今の日常と違うこと。

考えてみると、セリフの違和感というものは厳密には常に存在するのが映画というものの宿命なのだろう。変転する現実に対して映画は時空間の永遠の?固定なのだから。
とするならば、『ノルウェイの森』もまた宿命的な違和感を持つ点ではほかの映画となんら変わるところはなく、いわば未来を先取りしてあらかじめ違和感を装備して生み出されたものなのだ。
村上春樹という人の世代が生み出した、学生運動の時代を舞台とした、80年代に発表された、しかし時代考証とは無縁な言葉世界を、映像化に当たってその違和感を払拭しようとは考えなかったスタッフは、ただ原作に忠実にと考えていただけにしても、意識的にか無意識的にか、そうした映画の性質に気づいていたのかもしれない。

となると、この作品が日本語ネイティブでない監督脚本によるものだということも考えなければならないように思える。
メイキングビデオをチラッと見たところでは、トラン・アン・ユン監督は役者と会話する際には通訳を立てていたのでおそらく日本語には通じていないだろう。彼は脚本においてはおそらく納得して映画を作っているのだが、実際にあのセリフたちが日本語ネイティブの耳に届いたときの違和感を彼は知る由もないのだ。
実際に脚本を日本語に落とすスタッフとの間にどのようなコントロールが働いたのかは知る由もないが、最終的には日本語ネイティブでない監督がOKサインを出した日本語であるわけで、そこにはなにか複雑な断層があるような気がする。日本語でありながらそれは外国語のような出自と承認を持っているという点で、この映画は実は外国語映画なのではないか?

村上春樹が英語文学の翻訳者でもあることは周知のことで、かつデビュー作『風の詩を聴け』を最初は英語で書き、翻訳するように日本語にしたという逸話もまた知られている(とかいいつつ、その情報が確かなものか確認できないでいるんだけれども)、ということもまた気になる事柄である。
簡単に言ってしまうと、この小説の話し言葉はほんとうに日本語なのだろうか?日本語でない発想で語られた日本語に見えるだけのものなのではないのか?

なにかこういろいろと考えていくと、話し言葉の違和感はこの映画のとても重要な性格のような気がしてくる。親しみやすい耳慣れた言葉に矯正して違和感なく物語に没入できるようにはなっていないことで、この映画はなにかを掴み取ろうとしているのではないのか?そしてそれは村上春樹的なものと通底したなにかなのではないのか?

*******

村上春樹の小説は、言うまでもないのかもしれないが、リアリズムの筆致を用いた徹底的なファンタジーである。そのファンタジー性の形成には、設定やプロットはもちろん、その言葉遣いの異形性も重要な役割を果たしているだろう。まあ小説ならすべてそういう要素は持ち合わせているのだろうけれど。村上春樹の場合はその異形性が発話されることで初めて痛烈に露呈するような微妙な水準にあるということかもしれない。

*******

ファンタジーといえば、村上春樹の場合は特に性交が異様なまでに特権的な意味を持たされるのも特徴的であるよね。彼の小説では、ほとんど魔術のような効用がセックスにはあり、どんな複雑で根深い問題も、あるいは撞着し行き場のなくなった精神も、セックスを扉に一気に説明抜きの解決をもたらしたりする。
この傾向は初期作品から話題の『1Q84』までずっと変わることはない。むしろどんどん顕著になってくる気がする。
この(ワタシには)理解不可能な特権性を真に受けるならば、当然村上春樹の小説はばかばかしくて嫌いになるだろう。女性はこんなに男に抱かれたいとは思っちゃいない、抱いたからって/抱かれたからって人生が変わったりはしない、などなど。
ここについては村上春樹好きなワタシも全く擁護する術は持ち合わせない。どういうことになっているのかは精神分析医とかの出番なのかもしれない。

*************

映像的にはワタシは好みでありまして、冒頭を除き基本曇天、もしくは雨の長く降りしきる天候、あるいは雪と、天候への気の遣いようはいいですね。

それと舞台となる建物・部屋の雑然とした風情はこれまた徹底的に仕組まれている。大学の寮やたまり場は昭和の学生の仮初なアナーキーをよく伝えているし。それだけでなく前作『アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン』でもそうであったように、汚い場所を写したときに得られる言い知れぬ力をこの監督が好んでいるということなのだろう。汚い映画好きなワタシにはこの点もよし。

そして、ときおり倦怠感に満ちたワタナベの暮らしのバックに流れる退廃したロックは、ドイツの誇るグループ、CANの曲である!実はここに一番しびれたりする。CANの曲が映像の雰囲気に合っているというよりは、CANが映像を一気に退廃へと画面を引きずり込むのだ。いいねえ。大変な苦労をして権利を得たであろうビートルズの原曲よりもはるかに映画に密着していたよ。(てか、あのビートルズは別になくてもよかったのでは?と思わなくもないのは、ワタシがビートルズ大好きで聴くと違う風景が浮かんじゃうからかな?)

それから、レコード店店主と、直子のいる療養所の門番には、吹いたw

緑をやった水原さんはなかなかよかったね。原作ではもうちょっと包容感のあるイメージだったけど、こういう繊細な緑もよいね。彼女が発するセリフはあまり恥ずかしくなかった。

一番恥ずかしくなかったのはハツミさんを演じた初音さんだと思う。恥ずかしくないということがこの映画においてはよいことなのかどうかはわからないけれど、彼女は実に素敵だったと思うし、それを感じてか、彼女の表情の微妙な移り変わりを長回しアップで捉えるカメラにも感動した。

逆にこのうえなく恥ずかしかったのは(いうまでもなく?)直子の菊地さんだよなあ。恥ずかしいということがこの映画においては悪いことなのかどうかはわからないにしても。恥ずかしい存在である直子ということも解釈としてはありだよなあ。
でもやっぱりワタシのいだいていた直子とは違うなあ。菊地さん的な鋭い業の深い絶叫系狂気ではなくて、もっと繊細で消え入るような崩壊なんだよね直子は。
ワタシにとっての直子適役は、実は行きつけのスタバの店員さんにいるんだけどな~(笑)

最後にですね、レイコさんの扱いはちょっと残念かも。彼女のギターはもっと意味深くて、二つの場面を通じて物語全体の記憶と印象を包み込んで、最終的には小説のタイトルに説得力を持たせる役割を持っているのだから。直子とともに演奏する中盤と、直子の弔いで演奏する終盤は、ぜひ時間をとってやってほしかった。だいたい、それがないとレイコさんとワタナベくんの性交が、掛け値なしにアホくさく見えちゃうじゃないの(笑)


ノルウェイの森 上 (講談社文庫)
村上 春樹
講談社


ノルウェイの森 下 (講談社文庫)
村上 春樹
講談社





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2010.12.12sun TOHOシネマズ・スカラ座
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「銃・病原菌・鉄」ジャレド ダイアモンド〈上巻〉

2010-12-11 02:36:54 | book
銃・病原菌・鉄〈上巻〉―1万3000年にわたる人類史の謎
ジャレド ダイアモンド
草思社


銃・病原菌・鉄〈下巻〉―1万3000年にわたる人類史の謎
ジャレド ダイアモンド
草思社


「銃・病原菌・鉄―一万三〇〇〇年にわたる人類史の謎」ジャレド・ダイアモンド 上巻

朝日新聞社がまとめた「ゼロ年代の50冊」のベスト1となった本だというので読んでいる。
「ゼロ年代の50冊」は、新聞等で書評を書いている「識者」に対するアンケートで選んだ上位50冊ということで、アンケートは2000年から2009年の間に出た本からベスト5を挙げてもらう内容。151人から回答があり、書名が挙がったのは約620冊とのことで、なんだ、みんなばらばらのものを挙げてるってことでしょうかね?w
それだけいろいろな読書体験があり選択眼があるというのはいいことでしょうね。

そのなかで最高得点を得たのが本書ということです。
本書のテーマが魅力的だというのもあるけれど、同時に、上下巻買って4000円弱という価格がまあワタシになんとか手が届く感じなのが大きかったですねーw。1冊4000円だったら絶対に買ってない。
「識者」のツテなり財力なりも有限ですから、安くて面白い本は読まれやすい=選ばれやすいのかなあ?とか想像してみるのですが。。

****

とりあえず上巻を読んだところなんですが、この本のテーマは、この人間世界の勢力不均衡はそもそもなんで生じているのか?ということで、それはなんとなくワタシもずっと不思議だったんですよね。

少なくともちょっと前までは世界は圧倒的にヨーロッパやアメリカが牛耳っている感じで、いわゆる文明化とか近代化とかいうことも、要するに欧米的価値への社会改変だったりするわけで。アメリカの支配層ももとはヨーロッパからの移民だから、じゃあヨーロッパってなんでこんなに強くなったんだろう?
象徴的なこととしては、海を渡ってインカ、マヤの文明を滅ぼしたのはスペイン人だけど、なぜ「その逆」は起こらなかったのだろう?

ちょっと視野を広げると、ヨーロッパのキリスト教文化圏に対してイスラムの勢力も大きいわけだけど、それだって発祥はなんというかユーラシア大陸の西のほうだもんね。
東のほうには中国の文化圏があるけれども、それもまあやはりユーラシア大陸でのこと。アメリカ大陸やアフリカ大陸、オーストラリアなどにもそれなりに文明はあったわけだけど、どうしてそれらは支配的な勢力にならなかったのか?

本書はその謎を解き明かす論証を、まず1万年前の人類の誕生と変遷から始めている。わくわくするね~。アフリカ起源の人類は各大陸へいつごろ伝播していくのか。人類がたどり着いた時期が遅ければ文明発生の時期も遅くなるということか?

著者はさらに、人間が狩猟採取生活から農耕牧畜生活へ移行する時期に着目する。
植物の栽培や動物の家畜化のもたらすものが狩猟採取のそれを上回り、定住定着生活を人間に選ばせる条件には、気候や野生植物の分布や動物の生態など様々な事柄が関わる。
ここでもやはり問題は単純ではなく、たとえば同様に農業に適した土地にあっても農耕文明が定着したところがある一方、狩猟採取生活が続きついに農耕社会が成立しなかった地域もある。
この違いはなぜ生じたのか?

このように疑問は入れ子状に積み重なっていくのだが、本書はそれを丁寧に端から順に論証していく。
おかげで、上巻のほとんどを費やしているのが、農作物と家畜の発生と伝播に関することだ。この調子で本当に現在まで至る勢力図形成の謎に語り至ることができるのか??という疑念を抱きつつも我々はひたすらエンドウマメの性質や突然変異のことやら、羊やシマウマの性格のことやら、なぜ肉食動物は家畜にならないのかとかいう話を辛抱強く読むことになる。

それはもちろん楽しいもどかしさなのだが。

農耕発生のくだりを先を急ぐように読み進むと、最後のほうに世界の三大大陸の形状の話が出て、ようやく今度は農作物の伝播の話が始まるといった具合で。

少なくともタイトルから察するに、鉄と銃と病原菌の話が出てこないはずはなくw。上巻の最後の最後にちょろっとその兆候が現れるのですが、こりゃあこの先どうなるんだ??と思いつつも上巻を閉じることになるのです。

****

著者の姿勢に共感する点は、文明論や世界勢力の議論のなかでしばしば現れる「民族の優位性」という観点に対し、それは誤りであり環境的要因ですべて説明できるという立場をとる点ですね。
そういう考え方を捨てるのにはやはり丁寧に論理立て物事を理解することが必要なんでしょうね。根拠をしっかり理解するということは重要ですね。
そういうことがまさに優位にいるヨーロッパや文明発祥の地のひとつである中近東で火種になっていることもまた悲しいことですし、また、このアジアの一角で半ば扇情的に近隣国の「国民性」などについて騒いだりするのはなんとも虚しい話ですよ。


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第九でした

2010-12-09 03:52:46 | music
第九でした。

去る12月4日(土)渋谷交響楽団+合唱団の第九演奏会でした。
ワタシは「第九会員」として臨時のメンバーでセカンドバイオリン参加でした。

人生初第九演奏だったのですが、ベートーヴェンのなかでも難しい曲だろうなと思っていました。が、実際弾いてみると!想像以上に難しかったです。

まずなにより、早いパッセージが多く、特に第四楽章ですけど、指が回らない!左手と右手のタイミングが合わない!きっちり弾いてると追いつかない!うひー!とかいう惨状で。
結局最後までごまかしごまかし弾かざるを得ない箇所があり(特に四楽章終盤^^;ドッペルフーガの八分音符部分とか、コーダのところの超絶単純wアルペジオとか)

第二楽章もまた曲者で、1小節に四分音符3つを速いテンポで弓を飛ばし気味に弾き続けるわけだけど、3つなのでボウイングがやはり問題で。個人的にはずーっとダウンアップを交互に繰り返すほうが得意なんだけど、今回はフォルツァンドの箇所をダウンにして、ダウンアップアップダウンアップアップ・・・・・と繰り返す場面があり、どうもリズムも音色も狂いがちで苦労しました。弓飛ばさないならまだ何とかなるんだけれども~

1楽章と3楽章はそういうテクニック的な面ではそれほどの問題はないんだけれど、曲全体の抑揚や表情を考えてパーツの音を出すことがものすごく大事なようなつくりになっていて、1stバイオリンのクレッシェンドを受け取って大きめのところから出発してさらにクレッシェンドするとか、そういう技を積み重ねてようやく面白い演奏ができる。そういう気の配りかたについてはやはり最後までマスターしたとは言い切れない感じでしたな~。



******

全体としては、前半団員のみんなが緊張気味だなあと感じました。ワタシもちょっと緊張してピアニッシモがぶるぶるしちゃったりしましたが。特に木管楽器の音にその緊張成分が含まれていることをひしひしと感じ、その緊張がまた自分の緊張をもたらすみたいな、緊張の連鎖があったかも。

後半にはだいぶほぐれた演奏になったと思いますけどね。

第四楽章は、開始前に合唱団の入場だったので、チューニングもしたりと、肩の力が抜けた感じでした。チェロバスのレチタティーヴォもあれだけの人数と距離感のなか、息のあった感じでよかったでした。(珍しくバイオリンが暇な箇所で楽しいのです)
合唱とソリストが入るので、気持ちとしてそれを支えようという感じになるのでワタシもリラックスしてのびのびと弾いたと思います。あんまり覚えてないんだけど。
真ん中の変なマーチwの前のvor Gott!のブレイクで客席から盛大に拍手が入ったのは思い切り想定外で、上げ弓で弾ききった体勢で固まりつつもオケのみんなは内心のけぞっていたと思います(笑)

マーチに続く複雑な転調をするオケのフーガは楽しみな箇所で、なぜならここは個人的猛練習をした結果ひととおり弾けるようになったからですわw。もともと第九のなかでも一番好きなところかも。

古風な低音族の朗誦のあとのドッペルフーガは最大の難所で、まあ(正直言ってまともに弾けませんでしたよw)。小節の頭のほうだけはなんとか食らいついて弾いたのです。

そして終盤Prestoからはもう勢いでいくしかないのですが、まあ、勢いでいきましたw。
そこはもう最後なので音楽全体を聴いて楽しもう!と決めていたので、合唱や管楽器の高揚を聴きつつ自分も猛烈なスケールなどをがむしゃらに弾いた結果、弾き終わりの3和音の時には、めずらしく感動のあまり涙が出そうになりましたよ。「演奏時不感症」なこのワタシが感動するなんて!(笑)

まあ、冷静に考えてみると、汗かくくらいに激しいことを弾かなきゃいけないんで、スピードもあるし、そういうなんというかスポーツ的爽快感というのかな、そんなものなのかなあとも思いますね。
やっぱり1楽章から全体通じて表現したいものが現前した!というような音楽的な感動つーんですか?そういうことで猛烈に感動したいものですなあ。
(ま、自分が演奏している限り困難なんでしょうけど・・・)



******

会場は渋谷CCレモンホールだったのですが、考えたらあのステージに立ったのか~と今頃感慨に浸るわけです。
ステージで弾いた感じは、思ったよりバランスは悪くなく、リハ時には客席に抜ける音も感じられて弾きやすかったです。
自分が座った位置がほぼ中央木管の前だったからかもしれません。
1楽章などでは早いパッセージをフルートとユニゾンするところもあり、そういうとこではフルートとばっちりあわせてみたりと気持ちよい環境でした。
セカンドが病みつきになるかも??

セッティングとか当日のタイムテーブルとかトラの手配とか、裏では大変な苦労があろうと思いますが、そういうところを知らずにお客さん状態で弾かせていただいて、申し訳ない気もしましたねー
その分撤収作業はがんばらせていただきました~(といっても椅子と譜面台をかたっぱしから片付けただけですけども)

***

打ち上げは普通の居酒屋で、人数が多い上に皆楽器持ってるんで、恐るべき人口+荷物密度のなか執り行われました(笑)まるでブリューゲルの版画でしたわ(笑)

キュウキュウに座ったテーブルでは練習中は交流のなかった方々とお話ができ楽しかったです。
アルコールは一切不可体質なため、会費の元を取るべくバリバリと人の分まで食べたのは内緒です。

このまま団員にという(控えめな)お誘いを幾度か受けましたが、どうも自分の技量はいまひとつついていけないようにも思え、かつ3月以降の仕事の状況とかが見えないので、今回は遠慮しておきました。
まあ次回演奏会はブルックナーということなので、これがブラームスだったらあっさり入団していたであろうことは想像に難くないのですが(笑)


というわけで、楽しい音楽の時間でした。
オケの皆様、大変お世話になりました。
この場を借りて厚く御礼申し上げます~





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レオス・カラックスのDVD-BOX出るね

2010-12-06 04:12:23 | cinema
ボーイ・ミーツ・ガール&汚れた血&ポンヌフの恋人 DVD-BOX~レオス・カラックス監督 “アレックス三部作” ~ [DVD]
クリエーター情報なし
アミューズソフトエンタテインメント



レオス・カラックスの代表作3作が
BOXで出るようですね。

ドゥニ・ラヴァンもいいが、やはりここはジュリエット・ビノシュ。
このころのジュリエットはかわいいよなー
というと語弊があるかもですが。

アレックスにこだわらず
できれば『ポーラX』もいれてほしかった。

三作ともたしか以前廉価版が出ていたと思うので
今出すのはどういうことかな??と思わんでもないですが、
初公開映像もあるようですから、
ワタシは買っちゃいますねーボックスもの弱いんで^^;



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