Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

ジョン(犬)&猫沢の‘ピキ(猫) 追悼ライブ’@銀座ブギウギ

2010-04-30 03:11:50 | 猫沢エミ
ジョン(犬)&猫沢の‘ピキ(猫)追悼ライブ’
2010.4.29thu@銀座ブギウギ
出演:ジョン(犬)
   猫沢エミ(vo.per)+円山天使(g)+坂和也(Key)


猫沢エミさんの愛猫ピキさんが亡くなったのです。
その追悼ライブに行ってきました。

ピキさんの生前の笑い話しを交えつつ
猫についてのうたや、久しぶりのマシュマロ・ワルツなど
世の生き死にについて思いを馳せるようなものを選んでいたと思います。

マシュマロ・ワルツやK、TABACの森などはなにやら圧倒的な説得力を持って歌い、
ここにきてなんだか貫禄のようなものがでてきたなあと思いつつ、
こちらも目を閉じてあの歌声を聞いていると、これはまさにあの声だ、猫沢エミの声だ、となにか一期一会的な感情とともに、ピキさんへの思い(勝手な)やピキさんを亡くされた猫沢さんの思いなどに寄り添って、ついうるうると感じ入ってしまうのでした。

猫沢さんは元気そうで、しかも歌にこれだけのものを込められるのは見事でした。すっかりマダムな風格の猫沢さんの歌。
一つのステキな人生(猫生)があった。これは素晴らしいことだという気持ちを会場の皆も共有したのでは?

ということで、今回はシンプルに。



<セットリスト>
ムッシュ・ダンダン
Filiti can-can
Les Cafés
私の世界
Mon petit chat
Marshmallow-Waltz
TABACの森
K.
I am a kitten(カヒミ・カリィの曲だそうです)
C'est vous sur le pont
T'en va pas
Le Noyee
わたしのピキ


あと、ギター+坂さんのキーボードという編成での猫沢エミは初めて聞いたのだけれど、これはとてもいい編成だと思いましたね。キーボードがあるので音の表情が豊かになりますね。ギターとベースとかだとやっぱりウワもの感に欠けると思うので。

おふたり





【追記】
あと、曲によってボーカルにリバーブをかけていたのがよかったな。
あれは採用!ですね。


*********

ところで!!

冒頭の写真は、オープニングアクトのジョン(犬)さんの演奏風景です。
ジョンさんはオオカミの着ぐるみを着て、足踏みオルガンを弾いて、調子の絶妙に外れたメロディと、関節をぽきぽき外しちゃうような人を食った歌詞で、タラちゃんのような声で歌うのです。

ユーモアは常に必要なのだけれど、これは本当に面白かった。
なんだか骨抜きになったハンス・アイスラー・ブレヒト歌曲集みたいな?

ついジョン(犬)さんのCDを購入。
まだ聴いていませんが。
ジョン・ゾーンのレーベル(だと思う)から出てるんですよね~

Smoke

Tzadik

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猫沢さんとはアルバム「Cafe Tu RONRONNES」で共演しています。
そして、ここで告白すると、このアルバムでの「じゅまぺーるじょ~ん」ていう歌を歌っているのが、このジョンさんなんだ!とはじめて気がつきました。
猫沢ファンにあるまじき失態。
なんですが、あのアルバムのライナーは字がちいさくて老眼にはちとムリ。なのでまあいいか(自分には甘い)


というわけで、
猫沢さんの次回ライブは6月30日
渋谷のカフェ・ドゥ・マゴです。
詳しくはbunkamuraのサイトを探してみてください。


ではでは。。



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「クロワッサンとベレー帽―ふらんすモノ語り」鹿島 茂

2010-04-28 21:40:18 | book
クロワッサンとベレー帽―ふらんすモノ語り (中公文庫)
鹿島 茂
中央公論新社

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「クロワッサンとベレー帽 ふらんすモノ語り」鹿島茂
中公文庫


ツイとものきぃさんにお借りしたパリ関連本。
仏文の教師である著者はどうやら筋金入りのフランスおたくらしく、いままで知らなかったけれどもフランス関連本をはじめとして幅広く大量の著作がある。こういう精力的な活動のできる人がうらやましい。

***

この本は大きく3つの章から成っている。

第一の章は「ア・プロポ」A propos(~について)と題し、世の中の雑多なものごとをひたすらフランスとの関連という切り口で紐解いてみる。
これがすごい勢いで、それぞれが比較的短い文章で歯切れがよい。

挙げられている項目はざっとこんな感じ。

フランスパン、カフェ・オ・レ、ハンカチ、石鹸、産着、ベレー帽、ジャム、クレヨン、メリヤス、マーガリン、リボン、サクランボ、ブラジャー、コック帽、シロップ、ランプ・シェード、紅茶、メリーゴーラウンド、スリッパ、ポテトフライ、乳母車、ソフト帽、トランク、毛糸、人台、クロワッサン、雨傘、公園の椅子とベンチ、四つ葉のクローバー、菊、身繕いセット、ボジョレ・ヌーヴォー、ゲートル、リュックサック、炭酸水、手袋、サンタクロース、ヤドリギ、砂糖、タバコ屋、ガレット・デ・ロワ、湯たんぽ、ヘアー・ブラシ、チョコレート、セーラー服、エスプレッソ、マッチ、絵葉書、フランス人形、チーズ

ふう。

何事も世の中奥深いもので、こうしたものたちについてもフランスの歴史的文化的背景に照らすと意外なことがわかったりするのが面白い。
フランスパンはなぜあの形であの大きさなのか、日本で見る産着のスタイルの発祥は?、ランプシェードはなぜフランスで発展したのか、フランスの代名詞的なクロワッサンのそもそもは?、れっきとしたフランス語であるクレヨンはしかしフランスにはないのだとか、などなど。

雑学といえば雑学だけれど、このように集まるとなにか茫洋とフランスの文化と言うか生活と言うか、そんな奥行きを感じることができるではないですか。パリ好きならばすらすらと読める。

また、ウンチク本といえばそうなのだけど、話がフランスもしくはヨーロッパの外に向かうと途端に手を休め、読者に向けて「ご存知の方がいたら教えていただきたい」とかいっちゃうあたりもほほえましい。



第2章「遠い昔と近い昔」では、やはりフランス的なるものについてその発祥を求めたり変遷を表したり、あるいはその消滅について綴る。
当たり前のことだがフランス的なもの、パリ的なものも時代とともに、その政治・経済的な変遷を背景にダイナミックに変わっていくのであって、そのダイナミズムをよく捉えている。それを大上段に構えるのではなく柔らかなエッセイでやってしまうのも小粋。

印象に残るのは、パリの連中が、どんな状況であれまず「自分は悪くない」と主張するのには、ヨーロッパ的合理性、ともかくある局面において合理的な説明をすることが必要なのであって、正当性はそこにこそ立つのだという伝統に基づいた行動様式だ、ということを、雪の夜のバッテリー交換の苦行の中で悟るところだろう。とりあえず「すみません」「いやこちらこそすみません」というところから始まる日本人の感覚とはまるで違う。その違いに面食らいつつもそういうことを理解していくことに外国で暮らす意味というものがあるのだろう。

またここには、記憶が甦るときのあの神秘的な感覚が、フランス語の構造として表現されていることに情感たっぷりに思い至る「パリの<スー紅屋>」など、生き生きとした文章が魅力。

それと、パリ愛の特徴?というより、何かを愛するものの気持ちを見事にとらえた「だれのものでもないパリ」も。だれにでも「あなただけのもの」と語りかけるパリ。そこを愛するものは誰もが特別な自分だけのパリを持っている。そんな愛情について。



第3章「仏文顔」はうって変わって仏文と著者にまつわる雑感を集めたもので、フランス語を専門としつつもフランス語だけは上達しなかったとか、68年に大学入学したもののあの時代だけにまったく授業を受けず試験だけ受けて、それでも卒業し大学院に行ったこととか、フランス語を修得するにはこうすればよい(もしそうしていれば、上達していたのになあ)みたいな話とか。

ざっくばらん。

*****

鹿島氏の他の著作でもそうなのだけれど、文章は打ち解けて易しく、でも内容は学者肌で事実検証型。単に個人的な思いや経験を綴るエッセイとは一線を画し、常識的観念的なパリ観フランス観をことごとく打ち破っていく、その固定観念を払う姿勢に大変好感をもちましたね。

フランス関係の軽い本はどうも個人的主観的なものばっかだなあと思っていたので、面白い本があってよかったです。

ありがとう^^



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森村泰昌展・なにものかへのレクイエム@東京都写真美術館

2010-04-13 22:54:33 | art
森村泰昌展・なにものかへのレクイエム
3月11日(木)-5月9日(日)東京都写真美術館

「森村泰昌」芸術研究所

初日に行ってみました。
ものすごく面白かったのですが、こういうアート系の面白さを言葉にするのはとてもむずかしい。
ワタシが気に入るのは大概、現実感覚や常識のよって立っている基盤が揺らいじゃうようなもの、見ていて、え?ちょ・ちょと待って、これは??・・・と絶句してしまうようなものなのですな。
森村泰昌氏の活動は80年代からなんとなく気にしているのだけれど、やっぱりそういう幻惑-困惑をコンスタントに作り続けているのである。

********
(以下敬称略)

写真によって、有名絵画などの既存のイメージを「真似る」(それもどこか胡散臭く)ことで、イメージの重層化、重層化されたそれらの間のズレ、違和感と既視感の微妙なバランスを作り出すことが森村のやってきたことだろうと思う。今回の展示作品も基本的にはその線上にある。

今回はまず、「真似る」対象が、歴史的な人物や出来事、あるいは歴史的な人物や出来事の「像」(有名なジャーナリズム写真など)となっている点が特徴的。意識の向き先が歴史的背景や、オリジナルが持つセンセーショナルな衝撃に向かう。そういう記憶と眼前にある極めて胡散臭いレプリカ。両者と地続きである自分自身の過去や認識がなにやら鈍く強く揺さぶられる。

もう一つは動画の導入である。写真的技術の今日的な選択として当然に動画の使用ということが入ってくる。これは極めて自然なことだと思う。
しかし、「真似る」と動画を組み合わせることで、今度は「演じる」という事柄との境界上をさまよい出す。三島の、レーニンの演説を「真似る」森村の映像。そこには、「有名人物を演じる人」を見ているときの安心感はない。「演じる」ことの本質が、実際とは異なる道具立てを用いて想像力を動員して「演じる」不在の人物像を現前させることにあるとするならば、動画において「真似る」ということには、逆にその不在の人物の現前ではなく、人物についての記憶・像・イメージを動員しつつ、そこからのズレ・違和感を不気味な感覚としてまといつつそこにいる森村という偽者があるのみではないだろうか。

このズレ・違和感、あるいは境界感ともいうべき不気味さ、不安定感が充満しているのが今回の展覧会場である。森村はそれに「レクイエム」と名づけ、さらに名指しすることができずに「なにものかへの」と言ってしまう。「演じる」ことによる生き生きとしたイメージの飛翔、あるいは森村が参照したジャーナリスティックな写真が持つ強度、それらに対してここでの作品群がもたらす違和感・境界感・不気味さ・不安定感の翳りは、否定しがたく死とつながっているように思える。その正体を名指すことのできない死がそこには確かに含まれており、それを形象化することをひとつの鎮魂と呼ぶことは、この作品群について与えられうる言葉のひとつの行為なのだろう。

想像だが、森村はそういう卓越した題材選びを、コンセプチュアルにではなく、成り行きで、あるいは必然的に漂着するところのものをやむなく選んでいるのではないだろうか。
森村は自分のこれまでの試み、「真似る」という一種の方法論が、その手法を巡る(動画という)技術的発展にさらされたときに、不意にむくむくと沸き起こってくる無定形な感覚に驚き戸惑いながら受け止めたに違いない(単なる推測)。巧まずして開けた地平に進むべき道を選択の余地なく発見したに違いない。アーティストの創作はおそらくはこのようになにかに導かれて進むものだと思う。
やむにやまれず、余地なくという鈍い衝動のようなもの。それが根底に感じられるのもまた作品の力となっているだろう。

******

作品のもつ「胡散臭さ」の部分は、なにかすごく重要なものを担っているような気がしてならない。
レーニン演説(の真似)のビデオ。舞台は大阪あいりん地区。聴衆は日雇いもままならないであろう労働者たち。ビデオには彼らの愚痴る音声も含まれる。彼らを前にレーニンを真似て大声で芝居がかった演説をしてみせる、そのいかがわしさ。それをパフォーマンスという制度に回収することなく、あるいは記録としてでもない「展示」の作品としてしまうことの内向性。
あるいは、サイゴンでの処刑を模した写真。その背景が白々しくも日本の大通りであることを隠そうともしないばかばかしさ。射殺されるオズワルドの写真。オズワルドが森村自身であることを含め取り囲む大勢の顔かたちがみな日本人であることのばかばかしさ。
あるいはマッカーサーとヒロヒトの会見の場がなぜか酒屋の倉であることのそれ。
これらの胡散臭さは、なぜかそれを笑うことすらできない鈍い重力を持っている。ユーモラスでありながら手放しで笑うことのできないなにものか。

極めつけはあのドイツの独裁者をチャップリンの提示した道化の姿に仮借するという屈折した形で示したビデオ作品。そこではほとんど赤塚不二夫的(?)なほどにくだらないことが行われるのだが、ワタシを含め観客は一人としてクスリとも笑わなかったのが、なんとも印象的であった。



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ユリイカ2010年3月号 特集=森村泰昌 鎮魂という批評芸術
森村 泰昌,福岡 伸一,横尾 忠則,松岡 正剛,日比野 克彦
青土社

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「旅芸人の記録」テオ・アンゲロプロス

2010-04-10 01:44:10 | cinema
テオ・アンゲロプロス全集 DVD-BOX I (旅芸人の記録/狩人/1936年の日々)

紀伊國屋書店

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旅芸人の記録O THIASSOS
1975ギリシャ
監督・脚本:テオ・アンゲロプロス



公開時に見逃して以来観る機会を逸していて
ようやく巡り会いました@ユーロスペース

ものすごい長回しとか、言葉を極力排除したつくりとか、
そういうことは、観ているうちに逆に気にならないものとなり、
それはもとより技法なのではなくて、絵と音と時間に何を求めるかという
作り手のリアリティやセンスの帰結なのだなあと。

そういう抽象的なことを観ている間は考えはしなかったんだけれども。

説明的なことはほとんどなく、でもそこに起こる事柄を注意深く理解しようとしてれば、なにが起こっているのかはある程度知ることが出来て、それは言葉で説明されるよりはより体感に近い感覚なのだった。
そういう体感映画をワタシは基本好むのであって、自分がヨーロッパやその他の映画的周縁地域(?)の映画を発見していった頃の喜びがひしひしと思い出されてくる。

こういうことのもろもろを一言でいうならば、「フランス映画社的」あるいは「BOWシリーズ的」だな(笑)







ということですが、『旅芸人の記録』は好きな映画です。
一座の行く先々の出来事や、その舞台となる一様に古めかしく朽ちた街や建物の風情や、彼らの服装や持ち物。そういったもろもろが、彼らの生きた現実を肌で感じさせて背筋がぞくぞくしました。

20世紀のあの時期に、ヨーロッパの周縁国ではどこでも大変な変動があったわけで、それはつい最近のことでもあり、今現在に地続きなわけだけれど、そのさなかに右往左往した人間にとってはそれはそれは重い経験をしたはずで、そうした出自を持つ映画作家はこういうある種の怨念をあるがままに形にするというやり方で世に出ることは多いだろうな。

自分が避けて生きていくことの出来ない問題意識と向き合うこと。
これが表現や創作のひとつの姿だとするならば、
この作品はそういう真摯なもののひとつの実現だと感じたな。

****

共産主義なのか保守なのか
イデオロギーによって人間が分断され敵対する
その力学は嵐のように巻き起こり、水があふれたようにすみずみまで染み渡ったのだなと。それは旅芸人の一座の生活にもしっかりしみ込んでいく。
時代の意識無意識が形成されるというのは、思考の形成ではなくてそういう「染み込み」の感覚なのだな。
画面が、路地が、建物がいつでも湿っぽい感じで撮られているのもそういうことなのかな、とこじつけてみる。
乾いた感覚の画面はまるで出てこない。いつも雨上がりのような。

その「染み込んだ」意識無意識がもたらした対立や悲劇については、あまり書く気にならない。そういうことと、一座が上演する劇との類縁などについてはすでにあちこちにかかれているのだし。あの映画の湿度の記憶を思い起こすことだけでなにか胸がいっぱいになり、それ以上の言葉が必要な気がしない。

断罪も告発もしていないからだろうか。結論を出すということは整理であって抽象化である。そういうプロセスを持たない形での現前をこの映画は求めていると思うのだ。
だから言葉を費やす気にならないのか。

曇天と湿った石畳。

******

なんかいつにもましてまとまりのないことですみません。


なぜか観終わった頃にひょいと思い出したのは『パンズ・ラビリンス』だった。
あれもやはりイデオロギーで分断された人間の悲劇。
それをどう映画とするのか、その目指す形や方法や結果はなんと様々であることだろう。
この多様性こそが、なにかワタシをふっと救われたような気分にさせるものなのかなと思ったりするわけで。

あとは、音楽や歌(劇伴ではなく画面にいる人間たちが発する音だ)が多く印象的なのは、これはある種のミュージカルなのかなとも。


もう一度観たい~




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「私のように美しい娘」フランソワ・トリュフォー

2010-04-09 01:04:59 | cinema
フランソワ・トリュフォーDVD-BOX「14の恋の物語」[III]

角川エンタテインメント

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私のように美しい娘UNE BELLE FILLE COMME MOI
1972フランス
監督:フランソワ・トリュフォー
原作:ヘンリー・ファレル
脚本:ジャン=ルー・ダバディ、フランソワ・トリュフォー
撮影:ピエール=ウィリアム・グレン
音楽:ジョルジュ・ドルリュー
出演:ベルナデット・ラフォン、アンドレ・デュソリエ、シャルル・デネ、ギイ・マルシャン、フィリップ・レオタール、クロード・ブラッスール


クロード・ブラッスールてどこで見たかな~と思ったらあれじゃん、『はなればなれに』の男二人のうちの一人。(あの映画も男2女1のシチュエーションだね)

そしてクロードのフィルモグラフィを探っていたら、なんとイタリア産地味映画『ピンク・ロブスター』(1980)に出ていると(笑)。
『ピンク~』は日本では劇場未公開で、深夜TV枠でむかーし放映されたきりのドタバタ喜劇なのだ。本筋などはすっかり忘れてしまったのだが、とにかくそのドタバタぶりがただ事ではなく徹底していて、パーティ会場のようなところで主人公が次から次へ細かくしつこくひどい目にあいつづけて、最後には髪も服もぼろぼろでなんか2回の窓から宙吊りになったりしていたような気がする。ここまでひどい目にあう喜劇主人公もめずらしかろうと、深夜のワタシは腹かかえて笑っていた。機会があったらもういちど観てみたいものである。



で、『私のように~』。

ヒロインを演じたベルデナット・ラフォンは、トリュフォーの事実上のデビュー短編である『あこがれ』での清楚で凛としたあの少女であるのだが、『私のように~』では、これがあの少女と同一人物??と目と耳を疑ってしまうくらいに、徹底的なアバズレさんカミーユを演じている。そのびっちぶりはもう見事としか言いようもなく、まさにアバズレさんの現実(とそれに翻弄される哀れな男ども)を描くこと、その一点にトリュフォーの関心はあるに違いない。アバズレ・ドタバタ・ロードムーヴィー。

カミーユの行状はまったくひどいモンで、幼少期の父親事件からはじまり、感化院を抜け出してからは行き当たりばったり、手当たり次第に見境なく男を引っ掛けては絞りつくし、邪魔になったら殺してもいいくらいのひどさ。お金やモノに執着し最初の夫(これもいきづりで引っ掛けた)の母親の隠し財産を平気で持ち逃げしたりする。移動はつねにヒッチハイク。金がなくなると、目に付いた店で水商売。と思うとその店の自称世界一のミュージシャンとまたできちゃったりして、二股ならぬミツマタヨツマタなんでもござれ。やれやれ。

というカミーユの行状は、現在刑務所にいる彼女に犯罪学者スタニスラフ(なんで東欧風の名前なんだろ?)が論文執筆のためにインタビューするという形で、回想のスタイルで描かれる。ところが、こちらの期待通りというか、観察者として外側にいたスタニスラフも、カミーユと何度か会ううちにカミーユの天性の吸引力に引き寄せられて、ろくでもないことに巻き込まれ、最後にはひどい目にあう男どもの仲間入りをする(笑)。回想の物語が最後には現実を巻き込んでしまうというこの映画の作りはなかなかたいしたもんだと思うな。




男たちがまた妙にキャラ立ちしているのよね。性欲と食欲しかなさそうなボンクラとか、好色そうな弁護士とか、頭の薄いミュージシャン(セックスのときにへんなレコードかけるww)とか、童貞かつ道義心にあふれた害虫駆除屋とか。そしてもちろん若くて純真だけどどこか危なげな学者さんも変なヤツ。

全編クレイジーな出来事の連鎖は、偶然だけど『ピンク・ロブスター』的。あるいはジャック・ロジエ『メーヌ・オセアン』をもっとめちゃくちゃにしたような感じか?ロジエに嫉妬したというトリュフォーだけれど、彼だって十分面白い映画を撮っているよ。。

****

「あばずれ」はフランス語ではsalopeなどというらしい。刑務所の看守のおばさんがカミーユを「あばずれよ!」と言うシーンがあるが、そこではなんて言っていたかな。気分が乗ったらそこだけ見直してみたい気がしている。

シャルル・デネ演じる害虫駆除屋が実に可笑しくて気に入った。デネも結構いろいろな映画に出ているね。

カミーユの罪を晴らす手がかりがまた面白い。その関係で出てくる少年の本格派振りがすごく笑えるのだが、そこをネタバレしてはやはりいかんだろう。

「パリまで813」という標識だが、『柔らかい肌』で最初に二人が関係を深めるきっかけとなったホテルのルームキーナンバーも813だったのよね。
トリュフォーはこの数字を好んで使っているってことです。モーリス・ルブランのアルセーヌ・ルパンものの一編『813』に因むものということですね。
トリュフォー作品(『柔らかい肌』以降)見るときは要注意ですね。



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ハスその他の上映?

2010-04-08 01:19:42 | cinema
とある筋の情報によると
アテネフランセ文化センターで
ハス『砂時計』『人形/ラルカ』その他の上映をするようです。
シネマテーク・ジャポネーズ・アーカイブス・セレクション
ということのようなので、
かつて上映した日本語字幕つきのものではないかと思うのです。

4/21-24
CJアーカイヴス・セレクション
『ポケットの中の握り拳』(ベロッキオ1965)
『一万の太陽』(コーシャ1967)
『人形/ラルカ』(ハス1968)
『砂時計』(ハス1973)

アテネのHPには詳細を見つけられなかったのですが、
探るしかないですね。
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「柔らかい肌」フランソワ・トリュフォー

2010-04-07 23:08:51 | cinema
フランソワ・トリュフォーDVD-BOX「14の恋の物語」[III]

角川エンタテインメント

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柔らかい肌LA PEAU DOUCE
1963フランス
監督:フランソワ・トリュフォー
脚本:フランソワ・トリュフォー、ジャン=ルイ・リシャール
撮影:ラウール・クタール
音楽:ジョルジュ・ドルリュー
出演:ジャン・ドザイー、フランソワーズ・ドルレアック

フランソワーズ・ドルレアック!ステキだね!彼女の魅力が最大の見所ですね。
ばたばたとせず、いつもあんにゅいwな(これぞアンニュイだ)たたずまいでいい角度から長い髪に隠れた顔を見せる。肝心なことしか口にしない。それでいてお高くとまったとかいう感じはない。つかのまの恋に心を素直に躍らせるかわいさも見せる。これだけで大成功ですねこの映画は。(興行的にはいまひとつだったみたいですけどね)

姦通のスリルとウキウキの同居をよく捉えているよね。
出会いも、スッチー(と当時の呼び名で)と乗客が一目ぼれ的に心を通わせちゃうなんていう、普通はありえなさそうなことだって実はちゃんと起こる(事実は小説より奇なり)。

その特別な感情を、カーテン越しに靴を履き替えるニコルの足元と、それを見つめるラシュネーの姿で表すのもフェティッシュな感じでいい。

片田舎への講演旅行だって、秘密の旅行だからラシュネーは知人やスタッフにも顔立てないといけないし、ニコルも放っておけないしで、もうバタバタの必死。傍目で見る分にはもう笑っちゃうんだけど本人はもうひやひやなんだよね。その感じもリアルだし、ニコルが一所懸命我慢してでもへそ曲げちゃうのもカワイイ。

ラストの唐突な感のあるアレだって、実際十分起こりうると思うんだよね~。ラシュネーは能天気にというか改悛してというか、振られたからもとに戻ろうって軽い気持ちで復縁を図っているときに、すれ違いであんなことになる。いや~ありそうもなさそうだけど、実はありそうだ。




ラシュネーが、どこがいいんだこいつの?的な中年ぶりもよいねえ。ニコルの心をつかんだのが渡航先のバー?での徹夜の長話だったのだから、中味で勝負!したんだねえ。やるねえ。

ということで、フランソワーズと姦通のリアル、と総括しちゃおう。

*****

あちこちでヒッチコックの影響ということが書かれているが、確かにそれは感じるのだよね。視点のフェティッシュというか、先に挙げたカーテン越しの足元、とか逃避行先でのストッキングの買い物とか、ときどき無意味に?壁がアップになったりするところとか。
あとは基本サスペンスタッチを模倣しているという感じもあって、会食中に「若い女性が面会だよ」といって、ニコルが殴りこみか?!と思わせてじつは単なる・・・ネタバレだねえ。。

トリュフォーは55年ころからヒッチコックにインタビューを行い、66年にはあの『映画術』を出版しているので、どっぷりトリュフォーな時期でもあったことだろう。

*****

ドルリューの音楽がとてもよい。浸れる!というヤツだ。

ラウール・クタールの撮るモノクロもいつも以上に冴えていると思う。

フランソワーズ、『ロシュフォールの恋人』はこの3年後だが、私見ではそちらよりこちらの方が格段に魅力的である。若くして他界したのは残念でしたね。




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「恋のエチュード」フランソワ・トリュフォー

2010-04-06 22:47:28 | cinema
フランソワ・トリュフォーDVD-BOX「14の恋の物語」[III]

角川エンタテインメント

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恋のエチュードLES DEUX ANGLAISES ET LE CONTINENT
1971フランス
監督:フランソワ・トリュフォー
原作:アンリ=ピエール・ロシェ
脚本:ジャン・グリュオー、フランソワ・トリュフォー
撮影:ネストール・アルメンドロス
音楽:ジョルジュ・ドルリュー
出演:ジャン=ピエール・レオ、キカ・マーカム、ステイシー・テンデター 他

文芸路線風。
20世紀初のイギリスとフランスを舞台に、イギリス人姉妹(アンとミュリエル)と大陸人(=フランス人のクロード)の間に芽生える愛情の、それぞれの相を描く。
『突然炎のごとく』と同じくアンリ=ピエール・ロシェの小説を原作とする。

アンとミュリエルは姉妹ながら性格がものすごく違っていて、それぞれがクロードと惹かれあうのだが、当然ながらその愛情の形はまるで異なる。その違う愛の姿を描けること、それを映像にすること、そのことにトリュフォーは倒錯的とさえ言える喜びを感じていたのではないか。そんな感想を抱かせるほどに、細部には妙にこだわり、全体の説話的展開はナレーション(早口な)を多用するなどしてどんどん進んでいってしまう。その作り手の手つきがなにやらほほえましいし、それによってこの映画が「文芸作品」となることに「失敗」し、「官能の映画」となることに「成功」したことは、ワタシの嗜好にとっては幸運なことである。(し、公開当時の興行的失敗をももたらしたわけだけど)

まず強く印象付けられるのは、姉妹の顔つきの違いである。二人とも向こうの世界的な美女ではなくて普通の人。そしてアンは目のくりっとした女性らしい顔つきであるのに対し、ミュリエルは細く鋭い骨格と目を持つ神経質そうな男顔である。これが本当に姉妹なの?
二人に与えられた性格設定が、この顔つきから茫洋と立ち上ってくる人格のイメージにしっかり裏打ちされて、単なる設定以上に観るものに伝わってくるのは、この映画の実にうまくいっている点である。

優しく抱擁感のあるアンについてはクロードとの関係を安心してみていることができる。田舎での幸せなつかの間のロッジ(というかあばら家)生活の気分を、こちらも幸福感を持って味わうことができる。(しかし、デートにさそったらあばら家だったって、現代日本ではまず破局フラグw)

一方で繊細で外には棘を張り巡らせ、しかし内面ではガラスでできた心にクロードへの一途な思いを閉じ込めているミュリエルは、クロードとのやりとりもとても痛々しく見える。3人でテニスに興じるシーンの、逆光を伴う居心地悪い感じは観ていて辛いほどである。(実際そのあとミュリエルは倒れてしまうわけだが)

この感覚の振幅がこの映画の面白いところ(のひとつ)であって、それを彼女たちの顔つきをはじめとした視覚的に想起される内観として体験できるように作ってあるのがいいと思う。まあ、映画ってみんなそんなもんだろうけれど、それが成功するかどうかはあるよね。
その内観っていうのはなんというか、生々しい感情であって、恋愛の映画であるからにはそれはなんとも官能的な気分に通じてくるのは道理というもので。愛の帰結は情事である的な「単純な」この映画のプロットも、実はこの「映画的官能」を成就させるための意識的な(あるいは無意識な)選択なのではなかろうか?とかいう気もする。
プロットから読み取れるゴールはセックスだというような単純恋愛感を、抽象的に捉えてこの映画を観てはいけないような気がするのだな。

最も「映画的官能」が高ぶりを見せるのは、まったく期待通りに、終盤クロードとミュリエルが結ばれるシーンであると思うのだが(性交もそこではじめて直視されるのだが)、ここはミュリエルのガラスハートがとうとう終焉を迎えるところでもあり、和解=終焉という倒錯したドラマが二つのからだの重なりによって文字通り肉感的に感じられる場面である。この倒錯は、男顔ミュリエルとどこか頼りない童顔クロードの交わりという視覚的倒錯によっても裏打ちされているような気がする。そういう多層的な感情の高ぶりを感じさせるという点で、ワタシの中ではベルトルッチ『ドリーマーズ』と並ぶ、美しい愛のシーンとしてこの場面は記憶されることだろう。

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姉妹のイギリスでの住まいが実によいたたずまいですね。荒涼とした海辺の斜面にぽつんと立つ洋館。海を見やることもできるし、斜面の上から家を見下ろすこともできる。日差しはあるけれどどこか寒々しい空気感によく合ったロケーション。

クロードの位置づけもよく考えてみると面白いのだろう。冒頭で説話的にはまったく無意味に骨折してみせるのには、なにやら不思議な意味がこもっているように感じられる。また母親との密接な関係も。さらにはトリュフォーにとっては分身アントワーヌ・ドワネルを演じているレオーが、はじめてドワネルを離れクロードを演じていることについても。

冒頭にあったミュリエルの幼少の頃の写真が、終わり近くに忘れずに再登場するのもさすが。

うまく溶け込んでいつつもなかなかに凝った音楽を提供しているジョルジュ・ドルリューがチョイ役で出ているのもよし。

トリュフォーは晩年のアンリ=ピエール・ロシェと親交を温め、
『突然炎のごとく』の映画化については主演女優の写真をロシェに送って感想を求めたりしたそうである。
ロシェは小説を二作しか書かなかったそうであるが、二作ともトリュフォーによって映画化された。ロシェ自身は映画を観ることなく他界している。




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