Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「まつろわぬ民」風煉ダンス公演観てきました。

2014-10-19 01:41:02 | art
風煉ダンス「まつろわぬ民」

ダンスの公演ではありません。
劇団です。

とりいそぎ今日!19日が最終公演。
でもチケット完売と言ってたか・・・

面白かったので皆にオススメしたかったですが
おすすめするまでもなくチケットは売れるんですね~


この劇団、脚本の林氏と演出の笠原氏は
ワタシの古い友人でありまして
その縁でこうして出来るかぎり公演には出かけるのであります。

が、今回はとくに
ひいき目無しでよかったと思います。

しょうもないくだらない笑い(褒め言葉)と
シビアな現実の問題とが
層をなして押し寄せるような作りが彼らの持ち味でありますが、
今回はその作風は生きつつも、
特に現実の諸問題にがっつり切り込んでいこう
切り込んで負けたっていい
負けても負けても突入せずしてどおする的な気概をひしひしと感じて、
観ているほうもこれは自分の物語なんだと
考えずにはおられない
そんな芝居でした。


現実の半分だけを見て
なかったことにされること・もの・ひと
それでいいのかという思いを
日本の少数民族とか辺境の文化とかそういうものの歴史的なことを色濃く踏まえたモチーフで構成して、
それをなお現在の問題へ地続きのものとして繋げていくところが
彼ららしい発想でありまして、
まさに回帰すべきはこういう側面へであって
決して美しい国とか強い国とかそういうところではないはずなんですよ。

ちゃんと考えてそういうことを伝えてくる
しかも理屈や理路整然としたかたちではなくて
どこかで割り切れない複雑な思いをちゃんとはらんだ形で
えーと要するに演劇というスタイルならではの伝え方を作っていく
そういうことにちゃんと成功している。

成功した結果、ワタシは涙腺決壊を必然としながらも
どこかでそれを必死に耐える。耐えて見届けなければならないんだ
という理屈では説明できない鑑賞?態度で観ることになりました。
鑑賞って感じとはほど遠いけどね。


もうべた褒め。


主役?なのかな?の白崎映美さんは上々颱風の方なんですね。

白崎さん演じるスエの相手役サンベは
おそらくは初出演?の安部田さん
かれは素の演技が恐ろしく自然で面白かったんだけど、
なにより肉体がw
よく鍛えた筋肉に割れた腹筋
いやー演劇は肉体だね!とw

あとワタシはひそかにみぞぐちあすみさんのファンなんである。
今回はテレビリポーターの役割を見事にそれらしくやってのけて感動である。

佐々木潤子さんも今回ファンになりました
あの歌はすばらしい。演劇の歌ですよ。
演劇やる人の歌はいいよね。

つうことで
感想がとっちらかっているんだけど、
魂よ荒ぶれ!
血よたぎれ!
俺たちはまつろわぬ民よ!(涙腺決壊寸前)



20141017@調布市せんがわ劇場
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風煉ダンス・演劇公演『レーニン伯父さん』観た!

2013-07-30 01:43:12 | art
風煉ダンスは、昔の仲間がやっている劇団なのです。

彼らの新作『レーニン伯父さん』
7/29の公演を観てきましたが、とても面白かった!

本格的な会話劇だけど音楽もスペクタクルもちゃんとあってセットも照明も充実した総合的な作劇だった。
脚本も今に生きる我々の物語にちゃんとなっていて考えさせるとともに、??とよくわからないところも残してあっていい感じ。
役者さんたち、とくに妙齢の女優さんお二人がとてもいい演技をされていて感動もの。

日暮里に足が延びる方は興味があったら観に行ってみてください!
7/31までやってます。

****

演劇というか脚本を書いていると、一度はチェーホフ的な会話劇をやりたくなるんだよねー
と脚本の林くんが語っていたんだが、
このお芝居、形式もチェーホフっぽいんだけど、題材もチェーホフっぽく、
おそらくはロシアの田舎の村「モドリノ」にある旧家ぽい家が主な舞台になる。

どうやらそこは帝政からソビエトに移り変わったあとの時代のようだけど、
どうもその村は時代に取り残されたような生活をしているらしい。

その村に暮らす一家のもとに、怪しげな国土調査員?、「偉大な人」、そして以前この屋敷に住んでいた婦人がやってくる。
彼らがこの家にもたらすものは?
そして、村の森に住んでいるという「怪物」の正体は??

****

てな感じではあるんだけど、
激動の時代に生きた人々の人生に思いを馳せつつ、
そこに今の我々の時代を重ねあわせて、
これからの世の中いったいなにが起きるだろう?という問いと
それでも生きていくのだというあらかじめの決意とをもった
今に生きたお芝居だったと思う。

怪物はある面ではあの時代を席巻した恐ろしい力のことを指すだろうけれど、
別の面ではそれは村の繁栄をもたらしたという伝説ももち、
帝政の時代のことでもるかもしれないけど、我々からするとそれはあのバブルの経済力のことを指しているようでもあるし、
その怪物が甦るとはどういうことなのか?と
考えるネタをいくつも提供してくれる。

ほかにもあれこれ書きたいところだが、ネタバレになるし、
ぼんやりした印象のまま楽しむのもああいうお芝居の楽しみかたであると思うのだ。

*****

で、ワタシはやっぱりニーナ(溝口明日美さん)が大好きなんだけど今回も直接は言えませんでした(*^^*)

あと音楽と出演の鈴木光介さんの特殊技能が(ネタバレになるから言わない)!!

あとは、、
いつになくセットががっちり本格的というか、演劇っぽかったw
暗転のあとセットががらりと変わる演出がすごかった。

照明も、昔の機材しか知らないので、LEDなのかな?新しい機材で
びかびかっ!と稲妻を表現したりと、技術の進歩だな~


@日暮里d-倉庫
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「ベルギー王立図書館所蔵ブリューゲル版画の世界」展に行った

2010-08-27 00:36:34 | art
「ベルギー王立図書館所蔵ブリューゲル版画の世界」展に行った

ちょっと前になりますが行ってきました。Bunkamura ザ・ミュージアム。

ブリューゲルって父とか息子とかあるらしく、その作品と人の関係を実はよくわかっていないのですが(調べろ^^;)、このピーテル・ブリューゲル(1525/30-69)てえ人の版画については、ワタシは幼少の頃から親しんでおりまして、今回の展覧会も絶対行くぞ!な決意でありました。

なんで幼少に親しんじゃったのか。
記憶では鎌倉の神奈川県立近代美術館だったと思うのですが、そこで開催されたブリューゲル版画展に、当時小学生(だったと思うのですが)だったワタシを父親が連れて行ったのですね。

その展覧会はやはり盛況で、ちっちゃいワタシはほとんど作品を間近に見ることアタワズ、人の背中ばかり見て退屈した記憶しかないのですが、その折に買い求めた図録には帰宅後えらく魅了されたわけです。

まずはあの魚だの豚だの異形の化け物だのが大挙してひしめく群衆寓意画は、細かく部分部分のなんともグロテスクな肌触りを楽しみましたね。
あれはなんというか、子供の頃って怪物とか怪獣とかそういうのに惹かれたのと通じる感覚だったのかもしれません。
と同時に異国の中世という、自分にとってはまったくの異世界の想像力を覗いているわけで、そこに異国情緒のような感覚もあったと思います。

あとは、構図の傍若無人さというんですかね、メインの題材となっているものの扱い方が可笑しい。例えばですけど「イカロスの墜落」とかだったら、その画は一見はタダの広大かつやたら遠景まで書き込まれた風景画なわけなんですけど、よくみると遠くの海にぽちゃんとなにかが落っこちているのがちっちゃく描かれているとかね(笑)これかい!

それにそういう風景画には大概空に妙に大型の変な形の鳥が飛んでたりするんで、それにも妙に惹かれました。ああ、ここにも変なの飛んでるわーとか。

ことわざを題材にした人物画みたいなものもすごく癖があって、そこにいる人々の気持ちとかを想像して、なんなんだこの世界は?とか異様な気分に浸ったりして。
ブリューゲル作ではなかったかもしれませんが、関連作品で「右に向かって歩く二人の盲者」とかいうようなタイトルのモノがあり(うろおぼえ)、そのイメージにぴったりの曲を以前友人が作ったのでタイトルを借用したりしたもんです。

というわけで、まったく個人的な思い入れに終始してしまおうと思います。
人間の想像力には限りがないのだなと実感できる展覧会だと思います~

東京では8月29日(日)まで、
その後新潟、京都を回るようですね。
http://www.bunkamura.co.jp/museum/lineup/shosai_10_brueghel.html

それと、子供をこういうモノに連れて行った当時の父親に敬意を。
おかげでこんな不肖な息子ができあがっちまいましたよ。
(ちなみに今回、その血を受け継ぐべく我が家のムスメどもを誘ってみましたが、まるで興味がないので行かんとのことでした。やれやれ(笑))

あともちろんこれを企画してくれたミュージアムのスタッフさんたちにもありがとうを。



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森村泰昌展・なにものかへのレクイエム@東京都写真美術館

2010-04-13 22:54:33 | art
森村泰昌展・なにものかへのレクイエム
3月11日(木)-5月9日(日)東京都写真美術館

「森村泰昌」芸術研究所

初日に行ってみました。
ものすごく面白かったのですが、こういうアート系の面白さを言葉にするのはとてもむずかしい。
ワタシが気に入るのは大概、現実感覚や常識のよって立っている基盤が揺らいじゃうようなもの、見ていて、え?ちょ・ちょと待って、これは??・・・と絶句してしまうようなものなのですな。
森村泰昌氏の活動は80年代からなんとなく気にしているのだけれど、やっぱりそういう幻惑-困惑をコンスタントに作り続けているのである。

********
(以下敬称略)

写真によって、有名絵画などの既存のイメージを「真似る」(それもどこか胡散臭く)ことで、イメージの重層化、重層化されたそれらの間のズレ、違和感と既視感の微妙なバランスを作り出すことが森村のやってきたことだろうと思う。今回の展示作品も基本的にはその線上にある。

今回はまず、「真似る」対象が、歴史的な人物や出来事、あるいは歴史的な人物や出来事の「像」(有名なジャーナリズム写真など)となっている点が特徴的。意識の向き先が歴史的背景や、オリジナルが持つセンセーショナルな衝撃に向かう。そういう記憶と眼前にある極めて胡散臭いレプリカ。両者と地続きである自分自身の過去や認識がなにやら鈍く強く揺さぶられる。

もう一つは動画の導入である。写真的技術の今日的な選択として当然に動画の使用ということが入ってくる。これは極めて自然なことだと思う。
しかし、「真似る」と動画を組み合わせることで、今度は「演じる」という事柄との境界上をさまよい出す。三島の、レーニンの演説を「真似る」森村の映像。そこには、「有名人物を演じる人」を見ているときの安心感はない。「演じる」ことの本質が、実際とは異なる道具立てを用いて想像力を動員して「演じる」不在の人物像を現前させることにあるとするならば、動画において「真似る」ということには、逆にその不在の人物の現前ではなく、人物についての記憶・像・イメージを動員しつつ、そこからのズレ・違和感を不気味な感覚としてまといつつそこにいる森村という偽者があるのみではないだろうか。

このズレ・違和感、あるいは境界感ともいうべき不気味さ、不安定感が充満しているのが今回の展覧会場である。森村はそれに「レクイエム」と名づけ、さらに名指しすることができずに「なにものかへの」と言ってしまう。「演じる」ことによる生き生きとしたイメージの飛翔、あるいは森村が参照したジャーナリスティックな写真が持つ強度、それらに対してここでの作品群がもたらす違和感・境界感・不気味さ・不安定感の翳りは、否定しがたく死とつながっているように思える。その正体を名指すことのできない死がそこには確かに含まれており、それを形象化することをひとつの鎮魂と呼ぶことは、この作品群について与えられうる言葉のひとつの行為なのだろう。

想像だが、森村はそういう卓越した題材選びを、コンセプチュアルにではなく、成り行きで、あるいは必然的に漂着するところのものをやむなく選んでいるのではないだろうか。
森村は自分のこれまでの試み、「真似る」という一種の方法論が、その手法を巡る(動画という)技術的発展にさらされたときに、不意にむくむくと沸き起こってくる無定形な感覚に驚き戸惑いながら受け止めたに違いない(単なる推測)。巧まずして開けた地平に進むべき道を選択の余地なく発見したに違いない。アーティストの創作はおそらくはこのようになにかに導かれて進むものだと思う。
やむにやまれず、余地なくという鈍い衝動のようなもの。それが根底に感じられるのもまた作品の力となっているだろう。

******

作品のもつ「胡散臭さ」の部分は、なにかすごく重要なものを担っているような気がしてならない。
レーニン演説(の真似)のビデオ。舞台は大阪あいりん地区。聴衆は日雇いもままならないであろう労働者たち。ビデオには彼らの愚痴る音声も含まれる。彼らを前にレーニンを真似て大声で芝居がかった演説をしてみせる、そのいかがわしさ。それをパフォーマンスという制度に回収することなく、あるいは記録としてでもない「展示」の作品としてしまうことの内向性。
あるいは、サイゴンでの処刑を模した写真。その背景が白々しくも日本の大通りであることを隠そうともしないばかばかしさ。射殺されるオズワルドの写真。オズワルドが森村自身であることを含め取り囲む大勢の顔かたちがみな日本人であることのばかばかしさ。
あるいはマッカーサーとヒロヒトの会見の場がなぜか酒屋の倉であることのそれ。
これらの胡散臭さは、なぜかそれを笑うことすらできない鈍い重力を持っている。ユーモラスでありながら手放しで笑うことのできないなにものか。

極めつけはあのドイツの独裁者をチャップリンの提示した道化の姿に仮借するという屈折した形で示したビデオ作品。そこではほとんど赤塚不二夫的(?)なほどにくだらないことが行われるのだが、ワタシを含め観客は一人としてクスリとも笑わなかったのが、なんとも印象的であった。



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ユリイカ2010年3月号 特集=森村泰昌 鎮魂という批評芸術
森村 泰昌,福岡 伸一,横尾 忠則,松岡 正剛,日比野 克彦
青土社

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やなぎみわWINDSWEPT WOMEN:THE OLD GIRL'S TROUPEなど買いました

2009-12-17 22:10:15 | art
WINDSWEPT WOMEN:老少女劇団
やなぎみわ
青幻舎

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ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展2009日本館公式カタログ
ということですね。
とりあえず買ってしまいました。
中は買うときにパラ見しましたが、
ワタシ好み~~
砂女系~~

後ほどじっくり眺めますのだ。


やなぎみわ―マイ・グランドマザーズ
東京都写真美術館,国立国際美術館
淡交社

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こちらも前に購入していました。
まだ中をみていません。



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「ベルギー幻想美術館」@Bunkamuraザ・ミュージアム

2009-09-12 21:16:58 | art
「ベルギー幻想美術館」@Bunkamuraザ・ミュージアム
行ってきました。

前世紀末・・あ、いや、前々世紀末から前世紀中葉までの
ベルギーの画家を集めた展覧会でした。
特に、フェリシアン・ロップス(1833-1898)、ジェームズ・アンソール(1860-1949)、ルネ・マグリット(1898-1967)、ポール・デルヴォー(1897-1994)の作品が中心となっていました。

その他にデルヴィルやクノップフ、フレデリックなどの、先駆的作品も集められ、写実主義に対する象徴派からシュルレアリスムにいたる系譜を浮き彫りにしようという試みが見られます。

マグリットは10代の頃から好きで、というか10代の人間にストレートに伝わる類いの力を持った作風ですね~と再認識。油彩の独特のてかてかした表面を持つへんてこな絵を眺めつつ、ああ、エッチング作品なんかもあったんだな~と感心しつつ楽しみました。

終盤にデルヴォーが集まっているんだけれど、絵が目に入った瞬間に、あ!デルヴォーだ!という喜びとともに一気に作品世界に引き込まれていました。背景がいつも夜、という印象のデルヴォーですが、やはりいつも夜でしたね~




今回のものはどうやら姫路市立美術館収蔵品で構成されているようで、へえ、日本にこんなにあるんだということですね。いいのかな日本にあって^^;
地震のないヨーロッパにあったほうが良いようなキモしますが・・でも政局とか動乱とかは日本のほうがすくないかなあ??


10月25日まで渋谷東急文化村でやってますね~~


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「ヴィエロポーレ、ヴィエロポーレ」タデウシュ・カントル

2009-05-09 05:39:26 | art
「ヴィエロポーレ、ヴィエロポーレ」タデウシュ・カントル

1980年作の演劇の上演映像を観る機会を得た。

タデウシュ・カントル(1915-1990)はポーランドの前衛演劇家で、1955年に劇団「クリコ2」を結成し、1960年代から世界中で自作を公演している。1982年には来日し、『死の教室』(1975)を利架フェスティバルとパルコ劇場で上演し、各方面に衝撃を持って迎えられた。その模様はNHKでも放映され、それを見た若きmanimaniはTV前で非常に感銘を受けた。

グロテスクで生者とも死者ともつかない人物たちと人形、粗末な家屋を思わせるセット、どこかまがまがしいオブジェ、そしていつ果てるとも知れない動作の繰り返しと不自然にループする音楽、舞台上に不満げに現れては怪しげな手つきで指示を出す演出家自身。
それらはワタシのイメージするヨーロッパの深部にあるくすんだ光と闇を、すぐれて滲み出させた表現であるように思えた。その思いは今も変わらないし、今回映像作品を観たあと一層その思いは深まった。



ヴィエロポーレはカントルの生地である。『死の教室』でもそうであったが、カントルの演劇のモチーフは彼の「記憶」からとられているようだ。それは特に幼少期の記憶であり、またそれに伴う歴史的な影(彼は両大戦、ドイツ軍侵攻、ソ連の介入、共産政権などを経験している)である。記憶はなつかしく生き生きとしたそれではなく、彼においては、繰り返し同じ事柄が立ち現れては心の闇に消えてゆく、扉の向こうからやってきては都度新たに死に行くものとして、死のイメージと深く結びついいている。

「ヴィエロポーレ、ヴィエロポーレ」では彼の子供時代のイメージ残滓である、扉、窓枠、寝台、十字架が立てられた墓などをセットに、記憶にある彼の親族たちや兵隊さんたちがが繰り返し現れては消えてゆく。人物は誰もが死者以上に死者らしく禍々しいイメージをまとっており、できそこない、まがいもの、粗悪品ということばが思い浮かぶ。彼らが、ある時点では意味があったけれども、文脈から抜き取られ記憶に残ることによってその意味を剥奪された台詞を大声で繰り返す様は、それ自体の不気味さとともに、記憶のもつ残酷さに思い至り背筋を凍らせる。
そしてさらに記憶にまとわり付く戦禍や病といった直接的な死の臭い。兵隊たちの土のような顔の薄気味悪さ、病床に付す人形と役者の境界があいまいな存在感、墓をシャベルで掘る子供、カメラを模した機関銃のオブジェ。

日本の暗黒舞踏が表層の禍々しさによってむしろ土着的な民族記憶に働きかけ負の祝祭としての場をつくり我々の深層に手を伸ばしたとするならば、カントルはあくまで個の記憶をその本質のままに具象化することで、個の中の深く暗い滓を通じて、観客がそれぞれ同じく持つ深淵のトンネルから手を伸ばす。ヨーロッパのもっとも先鋭的な表現が、この個人記憶回路を通じて共鳴していったことは興味深い。良くも悪くもヨーロッパのかかえる「個」の重みを知る機会ともなった。

とともに、そこにまた深く共鳴する我々(もしくはワタシ)というアジア人はどのようなメンタリティでここに参加しているのだろうかという問いも生まれる。
「個」が西洋の発明品であり、東洋には近代化の過程において輸入されたものであり、今発見途上にある、という図式は有効だろうか?はじめて「個」を生き始めた東洋人が、西洋における「個」の根深い姿を垣間見て、その圧倒的到達点に途方にくれているのだろうか?
これはなにやらうさんくさい説である。むしろそれらの境界を越えて実は個は深淵で広く回路を開いていたのだということへの気づきがインパクトの意味するところのひとつなのだろう。

たとえば東洋思想によるカントル解題というのはワタシたちにとって興味深いことのように思えるが、そんなことはワタシには荷が重過ぎるのでやらない(つーかできない)。

****

カントルの不条理作家としての血脈も、また刺激的である。
やはりポーランドの先駆的作家ヴィトキエヴィッチのもとで初めて芝居の脚本を買いたという出自。『死の教室』がブルーノ・シュルツの短編を源泉に作られているという説。アンジェイ・ワイダによる『死の教室』のフィルム化。(ワイダが不条理系かどうかは措く)史的に見ていずれしかるべき場所に位置づけられる作家であろうけれども、それ以上に、不断に人類の存立の足元を揺るがし続けるような影響力を保ってもらいたい。もはや故人となった今、カントルの業績はどのように受け継がれてゆくべきなのだろう。

※劇団「クリコ2」はカントルの死後もしばらく存続し、遺作などを上演したようであるが、どうも先細りのようである。
※タデウシュ・カントル記念賞なるものが設立され、ピーター・ブルックが受賞していたりするらしいが、どうもカントルの影響力を世に残していくという機能を果たしているようには思えない。
※2004年ころ?日本において回顧上演・上映・シンポジウムなどが開かれたようである。上演という点では舞台上にいたはずのカントルの決定的な不在などの面で、どこまで有効なことなのか、よくわからない。同じことは例えば寺山修司についてもいえるかも。

****

『死の教室』のインパクトを思い出し、原点に返る思いでいくつかカントル関連書を買い集めてみた。
これとか
芸術家よ、くたばれ!
タデウシュ カントール
作品社

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これとか
カディッシュ―タデウシュ・カントルに捧ぐ
ヤン・コット
未知谷

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ついでにこれとか
ポーランド文学史
チェスワフ ミウォシュ
未知谷

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関連DVDも出ているようなので、リージョンフリーのDVDプレイヤーも買っちゃおうかなあ的勢いである。誰か止めてください。(財布が・・・!)

こいつはリージョン1のようですので↓
Theatre of Tadeusz Kantor (Full Sub) [DVD] [Import]

Facets

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ここにもあるようです。
ポーランド土産にだれかかってきてくださいDVD。
CRIKOTEKA


これは『死の教室』から↓




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「写真屋・寺山修司/摩訶不思議なファインダー」展第1期

2008-12-29 21:12:14 | art
寺山修司の写真ワークスの展示があったので行ってきました。

「写真屋・寺山修司/摩訶不思議なファインダー」展
@BLD GALLERY


もう第1期の展示は終わってしまったようですが、年明けから第2期が始まります。(1/9~2/28)

寺山修司についてはいろいろと知っている割にはよく知らないのですが(なんじゃそりゃ)短歌や映画や芝居やとくれば当然写真だってやっているだろうに、あまり寺山の写真というのは意識したことがなかった。

で、それなりに想像して向いましたですよ。あの天井桟敷みたいな面々が、異形・奇形をさらしつつ廃墟とか場末とかいう雰囲気のところでポーズをとっていることだろうと。
で、行ってみたら・・・まったくそのとおりのイメージが並んでおりました^^;

期待通りなんですけれど、期待通りにしても一定水準のインパクトがあるだろうと踏んでいたのですが、意外にも、写真としての彼らは、おとなしく、企図され、予定調和的にフレームに納まっていたのです。

もしかすると写真においてはその枠組破壊的な寺山パワーはそがれてしまったのかもしれません。とするとこれは結構由々しき問題で。何故写真だけがかれの想像/創造の発露をかくもたやすく馴致してしまうことができるのか?これはよく考える必要がありましょう。。

同じようなイメージであっても、横尾忠則や丸尾末広の提示する画像のほうがその禍々しさに満ちています。やはり絵というものは想像力の本質をぐっとつかむことができるのでしょうか。必要なものは描き、不必要なものは排除する。意識無意識の強権が表現をコントロールします。

しかし写真というものは、どんなに構図や被写体を選ぼうとも、そこには意図するもの以上の情報を含んでいます。ロラン・バルトを引くまでもなくそれこそが写真のもう一方の深淵でもあるわけですが、寺山はその写真の深淵に踏み込むことを意識していなかったのではないかと思われます。あの寺山とあろう人が、あくまで選んだ構図、選んだ被写体、選んだ表現内容としての写真を追求してしまった結果が、このなんともいえぬワタシのちょっとした落胆なのではないでしょうか。

それが証拠に(?)パネルの写真とは別に、写真をいろいろな素材(色紙、銀紙、あるいは写真を壁面や人物などに映写したものを再度撮影、等)で変調した試作物が展示されていましたが、そちらの、写真から離れていった作品群のほうがよほど面白かったのですから。



・・と思いつつも、一方では、これまたバルトがいうように、写真の深淵が口開くのはとことん個人的な体験である、ということも思い出しています。今回のワタシの失望は、寺山ばかりに問題があるのではない。ワタシの個人的な像体験として成立しなかっただけ、でもあるのでしょう。
なので、観る人によっては、トラウマのようにあれらの写真を見ることができるのかもしれません。


写真は面白く、ときに近寄りがたい。

****

とかいいながらこれは購入しました。
写真屋・寺山修司―摩訶不思議なファインダー

フィルムアート社

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バルトの名著
明るい部屋―写真についての覚書
ロラン バルト
みすず書房

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フェルメール展に行ったよ

2008-12-13 00:02:00 | art
フェルメール展@東京都美術館
2008.12.12fri

招待券があったので行かねばと思いつつ
会期最後の平日まで延ばし延ばしにして
やっと重い腰を上げました。
っていうと行きたくないみたいだなあ(笑)

午後一くらいに到着したんだけれど、
入口には長蛇の列。
ディズニーランドかと思いました。
50分待ちの札を持った係の人が最後尾に立っておりました。

平日でこれかあ・・・

結局30分くらいで入場できましたけどね。
こんなに人気があるのかフェルメール。。

*****

17世紀オランダの小都市デルフトを中心に
オランダが短い期間欧州の覇者だった時期と重なるように
絵画の黄金期が築かれた・・・

以前の宗教画から、次第に人物画・静物画・風景画・建築画などへ
絵画の主題は遷り、緻密な遠近法に繊細な光と写実的細部を持つ作品が残された。

ヨハネス・フェルメールはその時期の代表的な画家であるが、現存する作品は
30数点。
そのうちの7点が来日したということだ。
うち5点は日本初公開ということで。


ざっとこんな内容ダッタかな(おおざっぱすぎ)
確かにフェルメールの作品はすごかった。
室内画の窓からかすかに入る光のやわらかな広がり
それによって作られる調度品などの陰影の細やかさ
描かれる人物のちょっとした身振りの生命感
それでいて派手な主張がなく、まったりと、しかし芯を失わない
たおやかでなめらか、しかしちょっとした皮肉のようなものも隠し味として臭わせる、これぞ究極のメニューにふさわしい1品じゃ!!

あら?いつのまにか美味しんぼになっている^^;

フェルメールはタイムマシンで未来から来た画家だ、という
トンデモ話があるくらい、その作風は写真風
ハイパーリアリズムに光の魔術師的
この絵の床のモザイクタイルとかそこに落ちる光と影とか
後ろの壁の薄暗い光とか、ステンドグラスとか、
こういうのはどうやって描くんだろう??



*****

絵画を見るというのは
ミュージシャンのライブに行くような感覚と同じかもしれない。
写真(レコード)では味わえない絶妙な肌理を目の当たりにして
ああ、やっぱり本物は違うなと感動する。

ライブが巨大ホールよりは小さなライブハウスで聴くほうがずっといいのと同じで、
絵画もしかるべき環境でちゃんとした照明のもと見ると全然ちがうのだ。

で、今回のフェルメール展は、いわば大ホールクラスのライブだった。
箱はいいんだけど人の数が多いという点でね。
きっと休日は巨大ドームクラスになるだろう。
ヘタするとネットごし観戦になるかもしれん。

というわけで、ドームでポールマッカートニーを聴いたときのような気分で帰って参りました。
ま、それでもいいんですね。
なにしろ本物を見たんだから。


フェルメール展は12月14日(日)まで
あと2日しかありません。

ちなみに有名な「真珠~」や「牛乳~」は来ておりませんです。

あ、そういやグッズ売り場にリュートがおいてあったので
売り物か?!とか思ってダッシュで近づいたら
装飾用においてあるだけでした
そりゃそうだよな・・・




トビカンに行くとつい撮ってしまう写真↓



フラクタルな感じの冬の樹木~




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ヴィルヘルム・ハンマースホイ展

2008-11-09 00:07:21 | art
去る連休最終日に家族でいってまいりました
ヴィルヘルム・ハンマースホイ展@上野の国立西洋美術館
招待券があったもんですから・・

おおかたのひとがそうであろうように
ハンマースホイという名は初めて聞く
よのなかには知らないことのほうがはるかに多いということに
あらためて思いを至す。

なわけで、例によってまったくなんの事前知識もなく観たのですが、
ハンマースホイさんはちょうど19世紀と20世紀の境目で活躍したデンマークの画家だそうで。ワタシの世代の生まれたほぼ百年前に生まれた人だ。

100年前の北欧というのはどういう時代だったんだろう。
ちょっと調べてみたけれど、あまり主だった出来事はなく、
国力の衰退をなんとか生き延びている時代だったようである。

そんな時代でも、というかどんな時代でも自分の思う世界を表現する芸術家はいるもんで、そのことは自分が生きる上でなぜか励みになっているのだった。

・・なんか話が制御不能




絵については、だいたい時系列で作品が展示され、人物画からはじまり、風景画、家族や友人の肖像画、人が背を向けている部屋の絵、と変遷していき、最後には誰もいない部屋を描く静謐な作品となっていく。

部屋も家具や雑貨など生活の匂いのするものはいっさい排除し、壁、扉、床という基本構造のみを、グレー、茶、深い青などのしぶ~い色で描くという、およそ色気のないもの。

このモノクロ感的色彩の感じ、この静けさ、この薄暗さは、
う~~ん、ど こ か で み た よ う な・・・
・・と思っていたら、
ああ、そうだ。
タルコフスキー『サクリファイス』の室内の光だ
ゴトランド島の曇った空の光だ
と思い至ったのでした。

昔から、曇り空が好きでした。
雨は降らないけれども、なんともやるせない薄い灰色の雲が
空一面を覆う日の午後には
きょうはいい天気だ・・などとつぶやいたものです

そういうアンニュイに居場所を見いだした人ならば
ハンマースホイさんの絵の光を
深い一体感をもってみることでしょう。


11月21日までだそうです。
【追記】↑間違い!!12月7日までです!!


***

ちなみに子供たちは早足で全部見てあとは出口近くのソファーにすわってだらだらしてました。
君たちには10年早いね(笑)

観終わったら御徒町方面へ出て、釜めし春で特上釜めしをいただきました。
すんげ~美味しかったですよ
美味しくて涙が出たですよ。
なんども通っているのに都度感動する釜めしでした~
(けど行く度に値上がりしている気もするが^^;)


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芝田文乃写真展「いったりきたり日記/2007年版」

2008-11-07 12:39:00 | art
もうすぐ終わってしまう~ので
あわてて書き書き。


芝田文乃さんは写真家でポーランド文学翻訳者でもある方。
ワタシはさいしょ、スタニスワフ・レムの小説の翻訳をやってる方、という認識でおりましたが、サイトなどを見るに、写真もやられているということを知り。
のみならず出身校が同じで、出身県も同じで。

というわけで昨年の「いったりきたり日記」展におじゃましてみると、
共通の知り合いも多数いるらしいことも判明し
いや~世の中ふしぎなところで人はつながっているもんです。


さてさて、写真ですけど
いわゆるアーティスティックな写真というかんじはしません。
作為のない現実の一こまを切り取った風景や人物が
ノートリミングで提示されます。

よくぞこんな瞬間があったな/撮れたなと思う反面、
それはどこにでもありうるなんでもない非特権的な風景でもあります。

撮った者の主観は消え入りそうなくらい希薄で
でもさりとて「これがありのままの現実です」という映像の欺瞞には陥らない
そんな微妙な位置にある写真たちでありましょう。

そういう微妙さをしれっと体現してしまうのが写真の面白いところです。
写真は面白い。


なんて構える必要は実はなく、
被写体となったモノや人の有様に思いをはせてみたり
絵としておもしろいよな~と笑ってみたり、
そういう気楽な楽しみで接するのがよいのかなと思ってみたりもしました。


まどろっこしいですけど、そんな感想でした。

新宿三丁目で11月9日までですので~
詳しくはこちら


****

会場で流れていたのは蜂谷真紀+加藤崇之の即興演奏CDだと思いますが、
・・・ものすごくなつかしい音がする!

昔はこんな類いの音楽をやっていたなあ(回想モード)
いや~まったくもってなつかしい
かきむしるギターにからみつくボイス

我々の先達にはフレッドフリスやその周辺のひとびとがおり
さらにさかのぼればフルクサスとかジョンケージとかにもたどりつくだろう

今もまだこういう作業は有効なんだろうか?
形を排した発音の場は、人々の意識のどのへんを変えるのだろうか?

***

そういや会場でもらったチラシをそのまま書き写してみます↓

板倉克行pf.リーダーライブ!
11月29日(土)@Jazz gallery「ときみつうし」(中野ピグノーズ内)

open 19:00 1ststage 20:00~ 2ndstage 21:30~
蜂谷真紀vo.
板倉克行pf.
芝田文乃 スライド上映

セルビアの詩人カラノヴィッチの詩にインスピレーションを得たオリジナル曲を、映像を交えて本邦初演いたします!

料金:ワンステージ2000円(2オーダー付き)
   2ステージ3200円(2オーダー付き)


ワタシは行けるかどうかまだわかりません~





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前大道慎二+松本里美 版画二人展

2008-10-11 23:36:59 | art
前大道慎二+松本里美 版画二人展
@表参道画廊

今日が最終日だったのですが行ってみました。
松本さんとは初対面ですが、以前某所でクストリッツァ『ドリーベル~』を観たときにネットを探ってみたところ、同じ場に松本さんという方がいたということが判明し、かつその方は銅版画をやる方で、しかもサボテンのボーカルの人で、ソロアルバムを出していらっしゃる、ということがわかったので、それからずっと興味があったのです。

くどくどした文になってしまた。

ソロアルバムには近藤達郎さんはじめけっこうそうそうたるメンバーだしこれは入手したいと思い、入手するならご本人に会える機会がいいなあと思っていたら、版画展をやるということだったので、外出のついでに寄ってみました。

またくどくどになってしまった。




ブログ等で拝見していたのは、深いブルーグリーンを基調とした渋めのイメージでした。わりと好みの感じだなあと思っていたのですが、実際作品をみてみると、そういうタイプ以外にも、赤や黄などを柔らかく使った浮遊感のあるものもあり、そっちもなかなか良い感じでした。




↑写真のは、ジェリー状の海に上向きの力が働いて、船が今浮き上がり、水もぼちぼち浮き上がって来たなあというタイミングのような絵で、その上への力感がとても気に入りました。ご本人もちょっと触れていましたが、その浮遊感はちょっとシャガールを思わせもするし、あるいはクストリッツァの映画に出てくるような飛翔ともちょっとつながっているのかもしれません。

家に飾るならこれだな~と思いつつ、お値段をみてほよほよ~~~



他に小さめのコミカルな作品もいくつかあり、なかなか笑えました。スルメ二人が微妙な表情で肩を組んでこちらをみている「スルメンズ」はいま一押しのキャラだそうで、よかったですよ。スルメンズ。


ソロアルバムも入手しました。
版画集とCDのセットという豪華装丁版で、モノとしてうれしいものでした。
音のほうは、手作り感あふれる渋めの歌曲集という感じ。80年代のアンダーグラウンドな歌作りの試みから、良い部分が残ったという風味でした。あの頃の歌ものバンドをいろいろ思い出します。ルナティック・アンサンブル、チャクラ、アフターディナー、ゲルニカ、サボテン(ああ、本家か)・・・
Bronze&Willow
松本里美
インディーズ・メーカー

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あ、そうそう、中に小さな版画が封入されていました。
何種類かあるそうです。
ワタシのは、ハスの葉に~かえるが二匹~水面に輪~
みたいな風情のものでした。1199/1500とナンバリングされていたので、
もうすぐなくなっちゃうのかな?

****

一方の前大道さんのほうは、同じ銅版画か?というくらい作風が違っていました。力強い線を黒を基調とした色がっしりと支えて、異国の古い巨大な工作物・・という感じ。
と思えばまた小さい象のラフなスケッチみたいなかわいいものもあって、松本さんもそうでしたが、こうやってちょっと遊びも混ぜてモノ作り/モノ展示をするというのはなかなかいい感じだと思いました。

*******

思っていたよりもずっと楽しめたので良かったです。
こういう創作をする人の話を聞くのは刺激になります。
ワタシもがんばっちゃおうかなっとか思いつつ
次の目的地、チェンバロ自主練習に向ったのでした。。


表参道~ 風すきとおり~ 秋の雲






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バウハウス・デッサウ展@芸大美術館

2008-06-17 21:18:03 | art
バウハウス・デッサウ展@東京藝術大学大学美術館

ちょっと前になりますが、某所で招待券を入手したので行って来ました。
下の子と。
小学生は無料です。

芸大の美術館は初めて行きましたが、たしかここには昔ぼろっちい校舎が建っていたよなあというところに、真新しい美術館ができていました。世の中は変わる。

*******

子供と一緒だったのでゆっくり見られませんでしたが、見た限りでは、
バウハウスは、素材や加工技術といった基礎技術から、デザイン・製作までを一貫してアートな思想に基づいて修得・実現しようという、
いまでこそ考えられるけれど当時は斬新な発想で作られたのだ、というような理解をしました。

名称が示すようにその最終目標は建築にあったということで、建築概要図や模型、実物大の部屋造形などの展示がありました。

そのほか、バウハウスは20世紀初頭のいろいろな芸術運動と同じく総合造形を指向したということも感じられ、
生活用品などの工業製品や、空間構成、写真、舞台芸術と幅広い分野での試作品等の展示もありました。

講師陣にはカンディンスキーやモオイ・ナジなどのビッグネームも名を連ね、このまま運動が継続していたならばそれはきっと、ル・コルビュジェが現代の建築に与えた決定的な影響と同じように、現代の生活デザインのありようを少し違った形にしていたかもしれません。

実際は運動の興隆のさなか、ナチス政権による復古主義・反共産主義のなかに解体されてしまうことになるのですが。

しかし、わずか十数年の活動期間でありながら、生活のあらゆる局面を合理主義的・機能主義的藝術としてデザインするという発想は、現在の産業に大きな影響を及ぼしているに違いありません。

****

てなことを考えつつも、実際凝ったデザインの椅子やらコーヒーポットやら部屋のデザインやらをつくづく眺めるに、
なんか使いにくそお・・・・
という感想が自然に湧いてきたのも事実で
本当に機能主義的なんだろうかあれは(笑))

実際椅子は座り心地のいいのが一番で、そういう面では、今の欧米的生産デザイン界は、
こういう遺産を継承しつつ着実に進歩したのだといってもいいのだろう、と思いましたね。


それから一番ウケたのは(決してウケを求めてるわけでもないんですが)舞台芸術ですかね。
CG再現によるバレエなどを上映していたんですが、
奇抜な被り物で大真面目に怪しげなバレエを怪しげな空間で踊る姿は、
やはり舞台芸術にどこか付きまとう「何をやっているのだろうこの人たちは」的非日常の可笑しさ(これは否定的可笑しさではないと思うですが)の極地を歩んでしまっていて圧巻。

家に帰って子供と一緒に家族の前で実演再現してみました(笑)

バウハウスは当初は多分に表現主義的な要素を持っていたが、次第に合理主義・機能主義中心に移行していったというが、あのバレエたちはかなり表現主義的だったなあ。




写真は上野公園芸大近くのキリンさんと子供。






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芝田文乃さん

2007-11-04 05:50:35 | art
ああ、しまった!
今日までではないですか!
もっと早めにUPしようと思っていたのに、いつのまに・・・

というわけで、写真家にしてポーランド文学翻訳者、本の装丁やCDジャケも手がける芝田さんの写真展は、11月4日(日)今日まで、新宿です。


ワタシは11月1日、ちょっとどんより天気のなか行ってきました。
職場からあるいて30分くらいかかったよ。新宿は広いね。

というわけで、以下mixi日記からのコピペです。
手抜き~(というか体力なくて)


***********************

昨日は芝田文乃さんの写真展に。
新宿三丁目の、およそこのなかに店舗とかがあるとは思えない小さいビルの4Fにギャラリーがあり。
3階は怪しげな下着屋、5階は怪しげなカフェ
エレベータもないのになぜか長続きしているのが不思議・・というのは芝田さんのブログにあるとおり。

写真は東京とポーランドのちょっとした風景を写したもの。
廃墟、閉鎖されたビル、工事現場。
ローラーブレードで疾走する子供、車椅子で線路沿いの道を行く老人、駅?でたたずむ母子。
恐ろしい数の鳥がいっせいに羽ばたく街の空。

モノクロプリントの縁が切り取られたような直線ではなく、ムラのある丸みをおびた感じがいい。
訊いてみると、プリントのときのネガキャリアの枠を削るんだそうです。0.5mmくらい。
そうすると縁がシャープでないプリントができる。
これは、いい感じというのもあるが、トリミングしていない、ということなんだそうだ。

絵としての完成度を求める写真もあるが、もっと写真の怖い面、ただ機械的に景色と時間が写ってしまうという即物性にこだわる写真もある。トリミングなしにこだわる芝田さんの写真は、どちらかというと後者なのだろう。写っているものにも写す者にも特別な権利を与えない。



***

という写真の話よりも、スタニスワフ・レムの話をたくさんしていただいた。
なにしろ芝田さんは写真だけでなく、レムやムロージェクなどのポーランド文学の翻訳もされている方。
そもそもレム好きが高じてポーランド語の勉強をされたそうで。

展示してある写真も、ポーランドの、というより、旧ポーランド領で今はウクライナ領となっている、スタニスワフ・レムの生地ルヴフの町。
ギムナジウムや通学路、公園。レムゆかりの地を、なんでもないように写している。

亡くなる少し前にレムに会ったときの話をたくさん聞いた。
・ポーランドの政治にはほとんど関心を持たず、情報源は主にドイツのTVや新聞。
・インタビュー慣れしているので怒涛のように話が流れ出てくる頭の回転の早さ。
・実際に面と向かって勃発したというタルコフスキーとの喧嘩のこと。
・ソダーバーグの「ソラリス」を観て「あれならタルコフスキーのほうがましだ」といったとか(笑)

などなど

ほかにもブルーノ・シュルツの故郷ドロボビチのこととか(いまは荒れ果てた街らしい)



小一時間ほど話して、レムの「高い城」の扉にサインをいただき、記名簿に名前を書いて、さようなら。
楽しかった。


***

ちなみに芝田さん、ワタシの出身校の1年後輩でした。
共通の知り合いもいたりして、うむむむ、奇遇なり。


展示は11月4日まで


ところでナガミミヨザルとは・・なに?




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レオナルド・ダ・ヴィンチー天才の実像@東京国立博物館

2007-05-14 01:02:28 | art
レオナルド・ダ・ヴィンチー天才の実像@東京国立博物館

みてきました~「受胎告知」

この特別展は大きく分けて二つのものを展示していた。
第一会場ではレオナルドの「受胎告知」の展示。
第二会場では「手稿」などをもとにレオナルドが何を考え残したかを、模型や映像技術を用いて視覚的に展示していた。

「受胎告知」はいろいろな点で興味深く、なんだかんだと小一時間くらいながめてしまったのではなかろうか。
本物のオーラというんでしょうか、印刷で見る印象とはかなり違い、遠景ははるか遠くかすみ、近景は浮き出るようにはっきりとしていた。
天使ガブリエルの羽根は妙に生々しいな~、とか、意外とマリアが暗めだな、とか、書見台がパースが変だよ、とか、ガブリエルがもっているのは百合かあ、とか、遠くに見える立ち木の形が妙に整い過ぎ、とか、遠くに船が浮かんでる~、とか、横にある建物はどこまで続いているんだ?、とかとか

広大な部屋にぽつんと絵が1枚おかれていて、観覧する人は絵に向ってジグザグに列を作り、「絵の前では立ち止まらず、進んでくださ~い」とか言われながら進む。
なので、最前列から2列目のところに立ち止まって、じっくり観たあと、細部は最前列に進み、牛歩戦術で見てきました。



第二会場ではいきなり人力飛行機の大きな模型に目を奪われる。
でも説明書きに「実際に飛ぶことはほぼ不可能である」とある。
そのほか、さまざまな機械や装置を考案しつづけたレオナルドさん。しかしよく考えると実現したものはほとんどなく・・・絵画ですらちゃんと完成したのはあまりなく・・・
レオナルド、君は本当に天才なのか??という疑問がふつふつと・・(笑)

しかし、物事の正確な観察に根ざす徹底したリアリズム感覚は、非常に現代的というか、まさに科学者マインドなわけで、その点には非常に感心した。
だからこそ絵を書きはじめる前に解剖から入ってしまって、肝心の絵が完成しないということにもなるわけで。
なんだか都市が早い段階で発展したイタリアに住んだルネサンス都会人って感じがするよ。

***

レオナルド・ダ・ヴィンチと受胎告知

平凡社

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で、↑↑↑この本を読んでみました!
まさにこの展覧会をターゲットに書かれた本ということで、とても面白かった。

この本の前半は、レオナルドだけでなくルネサンス期の「受胎告知」を題材とした絵画に共通する特徴などを解説するもの。
当時頻繁に用いられたモチーフがいくつかあるそうで、たとえばマリアに入り込む精霊を象徴する鳥が描かれるとか、そういったもの。

で、そういうトレンドに照らしてみるとレオナルドの「受胎告知」はかなりそういう王道からは外れた、というか、よけいな象徴は描かない、特異な表現であることがわかっておもしろい。
象徴はマリアの処女性をあらわす百合くらいかもしれないな。


後半はレオナルドの「受胎告知」の解説。
展示の第二会場では、「受胎告知」を分析する映像が上映されていたが、それによると、「受胎告知」は絵の斜め右から見ることを想定して描かれたのではないか、という。
これで書見台のパースが変なのとか、マリアの右腕が異様に長いのとかが説明できるってことらしい。

映像を見た時は納得し感心したのだが、しかしこの本によると、それは最近になって一部の研究者が唱えはじめた説であるらしい。
で、その説については、この本では、
○あくまで画面中央に消失点があること。
○そういう視点による絵のゆがみを把握して描くことができたならば、もっと精密に描いたはずである。
という2点から、やはり正面から見るべきなのではないかと、やんわりと異を唱えている。

う~ん、どちらが本当なのかはわかりませんね。


あとは、当時のは工房(職能集団)に所属して、集団で絵画や彫刻を製作していたという事情から、「受胎告知」もレオナルド一人の手によるものとするよりは、複数の人間によって製作されたと考えるほうが自然だと言うこと。
「受胎告知」は、最初の段階では複数の人間の手が入り、仕上げはレオナルドにより行われたのではないか、ということ。

などなど、「受胎告知」に関してコンパクトにまとめられている本でした。
受胎告知一点突破本としておススメであります。


展示は6月17日までのようですね。
「モナ・リザ」のときは最終日に5万人くらい来たらしいから、見たい人は早めにいかれるとよいかと。

***


ああっと、そうそう、最後の晩餐についての展示の所で、「映画における最後の晩餐」って言うコーナーがあり、私の好きなあの方の作品がピックアップされていました~~(見てのお楽しみ)
欲をいうならジョージ・ハリソンの「リヴィング・イン・ザ・マテリアルワールド」の裏ジャケも展示してほしかったな~~~~~~っ


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