Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

ポール・マッカートニー アウト・ゼア・ジャパンツアー2013参戦!

2013-11-25 23:14:27 | music
ポール・マッカートニーOUT THERE JAPAN TOUR
2013.11.19tue
参戦してきました!
と思ったらもう1週間経っちゃうのね。。
もうネタバレしても大丈夫でしょう。


11年前のツアーにも行きました。
正直声の衰えとか
曲間のはしゃぎ方の元気のなさとか
比較するとどうしても衰えは感じるのですが、
そういう変化のなかで、なおもギグをやり続けること
とにかくやり続けることの意味を
彼には考えさせるものがありますね。
衰えようが選曲が守りに入っていようが
そこには現前する音楽がしっかりあることに
やはり感動するわけです。

守りとは言ったものの、
多くがビートルズナンバーな選曲なんだけど、
ビートルズがライブで披露することのなかった曲がたくさん出てくる。
しかも本人の手によって、
ということは、これは老境に入ったスターが懐メロを再現するというのとはちょっと違う、
いま初めてライブでやっているぞという状況であるわけです。
そういう理屈の面もそうだし、
音楽の作り方のめんでも、古ーい曲ながら新しく攻撃する姿勢であるのですね。


ということはともかくとして、
やはり何度か涙腺決壊したですね。

ワタシは3曲目だったと思うけれども、
ALL MY LOVINGが始まった瞬間に何故か涙腺が大決壊し、
この曲にそんなに思い入れがあるわけではないのに
どういうわけか最初のTWO-FIVEのコード進行が沁みたのですね~

それから「ウィングスファンのために」と言って始めた曲が
あろうことか「1985」で血圧上がる!し、

リンダのために書きましたーっていって始めたのはMy Loveかと思いきや、
Maybe I'm Amazedだったし。

アコギに持ち替えて始めたセットがThings We Said Todayで、おーと思ってたら
なんとAnother Dayをやってしまうという感涙コースへ!

おもしろいところではAll Together Now(背面のスクリーンの今風ポップなアニメもよかった)とか、
Lovely RitaとかBeing For The Benefit Of Mr.KITEとか
ミスターカイトは基本ジョンの曲であるので、驚きではあるね。

ジョンのために、と始めた曲はやはりHere Today
ジョージのために、は、恒例となりつつある前半ウクレレバージョンのSomething
Somethingでは最後に、美しい曲を書いてくれてありがとうジョージと言っていた。
ビートルズ時代なかなか自作をやらせてもらえなかったジョージが聞いたら笑うだろう。

大詰めではLet It BeやHey Judeとか
こういうポールどまんなかのビートルズ曲をやられると
もうナクシカナイ。

と思えば
Band on the Runというウィングスこてこてのナンバーでも攻めてくるし。


アンコールは2回あったけど、
やった曲は6曲くらいだったか
アンコールでHelter SkelterやHi Hi Hiやったのにはおどろいたが、もっとおどろいたのは
Golden SlumbersからThe Endまでのアビーロードメドレーで締めくくったこと。

いやーアンコールにメドレーってあれよね
確実にアンコールくるからできる技だよねw


あとは新曲もかっこよかった。
2曲目だったと思うケドSave Us かっこいいですね
あとNEWはやっぱりポール萌えする曲だよね。


ということで、
ひたすら盛り上がるわけでした。


やりそうでやらなかったなーというのは
Silly Love Song
My Love
Bluebird
Everynight
Let'em In
Coming Up!
あたりかな。


公式ページにセットリストが出ていたので詳しくはそこを
<レポート>11/19東京ドーム公演セットリスト掲載!


席は1階3塁側36列
ステージ真正面からやや左寄りでいい感じでした。
ポールは豆粒でしたが、大きなスクリーンと
あと双眼鏡を持っていったのが楽しめましたね~

ゲートも駅からアクセスの良いところだったし
入場してから該当の通路もすぐだったし
楽した感じです。

そうそう
物販は今回は完全にパスした。
並ぶ気力がないというのと、なによりもお金がないorz
たしか前回のツアーのときもツアーパンフ売り切れだったと思うし
グッズには縁がないのでした(^^)/


以上でっす。
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「TAP」グレッグ・イーガン

2013-11-21 03:04:56 | book
TAP (奇想コレクション)
グレッグ イーガン
河出書房新社


つい最近買ったような気がするが、
2008年初版だった。
うーむ。

90年代の短編を中心としたもので、
イーガンのなかでは比較的ハードではないものを集めているようです。

が、十分に刺激的。

インプラントによりTAPという新たな言語体系を習得することを巡り、
インプラント反対派による犯罪を追う表題作が一番イーガンらしい面白さだろうか。

テクノロジーやサイエンスが提示する事実は時として人間の素朴な心情をおびやかすようなことがあり、
しかしそれでもそれは真実であったり、あり得る可能性であったりすることに揺るぎはなく、
そのために人はその事実に対して様々に反応する。

TAPに対しても、新たな言語による超越的な文学をめざしてインプラントによる活動で生きる人もいれば、
それは人間の本質に対する冒瀆であると受け止める反対勢力もある。
「TAP」は謎を追う探偵ものであるが、
そういう反応を多角的にとりこんでいくことで、小説は科学と社会についての考察もにじんでいて面白い。

結末はある意味あっけなく、また唖然としてしまう帰結でもあるのだが、
高次の言語の行き着く先がいささかニューサイエンス的な帰結であることが、
ここでは疑念とともに可能性として示されている。

このような結末は「ユージーン」とも共通しているが、
そういう幕引きが一種の袋小路として示されていて、ニューサイエンス的なものに対する皮肉を感じる。

一方で、TAPインプラントを子供に施すことをめぐり、
人工的な言語=現実の押しつけは素朴な反応としての拒絶感がある一方で、
どのような環境であれ子育てとは親の与える環境を押し付けるものであり
そこにどれだけの違いがあるのだろうか、と、
科学による知見が人間のあり方を再考させる契機となることも示す。

面白い。


同じく探索ものである「銀炎」は、新種のウイルスの蔓延に対する
疑似宗教的な反応に対する警鐘のようなものだが、
ここでも科学的な知見に対する人間の反応がテーマである。

科学ネタが人間のあり方についての考え方や認識の形を曖昧にし
新たな認識を迫る。
そういう面白さを追求しているのでどこまでもSF的で
そこがイーガンの最大の面白さだと思う。



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ブラームス:ピアノ協奏曲第1番&第2番 エレーヌ・グリモー

2013-11-12 01:35:51 | music
ブラームス:ピアノ協奏曲第1番&第2番
グリモー(エレーヌ)
ユニバーサル ミュージック クラシック


こいつをよく聴いています。

女性がこの曲を弾くのを聴くのはワタシは始めてかもしれません。
よく考えられたピアノという印象です。
緩急も強弱もよくコントロールされているし、その抑揚も合理的というか
なるほどーと感じさせるものがありますですね。

一方でほとんど破綻のない録音なので、
オケもピアノもぎりぎりのところでこぼれでるような迫力というのはないのですね。
まあそういうものがなくても十分に曲を楽しめる演奏だし
なんだかそういうところが現代的なんだろうなという感じがします。

これまで聴いていたもの(例えばポリーニのやつとか)では大概がつんと叩いていたような箇所が
ここではやわらかく弾かれていたり
オケも普通はフォルテのまま突っ込むようなところですっと落としていたり、
工夫が凝らされていて面白いです。(特に第2番のほう)

ちなみに第1番はライブ録音でオケはバイエルン放送交響楽団
第2番はセッション録音でオケはウィーンフィル
指揮はネルソンス。


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「市に虎声あらん」フィリップ・K・ディック

2013-11-09 02:41:32 | book
市に虎声あらん
クリエーター情報なし
平凡社


「市に虎声あらん」フィリップ・K・ディック
読みました。

ディック大好きなんですが、
SF的なガジェットなり仮想現実なりの仕掛けの独特な様相も好きなんだけど
それと同じくらいに、でてくる人物が厳しい現実(仮想?)のなかで
居場所のなさを感じつつも、与えられたり求めたりして得た自分の役割を
一所懸命果たそうとして、
うまくいったりいかなかったり
危うげだったり首尾よくいったり
そういう人のドラマ的な側面が切なくて好きなんだよね。

どの作品でも必ず目頭が熱くなる。
SF的にどんなに破綻している作品でも、だ。

で、この「市に虎声あらん」は、ディックの処女長編ということなのだけど
生前に出版されることは無かったもので、
SFでもない。
もともと純文学指向だったことはよく言われるけれど、
この長編は時の編集者には評価されなかったのかね。

1950年代。

ここには後のディックの作品に出てくる人物像が
しっかり出そろっているように思える。

舞台は50年代のアメリカで、初期の資本主義段階から
大資本が牛耳る成熟期に移行しようとする時期。

主人公スチュアートはその変転の時期にあって、自分が帰属するライフスタイルを見いだせず、
漠然と芸術的な生を望みつつ、それがただ根無し草であるための妄想であることも知っている。
たまさか得た電気店での仕事にまったく希望を抱けないのに
その仕事にしがみつく以外にやるべきことが見いだせない。

電気店の主ファーガスンは個人事業の維持と発展に心血をそそぐやや古いタイプの人間で、
ある面ではしっかり社会に根付いた存在でありスチュアートとは対照的なタイプだが、
やはり時代の変転のなかで存在の根底が揺らぐという点では、不安からは免れない。

スチュアートの空疎を反映するように、終末思想をかかげる新興宗教の教祖が登場するのもディック的。
誇大妄想的であるが、けっして軽々しい存在としては描いていないところもディック的。
取り憑かれたように10ページに渡って語られる終末のビジョンには、
一足飛びにのちの『ヴァリス』を思わせるオブセッションを感じる。

女性も複数登場する。後のディックでは主人公を翻弄し心を締め付けるような仕打ちをする女性が多く登場するが、
ここではその冷たい女性の原型をマーシャに見ることができるだろう。
マーシャは終盤のスチュアートの破瓜を引き起こす存在である。

他にスチュアートやファーガソンの妻が出てくるが、彼女たちは概して罪はなく優しい存在であることが
読者にとってはちょっとした救いであるけれども、その「薄さ」はそれゆえに
夫たちの心の闇を分かち合える存在ではないゆえに、
また絶望の種のひとつである。

あとはスチュアートの姉の存在が注目だろう。
親を早くになくし姉に育てられたというスチュアートの出自は
おそらく重要な要素なのだ。

姉の夫(いやなやつ)の存在も。


そうした人間たちのなかでスチュアートはなんとか皆の幸せのためにやっていこうと努力するのだが、
そして実際上手くやり抜ける見込みだってあったのだが、
しかし身中の空虚を偽ることができなかった。
このように疑問を持ちつつ頑張る人間にあるとき断層が生じるというスタイルは
ディック的。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』のデッカードくんもしかり。
最初の長編からずっとそういうテーマを持ち続けたということに
なにやら感動するのです。



そういう人の成長/崩壊/変節の物語としてディックを分析するのはとても面白そうである。
余生があったらしようかな。




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「禁色」三島由紀夫

2013-11-05 00:14:37 | book
禁色 (新潮文庫)
三島 由紀夫
新潮社


数ある三島由紀夫のなかからこれを手に取ったのは、
デビッド・シルビアンが坂本龍一の戦場のメリークリスマスに歌を乗せたもののバージョンのタイトルが
forbidden colorsだったからであります。

もちろん?というか歌の歌詞の内容を熟知していないのでなんとも言えませんが
おそらくは小説世界を歌にしようとは思ってなかっただろうなあ。

小説はあのでびしるの歌の静謐でクールな魅力とは全然ちがった
泥臭くスノッブな妄執うずまく世界でした。

豊穣の海第4巻の時代に当ると思うんだけど、
あの卑俗な世界に生きる同性愛者の生態をねっとりと描いておりまする。
むしろ豊穣の海よりもつっこんで、卑俗な中に積極的に生きることを追求しているもののように思えます。
天人五衰の透をもうちょっと高尚にして奥行きを出した感じでしょうか。



ここでも聖と俗の危うい境界線をぎりぎり保とうとする人種の
努力というか世のしのぎ方が追求されるのですが、
そういう聖の側に立とうとする人間は、同性愛的であったり
世俗の幸せを手玉に取って復讐をしようとする、
そのありかたが決して穏やかではありえない、
一種の汚れを持つ世界であることが面白いところだと思うのです。
かっこ良いことばかりでなくぎりぎりのところでかっこわるくすらあるようななかに、
微妙なバランスのこっち側に聖の領域がある。

自分が辛酸をなめさせられた女性たちに復讐しようとする老人のありかたは
なんとも薄汚いもののようですが、
それに若く美形で頭も切れる若者を仲立ちにすることで
なにか絶世の価値を与えることができる、
どちらが欠けてもそこでの絶対的な美はなりたたない。
そんな世界を同性愛の人々を通して描くわけです。



おそらくはそういう聖性の成り立ちがたさ、あるいは
「現代」における聖とはこのような形になるのだという意識で書かれたのだろうと思うのだけど、
平成の世になって読むと、このようなあり方もすでに困難になっているだろうと
実感してしまう。
今の世で聖なるものの成り立ちはどのように描かれるだろうか
そういう小説を読んでみたいです。



読んでからしばらく経つので登場人物の名前とかすでに覚えていません^^;


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