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inspiration-macrobiotique・随想古事記

マクロビオティックインスピレーション・随想古事記・日本語と歴史・バベルの塔・日々雑感

主人の患者さんの話

2006-03-09 10:02:03 | 出版記事
主人の患者さんの中には、主訴が「他の病院でもらったお薬はどれとどれを飲めばよいでしょうか」という方が何人もいます.それと言うのもお薬の量が半端ではなく主食がお薬と言うほどに、朝昼晩それぞれ20種ほどもお薬をもらってお薬を飲めばもうご飯が食べたくなくなるのではないかと思う位なのです.昨日などは主人が言うのにはその中から4種類ほど選び出してあげたそうです.そしたら患者さんがため息混じりに、向こうの先生に減らしてくれとは言えないし、お薬代はかかるしと言うので、主人は自分が減らしたと言うようにと指示をしたそうです.

でも今の世の中には色々なことがあるものですね.そして当地の患者さんたちは本当に人が良いと思います.昨日子供達と話し合っていたことですが、マクロビオティックが掲げる食事というものは最も基本的なことです.食事の改善なしに人間本来のあり方に立ち返ることは出来ません.でもこの世にはまだまだマクロビオティックに出会わない人もいるし、マクロビオティックを極める事はなかなか難しい.社会として医療が全体的な保護の役目をし、個人としては体を鍛えるという積極的な保護の意欲が必要でしょう.その医療がマクロビオティックを基本に据えれば、社会と個人との関係がどんなにかうまくいくだろうかと思います.マクロビオティックは社会と個人で進められるべきものだろうと思います.

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私達の味覚の信用度

2006-01-20 22:39:22 | 出版記事
美味しいとはどんなことでしょうか.どのように人間は美味しいと感じるのでしょうか.動物達は美味しいと思っているのでしょうか.植物は肥料をどのように吸い上げているのでしょうか.人間と他の動物全部といってもいいほどの境界をなしているものは食の多様性ですよね.人間は、何でも食べます.少なくとも現在の人間ほど多様な物を食べている者はいないのではないかと思います.蟻は何でも食べるとお思いですか?蟻は蜜や液は集めますが、野菜は持っていきません.蟻は大まかに言って肉食(?)です.でもペット用の缶詰の中には、蟻も寄り付かない物も在るのです.何で出来ているのでしょうか.何が入っているのでしょうか.人間の住宅に付いたら困ってしまうシロアリは木材を食べます.こちらは植物食ですね.でもそのシロアリは、山の木材の循環に大切な役目を果たしています.蟻にもいろいろいますが、その食性ははっきりしています.

人間は食糧調達の方法と何でも食べ物にしてしまうことが出来る料理法を編み出しました.そして人間の動物としての能力をはるかに超えた移動まで可能にして、今では人間は世界中のものを食べるようになりました.挙句の果てには、化学的に作り出した物まで食べています.このスピードと進化のスピードが一致していれば、何事もないのかもしれません.牛乳でさえ自分の体内にその消化酵素を獲得した人種は僅かに北欧人種だけなのです.何万年かかったことでしょうか.私達はそういう身体の構造を今でも持っています.科学は万能(?)でも、人間の身体は自然の掟に規制されているのです.

でもでもなぜ美味しいと思うのでしょうか.なぜお酒を美味しいと思うようになったのでしょうか.世間ではなぜ、甘いもの、脂ののったものが美味しいのでしょうか.バターこってり、卵たっぷり、お砂糖たっぷりがみんなの好みなのでしょうか.なぜチョコレートが、お肉が、マグロの大トロが、海老が、かにが、なぜでしょう.美味しいと思わなければ、今の様にはならなかったでしょう.わざわざマクロビオティックなどと言わなくても、みんな健康だったでしょう.

美味しさの一番最初は体の必要性だったはずです.その証拠に、からからの喉に、お水が何と美味しいことでしょう.私達は、自分の美味しいという感覚の訳を知らなければならないと思います.そうしないと、自分の感覚の信用性に対して根拠をもてません.一人一人自分の答えを見つけてください.そうすると、いろんなことの答えも一緒に発見すると思います.今日の課外授業に答えはありません.皆さん、お考え下さい.これは長い話になると思います.何れ研究会の議題にしようと思います.
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健康とは

2006-01-17 11:10:20 | 出版記事
健康とは一体どういうことでしょうか.高校時代の保健の試験を思い出すではありませんか.そもそも健康だとか、マクロビオティックなるものが人間の意識に登場したこと自体が、もう既に不健康が一般化していた証拠でしょう.有史以前は分かりませんが、今の私達がうかがえる事は、昔ほど不老不死が望みで、お釈迦様の昔には既に病気や悩みがあったということです.我らが記紀の昔は、300歳などと平気で書いてありますよね.

健康を害してマクロビオティックを始めた方もおられるでしょう.みんな一生懸命健康を追求しています.追及しすぎて病気になる人もいるくらいです.まあ文明が発達して病気について何が変わったかといえば、病気をしていても生きられるようになったということかもしれません.だから病気からの回復が病気にかからないという本来の有り方と同じように重要になったのでしょう.それまでは多分生死そのものが問題だったでしょう.ある意味で文明こそが病気の原因だといえます.文明が開けてはじめて病気も開けたのです.文明は自然に対する病気の別名です.健康とは人間を含めた動物の自然だったといえます.健康はこれもまた自然の別名なのです.生物の体とその精神活動の自然を健康と特別に呼んでいるだけなのです.私達は自分の自然の度合いで健康か不健康かが決まります.健康回復とは自然回復なのです.

これがマクロビオティックで自然なものがよい、自然なものがよいと言う理由です.自分を振り返って、生活の中から不自然さをなるべく捨てることが、健康回復や病気治療の第一でしょう.文明と自然の関係をもう一度見つめなおして文明に規制を加えることが、人間の叡智だと思います.人間は自然の一部であって、自然を規制する事は、自分の首をしめることと同じです.だから自然を汚せば人間が苦しむことになるのです.健康とは自然なことなのです.私達人間は自然から生まれ、自然を食べ、自然にまた戻ります.不自然は許されません.それが寿命を決めます.そして文明を如何に自然なものに変えることが出来るかどうかが、久司先生の言われる“ホモ・パシフィック”に人間が進化出来るかどうかの鍵になるのではないかと思います.
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痛みとマクロビオティック

2006-01-14 11:12:34 | 出版記事
年末から久しぶり(?)に歯医者さんに通っています.哀しいかな、マクロビオティック教室の講師ともあるまじき姿ですね(?).でもこれも自分を省みるよすがとありがたく頂いて、歯の治療をしました.今では歯の治療には殆んど麻酔がかけられますよね.我慢しても涙がでてしまったり、筋肉の痙攣のようなぴくりと動いてしまう辛さは昔話になりました.注射針も細く細くなって、芸術ともいえるような気がします.昔、つまり私が小学生くらいの時は、腕にする注射と同じだったのですから、私にとって隔世の感が大きいのです.皆様はいかがですか?注射針の話ではなくて歯痛の話なのですが、治療後に流石に体も怒って(?)痛みますよね.マクロビオティックのスタイルで体を作っている人は痛みも少ないのですが、それも時と場合によります.体の反応というかバランス調整なのですから.それでこういうのは痛みが痛みを呼びますから、歯医者さんでは必ず痛み止めを処方してくれますよね.私は便利な夫がいますから、こういう時取って置きの漢方薬をもらいます.この漢方薬は歯痛の初期などの痛みにもけろりとさせてしまうので、必ず歯医者さんに行きなさいと言わなければならないほどです.

人間って、なかなか頭部の痛みに対処するのは難しいなと思います.体は自由に動くはずですが、目や耳、歯の痛みに自分で対処するのはかなり大変です.誰しも経験があることです.・・・か?.そこでこの漢方薬の登場となります.歯を治療などで不自然にいじった時には、痛みが来ないうち、つまりまだ麻酔が効いているうちに一服飲みます.そして食事を厳しく陽性よりの中庸にして、寝る前にもう一服飲んで寝ました.あくる日はもう歯は痛くないのですが、今度は麻酔薬によるちょっとした頭痛です.こんな時は、梅しょう番茶が一番です.甘いもの食べ過ぎの頭痛と同じです.

痛みって何でしょうか.これも昔話ですが、不注意に包丁で人差し指の先を爪に2,3ミリかかるくらい削ぎ落とした事があります.すぐに血止めをして手当をしたのですが、夜になってズキンズキンと眠られなくなりました.一人で我慢するのも辛いものですが、このとき痛みの正体を知りました.痛みはシグナルです.救急部隊出動の合図なのです.ですからこのとき何をすべきかというと、シグナルは「ここだー!」と叫んでいるのですから「そこねー!」って応えればよいのです.おかげで眠る事が出来ました.このときの傷はかなり重症だったのですが、とても良い経験だったと思います.だから動物が怪我をした時は泣く事もなくひたすらじっとしているのですね.人間は痛みの辛さに心を奪われがちですが、痛みが体の大切な伝令だということを知ると余程のことでない限り早く痛みから解放されるように思います.

もう一つマクロビオティックを知っていたか知らなかったか忘れましたが、その頃の痛みの話があります.非常に疲れていたのだと思います.尾篭なお話で申し訳ありませんが、夜中に痔の痛みで目がさめたことがあります.地割れのように筋肉が割れたかのような痛みでした.温めれば何とかなるかもしれないと、そーッとトイレに立ちました.辿り着くなり痛みで卒倒してしまいました.それから先は覚えていないのですが、大きな音がしたのでしょう.寝かされて点滴を受けていました.人間も能力限界の痛みは気絶するものらしいとこれも貴重な経験です.あの(以前ブログに登場してもらった)狸の気絶を目の当たりにした時、それを思い出したものです.

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オール電化とマクロビオティック

2005-12-25 10:36:22 | 出版記事
教室でも質問がありましたが、最近オール電化という宣伝が以前よりも目に付くようになりました。端的にいうと、マクロビオティックを正しいと思われる方、或いはやってみようと思われる方は電気をせめてお料理からは遠ざけねばなりません。現代の生活は電気を抜きには考えられません。考えの及ばぬところまで私達は電気の力のお世話になっています。ですが電気は私達生命エネルギーにとってかなりの錯乱要因です。せめて食べるものは電気のエネルギーでないもので用意すべきです。今では炊飯器までが電気なのです。この辺でくいとめておかねばならないと思います。アメリカの久司先生の教育機関では、マサチューセッツですから相当の寒さでセントラルヒーティングでしたが、ボイラーによる暖房とお湯沸かし方式でした。照明も蛍光灯は一ヶ所もありませんでした。私達の自己認識の甘さを感じたものです。改造がもう無理でも、とりあえず卓上コンロもあります。それに電気は停電することだってあるのです。

オール電化というと聞こえは良いのかもしれません。でも電気は現在果たしてクリーンエネルギーでしょうか?発電所では石炭や重油をたいているのです。それもその火力が100%電気に変えられるわけではありません。この聞こえが良い、手元が汚れない、ということが、現代の私達の意識の見本かもしれません。私達は環境汚染に与していないつもりで十分環境を汚染しているのです。このような偽善的態度は生命の問題にもよく表れています。多摩川にアザラシがでれば可愛いと大騒ぎしますが、食用になっている牛は可愛くないのでしょうか?私達のすばらしい美人がフォアグラを美味しいとにっこり笑って食べています。あれは運動も出来ないアヒルに無理やり食べさせて脂肪肝を作るのです。文化といえば人間は納得するかもしれませんが、アヒルにしてみれば虐待です。身の回りを振り返れば、偽善と欺瞞に驚かされます。平和も美食の追求からは生まれてきません。皆で分け合う心からしか生まれてきません。皆とは人間ばかりではありません。地球全体の動植物全体です。生物は無生物を取り込んで生きているし、動物はその上に植物を取り込んで生きています。犠牲の循環によって生きているのです。動物もまた死んだら無生物に還ります。肉食の実態を厳格に認識すべきです。そうしたら無闇に美味しいとあさって食べられなくなります。お肉は高級品に戻ればいいのだと思います。肉食動物のように大層な努力の果てにありつくものにすべきです。手も汚さず、他人にという仕事を頼んで大量に食べるという事態を想像してください。私達は他の生命の上に生かされています。大食、飽食ということがどんなに罪深いことかわかろうというものです。私達は必要最低限食べればよいのです。
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ほおずき提灯

2005-11-01 10:55:24 | 出版記事
お盆にお供えする赤いほうずきが庭に残っていました。今袋の葉脈(?)だけがきれいに残って白い網目になって中の赤い実が見えるようになりました。これこそ本当に提灯だなあと感心して、美しい自然の芸術に感動してしまいます。

ところで美しいとはどういうことなんでしょうか。このほうずきだって白い網目の提灯になる途中は皮の部分が腐って少しずつ溶けたり落ちたりしていたのです。多分人目も引かずに自然の流れに従っていたのです。それも本当は美しい過程に違いないのですが、私達はそれをみても美しいとは恐らく感じません。芸術家はそこに美を見つけ出すのかもしれませんね。かげろう日記には“うつろいたる菊”にさして和歌を贈ったという記事がありますが、美しさは自分と照らし合わせて発見できるものかもしれません。

だとしたらどういうものを美しく感じるかということは、そのまま人柄を表わすわけですね。日本人は陶磁器の世界でも、ヨーロッパや中国大陸の美しさとはまた違ったものを発見しました。非対称や自然の力のかかり方による窯変など景色と呼んで愛でて来ました。動きを感じ取ったのです。命を感じたのです。イブキドノ神のかかわりを感じ取りその道を全ての物事に見つけ出しました。私達はその道筋と感応した時、美しいと思うのではないでしょうか。

日本人はその途中の過程である“うつろい”とか“さびすさび”とかいうものにも美しさを見ることが出来るようになっています。これを発見(?)したのは、足利義政だということになっていますが、多くの人々が感応したという事はそういう感覚がみんなの心の中に言葉を持たぬまま熟成されていたということでしょう。日本人は動きの中に自然の本質を見つけ出していたのだと思います。

マクロビオティックでも、桜沢先生が自然の本質を端的に表わした易の理論を解釈して無双原理という道しるべを残してくださっていますが、自然は動きの中にあることを学びます。陰陽はその左右もない宇宙の羅針盤です。陰陽は私達の美しさに対する感応の世界をもっともっと広げてくれます。なぜかといえば私達自身の自然の移ろいを知ることが出来るからです。自分自身が自然であるかどうか、これは自然と感応し合う程度の問題であり、それは自分の内側が自然であるかどうか、つまり自然を如何に取り入れた体であるかどうかにかかっているからです。自然そのままの心になれば、美しさの対象は宇宙の大きさに広がります。楽しみですねえ。
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食費と節約とマクロビオティック

2005-10-27 10:03:01 | 出版記事
景気後退以後特に節約の二文字が奥様雑誌の特集に載るようになって久しくなります。その節約のターゲットは大抵食費と日用雑貨です。そして相も変わらず飽食が一方で不健康の原因の槍玉にあがっています。何か変ではないでしょうか。

以前なるほどと一人の主婦の倹約奮闘の工夫に感心したことがあります。それはえのき茸のくっついている根元のほうが帆立貝の食感に似ているというものでした。えのき茸は根元のほうを切り落とすと大抵の本には書いてあるし、やや黄変していることも多い。私は栽培方法か肥料の問題と思っていました。まあそれはさて置いてこんなに皆工夫して食費に関しては涙ぐましい努力をしているのに飽食(?)なんですか?

こう考えてみると、問題は食べ方にあるのではないかということになります。土台になっている栄養学のほうに問題があるのではと疑ってみる必要があります。現代の食卓の常識に問題があるのではないかと考えねばなりません。ここでマクロビオティックの登場となります。どうか皆さん一度マクロビオティックの本を手にとってお読みください。間違った栄養学の常識に立脚して節約の仕方を間違っては、医療費の増加で節約にはなりません。

そもそも食費とは何かということになります。エンゲル係数という経済学の問題ではありません。食費とは自分の命をはぐくむための他者の命の値段にかかる費用です。動物も植物も生きていることに変わりはありません。食べるという行為に自然界の動物も経済社会に生きている(?)人間も本質的に何の変わりもないことをはっきり認識すべきです。
今食べるという行為と食べ物と食べ方について、考え直すべき時を迎えています。マクロビオティックは地球上の生命としての身体を持つ人間の食べ方についての提案をしています。経済界に住む人間の食の意識を、身体の仕組みに沿う現実的なものに戻そうという提案です。

食費は命の費用ですから、経済効率とは無縁です。しかし命はもったいなくありがたいものですから節約は必要です。でも安いものを買い込むことではないのです。安いものを探すことは必要かもしれません。でも安上がりに生産するものではないのです。消費現場でも生産現場でも、安さのみが指標になってはいけないものが、食物ではないかと思います。

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少子化とマクロビオティック

2005-10-23 12:54:59 | 出版記事
少子化が社会問題として浮上しています。少子化はいまや国の存亡にすら関わる事態です。少子化はある日突然絶壁から落下したような打撃を社会に与えることと思われます。ですがその時となっては最早遅いでしょう。2億の人口が1億になるのにかかる時間と1億が5千万になる時間とは同じではありません。少なくなればなるほど滝の水が落下するように減っていくのです。目前にならなければ分からない庶民に代わって政治家たるものが手を打たなければ一体誰が何をするというのでしょうか。子育ての保育所を増やすなどと言うごまかしのようなことではどうにもならないと思います。

個人が一人一人できることとして、マクロビオティックの食の提案は少子化にも大きなヒントを示しているように思います。地球上の生物はみな生殖活動をしていますが、珊瑚の放卵と言うのでしょうか、地域の珊瑚が一斉に卵を生み出す映像をテレビで見たことがあります。その卵を食べるために沢山の動物が寄って来るのですが、食べられても食べられてもちゃんと珊瑚が残っていけるような仕組みが出来上がっています。いたいけな子亀の孵化もそうです。海に辿り着くまでには鳥の餌食となり、海では魚の餌食となります。それでも亀はちゃんと亀の個体数を自然の中で維持できるようになっています。草食動物は一定の範囲に生息可能な個体数が食によって決められており、肉食獣にはもっと過酷な個体数が自然の掟です。ライオンなどはオスによる子殺しも現実ですし、それは猫の社会にも見られることです。

自然界では子供の数は生理で決められています。それが自然の秩序を維持しているのは既知のことです。では生理は何によって規制されているのでしょうか。進化の仕組みを考えれば、食によってであることは疑いようもありません。肉食獣はたくさんの個体数を育てられない生理機能になっていまです。それは1頭の食の確保に広い面積を必要とするからです。だから肉食獣はテリトリーを持っているのだと思います。人間が肉食傾向になれば、人間の精神を含めた生理傾向も当然そうなってくると思います。人体は地球上の生物の掟の上に立っていることを忘れてはならないと思います。

もちろん環境ホルモンの所為もあるでしょう。それは食の累積によって食の上位にあるもの程影響を受けるのです。原因物質の問題も当然あると思います。これは人間による地球環境汚染の問題です。地球環境を人間社会のわがままが破壊しているのです。この自然破壊は生理上の影響とは別にダブルパンチとなっていると思います。

マクロビオティックの食の提案は、人間が地球上でどのように生きていくかと言う提案です。人間が目指しているものは何か、私達は何を知りたいのか、どのように生きていきたいのか、死後どうなるのか、なぜこの地球に生まれてきたのか、私達は一体何なのか、マクロビオティックはこういったことを知るために食べて生きていく道を示しています。

古い予言の書に、子供が生まれなくなると書いてあるそうです。昔は考えられない事態でしたが、現実に広がりつつあります。自分たちの生活を見つめなおして、食というものが如何に生命活動の中心であるかを深く認識したいものです。食に関わる社会活動が、単に経済活動ではなく、生きることそのものであるという共通認識の上に、私達の社会を築いていきたいと思います。正しく食べることが、正しく生きることです。マクロビオティックを、たくさんの人が実践してくださるといいなあと思います。
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とんご柿

2005-10-19 09:34:18 | 出版記事
秋になりました.実家には樹齢80年と思われる柿の老木があります.私が覚えている限り形は変わりません.50年前から今のようだった気がします.その柿木に今年はたくさんの柿の実がなりました.昨年は不作でしたが、今年はまあまあの大きさでたわわに実がつきました.とんご柿という野生に近い柿です.甘柿で、ごまが入った黒味を帯びた色合いの柿です.栽培種のように甘くはありませんが、栗の甘みくらいの甘さです.私はこれが大好きで、久司先生、すみません、弟子の失態をお許しください!一年に二週間くらいこの柿を食べ過ぎ(?)ます。娘から私の弟は、あまり沢山届けるなとくぎを刺される始末です.

とんご柿は私には父の思い出と重なります.父は陸士第56期です。父は昭和20年8月14日に特攻に出ることになっていました.それが上官のはからいで15日の詔勅の放送を聞いてからに延期になったのです.一日の差で父は生き残りました.茫然自失の間に武装解除され公職追放の身となり父は故郷に戻ったのです.そして56期やそれ以前の沢山のお仲間方の犠牲の上に私は生まれることになりました.このことをもってしても私は多くの方々の鎮魂の思いの灯を胸にともし続けねばなりません.

私は年子の弟も生まれた所為か、お父さん子になりました.秋には父が農作業から帰ってくると、「おとうチャ、なっといねえ(なってるねえ)」と言ったそうです。すると父はすぐにもう暗くなっていても、もぎ竹を取り出して幼い娘に柿をもいで来てくれるのだそうです.とんご柿は私にとって父の愛情の味なのです.父の前に特攻に逝かれた方々の愛情の味なのです.涙なしに思い出すことは出来ないものです.

私は父を心から敬愛して育ちました.母が父を敬愛していたからかもしれません.とにかく父は娘の私にとって世界一の人でした.父は何でも知っていました.学校で教わることももっと深く教えてくれました.歴史物語も熱く語ってくれました.父の懐は私の愛の心の源泉です.私から出てくる愛は父の心を源泉としているような気がします.戦後は今では考えられないような貧困の時代でしたから、乞食のような人もたくさんいましたし、みんなその一歩手前のようなものだったのです.そんな人達からも父はとても好かれていました.庭を若ダンしゃあ、若だんシャあと駆け寄っていく人をよくみました.そんな人達は私をも可愛がってくれたに違いありません.私もそんな人から好かれるタイプになりました。

世のお父さんがたに申し上げます.娘にとって父親は、独り立ちをした後の心の支えです.たとえ善かろうが悪かろうが心から自分を愛してくれている人がいるとの思いが娘を支えてくれます.世の娘が心の支えとなる父を持っていたら、きっと世の中は明るくなります.
家庭を支えるのは女です.でもその女を支えるのは男です.男は伴侶である妻を支えるのが当然ですが、夫婦はともに若く未熟です.結婚して妻となり一人前の女になった娘を、父は自分をこの上なく愛しているという記憶が支えることになるのです.
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うたた寝と風邪

2005-10-14 09:33:58 | 出版記事
うたた寝をすると風邪を引く(?)と、マクロビオティックを始めて数年経つまで思っていました。体の調整機能が眠っている間は低下するのだと思っていました。それで冷えに対する防御が完全には出来ないのだと思っていました。でもある時何も掛けずにうたた寝をしても何とも無いことに気がついたのです。

え?、うたた寝をすることと、風邪を引くことは全く別のこと?っていう問題に気がついたのです。翻って世界を見回してみれば、うたた寝をして風邪を引くのは独り人間だけですよね。皆動物はうたた寝のような寝方をしていますよね。寝る時は布団を掛けて暖かくして寝るというのが、私達にはもう当然のようになっています。でも動物は体が風に吹かれるとか、雨に濡れるとかという特殊な状態に曝される防御はしますが、ことさらに暖めたり密閉状態にはしませんというより出来ません。それで風邪を引いたりしていては生きていけません。健康体は風邪を引かないはずなのです。それで動物達は生きています。健康な個体のほうが少なかったら絶滅するはずです。でもちゃんと生きています。うたた寝をして風邪を引くようだったら、自分の生活を反省しなければいけないのです。健康体でないことを知って改善しなければいけないのです。

今般おかげで出版されました久司先生の「マクロビオティック健康診断法」を翻訳している時、あざの項で青あざ(いわゆる黒ガイ)は本来出来るものではない、というものがありました。え?そうなのかな?と思っていたのですが、未熟にも不注意で車のドアで向う脛を打ってしまいました。腫れて傷口が出来ました(当然痛かったのですが、、)。あ~あ、黒ガイが出来るなあとおもいました。ところが出来なかったのです。当然出来る筈のものが出来なくて、骨が怒ったような腫れが自然に引いて傷口もまた自然に回復していきました。なるほど青あざが出来るのも健康体でない証拠なんだと思いました。

青あざというのは末梢の血管がきれて内出血を起こした結果です。本来血管が切れた場合、体は(血管も血液も)止血の反応を起こします。体の反応がカバーできないほどの血管の損傷は死に至るのですが、それでも体は防衛のために最大限の努力をします。血管の切り口を収縮させ、血液凝固分子を急行させます。青あざの大きさは、その防衛能力の程度に反比例するのです。健康なほど出血しないものなのです。ですから病院で採血や注射をしたときにいつまでも出血するのも同じことです。

私達は日常生活の中に、沢山自己評価の材料を持っています。謙虚に受け止めて自分を見直し、悔い改める(食い改める)材料にしたいものです。
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酸化と酸化防止剤

2005-10-12 07:45:06 | 出版記事
女性だったら(男も?)毎日の食事の仕度で加工品を手にすると酸化防止剤という文字を必ず目にしますよね。酸化防止剤にも天然のものと人工のものとがあって、現在の商品化した流通社会では特に加工された食品は多かれ少なかれ酸化防止剤のお世話にならざるをえません。医薬品や化粧品にも、のりなども事務用品にも、生鮮食品にも消費社会という経済市場にあるものでおよそ酸化するものには酸化防止剤が含まれている物が多いと思います。なぜ酸化するといけないのでしょうか。その理由は全ての生物がみな本能的に知っていますよね。酸化というと学問的ですが、端的に生活上の言葉では腐れるといいますよね。腐れたものは食べてはいけない、皮膚に塗ってもいけない事を皆知っています・・・・・・・なぜか?体は自然に下痢を起こし、皮膚の表面は炎症を起こします。なぜか?

身体は体内に腐れたものを取り込まないように下痢や嘔吐で排除し、害を受けた皮膚は腫れたりただれたりしてやがて剥がれ落ちます。万が一吸収されたら各段階で皮膚の反応と同じように炎症反応を起こしたり熱を出したり、細胞を一部破壊したりして排泄過程に取り込まれます。要するに酸化した物は排泄されるのです。酸化とは排泄、つまり分解還元過程の始まりです。酸化と還元は理科では反対の逆行程のように習いますが、同じ直線(?)上に並んでいます。酸化が進めば行き着く先は還元です。この地球という大気圏内にあるものの生成分解の過程は酸化還元の過程として現われます。現在の地球上では先ずスタートは酸化から始まります。先ず酸素無しには一分と生きていけません。酸化の熱で私達は生きています。酸化という化学変化を基盤に生命は生命の維持発展過程を作り上げました。老化も酸化と同じです。新陳代謝という行程で新が勝っている間は陳のマイナスが相殺されていますが、新が落ちてくると陳が目立ち始める、つまり老化が目に見えてくるのです。そして酸化は分解の過程(陰性化)であり、分解はやがて分解され尽くして(極陰状態―極陽状態)還元の過程(陽性化)に入るように、宇宙の秩序(法則)に沿って展開しているのです。そして天然の生物はみな独自の酸化防止機構を持って酸化のスピードを制御しています。これが寿命をきめています。この酸化防止機構を如何に正常に働かせるかによって寿命を早めたりいっぱいに使ったり出来るわけです。

では人工の酸化防止剤は何をしているのでしょう。これは生きているものの寿命を延ばしているのではありません。みな死んで急激な酸化の過程に入ったものを、なるべく死んだ時のままに維持しようとしているだけです。つまり自然な宇宙の法則の例外を作って、その展開を阻止しているのです。そんなものを食べると体内では酸化防止剤はその食物と同じ消化過程で吸収されます。今度は私達の体の中で、宇宙の法則に従って運営されている体内のメカニズムの邪魔をすることになります。私達の体は宇宙の法則の展開のままに酸化という方向性を一貫して持って動いているのです。良くて余計なもの、悪いと過剰作用や逆作用の毒という負担を体にかけることになります。酸化防止剤は商品を長持ちさせるかもしれませんが、結局のところ自分の体の「もち」を悪くします。極端に言えば酸化防止剤を入れなければ食べられないようなものは食べてはいけないのです。収穫して腐らずに運ぶことが出来る範囲が、つまりは流通可能範囲です。塩蔵や乾燥などという自然の力を利用したもの以外の少なくとも食品の成分を不自然に変えるような保存方法は止めたほうがよいといえます。生のものは生のままでは保持できないのが当たり前です。どんなに文明が発達しても、東洋の思想やマクロビオティックでいう身土不二という原則は宇宙の秩序ですから絶対になくなりません。人間と環境(周囲の食べ物)は一体です。酸化防止剤は、食品や体につけるものを、極論すればミイラにするためのものなのです。ミイラは腐らないように、つまりバクテリアなどの餌にならないように考案されたものです。ミイラは虫も食べないのです。そのようなものは食品ではありません。人間の食品に許される酸化抑制法は、自然の人体の仕組みに害を与えない範囲でなければなりません。こういった保存方法はは既に伝統的な知恵として受け継がれています。
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マクロビオティック生活の余慶

2005-10-09 12:43:13 | 出版記事
マクロビオティックの食事を続けていると、何が一番楽になると思われますか?私の一番の実感は、汚れなくなるということです。考えてみればそりゃそうですよね。衣類は体からの排泄物を吸い取っているのですから。

昔の人は身体を今のように洗えなかったから、汚くて臭かったというのは早計なのです。だから香をくゆらせたというのも説得力はありますが、今の私達の想像するような獣くささとは少し違っているのではないかと思います。マクロビオティック食事法をほぼ実践していた社会なのです。自分が実感する事は、衣類が汚れない!、髪の毛が汚れない!、排泄物が臭くない!ということなのです。お台所からのゴミも少ない!、油汚れも無い!洗剤はいらない!ことが殆んどなのです。お洗濯の洗剤は少ない、シャンプーも少ない、ボディシャンプ―も少ないとなるのです。

これはずいぶん社会を変えることではないでしょうか。先ず水の汚染が少なくなりますよね。水の汚染も環境破壊の一つの根源であることを考えるとこれはたいしたことではないでしょうか。家計に与える影響も少なくないかもしれません。翻って考えてみると、私達は体に負担のかかるものを食べて自分の体を壊し、汚れを撒き散らして公害の元を作り、わざわざ全てのステージで代価を支払っているのです。これが高度に発達した経済社会だとしたら、何と無駄な思い上がりでしょうか。

マクロビオティックは個人の生活様相を変えると同時に、人間社会をがらりと変えることが出来ます。経済は人間のためにあるのであって、経済社会のために人間の生活があるのではありません。マクロビオティックを実践してみてください。きっと何かが変わってきます。
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マクロビオティックで暮らしたい?!

2005-09-30 11:22:37 | 出版記事
マクロビオティックがこの世の真実だと思っても、マクロビオティックで暮らしていくことには色々なしがらみがありますよね。まあ一人暮らしなら、自分の気持ち次第で何とかなるかもしれません。でも家族がいたら、愛する家族なだけに押し付けたい気持ちになりますよね。でもそこに大きな問題は潜んでいることが多いのです。

先ず第一にどうしてマクロビオティックがいいのか相手に納得させることができないこと。つまり自分の整理不足と、相手の必要性の実感の欠如です。子供はまあ小さければ母親の影響力大です。しかし親や夫となると、これは最初の第一印象で拒否反応を生み出しかねないところがあります。この場合はひたすら寛容の精神を発揮するしかありません。
そのうち(どれくらい長い間かは分かりません)段々変わってくるように少しづつ仕掛けるのです。相手が病気になったら、仕方がない、喜びましょう。それこそ改心させるチャンスです。それまで自分の勉強を進めましょう。

第二に社会はおよそマクロビオティックとかけ離れた食の原則によって動いているような感じです。外では食べるものを見つけることが困難です。以前よりはずいぶんと変わってきたなと思いますが、牛丼事件のニュースを見ても、なんと言ったらよいのか考えてしまいますね。マクロビオティックは産業構造、経済構造をひっくり返す危険性があるので、マスコミで宣伝してもらうことにはならなかったのですが、国民の健康が脅かされてきているという現実に目をそむける事は出来なくなりつつあります。それを良いことに逆手にとって種にしている番組もありますが、体系的に説明する事はなくて、あれが良い、これがよいという商品の販売目的が見えています。“まし”な物を選んで少し食べるかしかありませんが、ご心配なく!! マクロビオティックでは少食が原則です。出かける時は1日1~2食にすればよいのです。子供連れは手作りおにぎり弁当にしましょう。それからお店でも省いてほしいものを遠慮なく言いましょう。おそばの汁のお砂糖は無理にしても、カレーソースのクリームは省いてくれますよ。何とか乗り切る方法を考えるのも、頭の体操と思ってやってみましょう。私はなるべく食べないようにしていますが、先日紹介したお塩を携帯して、一粒おそばなどのだしや、お汁に入れています。
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塩について

2005-09-23 10:23:01 | 出版記事
昨日しその実の塩漬けについて書きました.その時使った塩についても書きました.それで塩について補足です.

マクロビオティックの勉強では、人間の基本的な味として穀物の甘みというものを習いますが、それ以前の生命にとって最も基本的、と言うより不可欠のものは塩です.塩は生命の必要条件なのです.なぜかといえば、その塩の環境に私達の先祖の生命が誕生したからです.だから今でもそれなしに生命は存続できません.このことがわかってみれば塩とはどういうものか、どういう塩でなければ生命の健康を保てないかわかってきますよね.
私達にとって塩は最大限の代価を払ってよいものの一つです.後もう一つ、それは水です.この二つの自然の恵み、これが私達の命の親であり、環境です.これがあったればこそ私達は此処にいます.太陽系という大枠の中で地球が塩と水の星になったので私達は人間になりました.何と有難い事でしょう.

塩とお水はたとえ代価を払って買ったとしても、自分のものではありません.自分の命と同じで、自分のもののようだけど、自分のものではないのです.自分のものなら、命をいつまでも永らえることが出来るはずです.でも望むと望まざるとに関わらず、生まれてきたものは死にます.でも命を安く見積もる人はいませんよね.その命を生かすものは、命の環境です.環境は命に必要なもの全てを含みます.親の愛も食べるものも、自分に取り入れるものは全て環境です.本当を言うと前にも言ったように自分のものは何一つ無いのです.私達は環境保護などと偉そうに言っていますが、私たちこそが環境に保護されています.自分より大切にしなくてはいけないのです.だから、わがままを少し我慢し節約して、環境や塩や水に手間とお金とをかけねばなりません.汚すことも厳しく慎まなければなりません.

お金という勝手な代価の代用品を作ったばかりに人間は大切な物とそうでない物との区別をはっきりと意識しなくなりました.命と地球の関係も見失いました.命は地球の塩の一粒なのに、命は地球よりも重いなどと傲慢なことを言うようになりました.もう一度塩と水、ひいては地球の環境のことを考え直しましょう.私達は悔い改めねばなりません.

命に必要な塩と、工業塩の残りの安く市販されている精製塩は同じものではありません.命をはぐくむものは全部自然界で生物の命をはぐくんできたものです.工業的に生産された、特に純度の高いものは皆毒です.それでマクロビオティックでは精製された物を排除するのです.余談ですが毒と薬は本来同じものです.お薬はごく微量だからお薬になります.微量でもあれだけの作用をするのです.だから毒をもって毒を制することが出来るのです.

良いお塩を使ってください.命に良いお塩を、ご自分の嗅覚で探し当てて使ってください.そして日本人が環境と共同して作り出したお塩の兄弟分、味噌と醤油についても同じく大切にしていきましょう.
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しその穂の塩漬け

2005-09-22 13:54:01 | 出版記事
久司道夫先生が来日していらっしゃいます.来月いっぱいご滞在の予定です.各地で講演会があるはずです.お尋ねは先生の東京事務所、03-5774-4190 にお願いします.

庭にしその穂がいっぱい出ています.あんまりたくさんできたので、蜂やバッタと一緒になってつみました.しその実の塩漬けを作ろうと思ったのです.洗って水気を切って塩をまぶしてビンに入れました.まだ2~3時間しか経っていなかったのですけれど、あまりの良い香りに誘われて、ついお味見、その美味しさにお代わりしたいのをじっとこらえました.でもこれは大部分塩の美味しさなんです.私が使ったのは、平戸の和みさんのお塩、イキな塩です.このお塩は三年前、久司先生が来られた時にも味を見ていただき、「いいね」と誉めていただいたお塩です.追加の穂を採りに行って作り足しました.
(自然食品和み、0950―23―2566)

食欲の秋、ご飯が楽しみです.他におかずはいりません.よく噛んでプツプツいう口の中の音と香りを楽しみながらたしなんで頂きます.ややこしい手の込んだお料理は苦手でこういう単純な味が好きです.やっぱり10月からの教室の調理実習も、自分にあった単純な後なんにでも変化し得る基本的なお料理実習にします.生徒さんが好みで何とでもしてください!
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