城 名:竹沢二郎館
別 名:竹沢氏館・もと屋敷
形 態:館
指 定:-
所在地:埼玉県比企郡小川町靱負537
東武竹沢駅から東南東約700mの山の斜面に雲龍寺があります。その背後に数段の平場があり、そこに竹沢氏の
館があったといわれます。
平安時代末期 児玉保義の五男行高が竹沢氏を名乗りここに館を構えたのが始めとされますが、応安元年(1368)
竹沢左近将監が武州平一揆に加わり、翌応安2年(1369)所領を没収されました。
【竹沢郷と竹沢氏】
槻川支流の兜川流域に位置する小川町笠原・原川・木呂子・勝呂・木部・靱負は、かつて、竹沢村という一村
であったが、その前身は中世における竹沢郷であったと推定される。児玉党に属する竹沢氏は、同郷を「名字
の地」とする武蔵武士で、南北朝内乱のとき足利尊氏に従った竹沢右京亮はその一族と思われる。
『太平記』によれば、かつて南朝の新田義興に従ったことのある竹沢右京亮は、延文3年(1358)に畠山国清
にそそのかされ、江戸高良や同冬長とともに多摩川の矢口の渡し(東京都大田区)で新田義興を謀殺したとい
う。江戸時代中期にこの事件を浄瑠璃に翻案した福内鬼外(平賀源内のペンネーム)の『神霊矢口渡』は大当
たりし、歌舞伎の台本にも転用された。そこでは竹沢右京亮は竹沢監物という名前の悪役として登場し、義興
の亡霊に身を引き裂かれ最期を遂げるという役回りになっている。
竹沢郷は、平一揆の乱ののち、竹沢氏から没収されて猪俣党に属する藤田覚能に宛行われたが、やがてその一
部は鎌倉の円覚寺に寄進されて同寺領となった。 (小川町編集発行 小川町のあゆみ より引用)
なお、本件とは直接関係はありませんが、上記に笠原・原川・木呂子・勝呂・木部・靱負は、かつて、竹沢村
という一村であったとありますが、それ以前は其々笠原村・原川村・木呂子村・勝呂村・木部村・靱負村で、
6村が合併して竹沢村(現在の小川町の一部)になったものです。
雲龍寺 曹洞宗の寺院で山号は竹澤山
嘉元2年(1304)竹沢左近将監が開創したということですが、天正18年(1590)に大火によって焼失し、再興され
るまで長い間村内に寺のない状態が続いていたようです。
ここも削平されて平場になっていることは地形から見ても明らかです。
山号寺号の入った扁額
薬師堂と六地蔵
この裏側(東側)に熊野神社の参道があります。
鳥居を抜けると参道は左にカーブし、雲龍寺本堂裏手(北側)に位置する熊野神社へ。
熊野神社
神仏分離までは雲龍寺の持ち神社であったようです。
社殿
ここ境内も削平により平場にしたことがよくわかります。
熊野神社扁額
社殿左側(南側)にある五輪塔
竹沢氏の祖である竹沢二郎行高のものといわれる。
社殿裏側(西側)は空堀跡のようです。
熊野神社境内から北東に進みますとすぐ左手に平場があります。
平場です。熊野神社の上(北側)にあたります。
最初の居館はここに構えられていたようですが、火災により焼失し、以後現在の雲龍寺の本堂付近に館が移動した
ようです。
平場は3段あるようでここ以外にもあるということになります。
竹が倒れている先の方にあるのかとも思いましたが、こんな状態では確認しようがありませんし、または別の場所
かもしれませんが。
墓地中腹から見た遠景です。これで居館が高い場所にあったことがわかります。
かつては墓地入り口に合板製の小さな説明板があったようですが、10年ほど前には既に老朽化して剥離しほとんど
読めない状態であったようで、今はその影形もありませんでした。
これは東武竹沢駅西口前にある「慈光尊」とその由来が書かれた看板です。
看板の冒頭部分ですが最初に書かれているのが竹沢二郎館のこと。そして、腰越城、慈光寺関係などが書かれています。
末尾に「小川町竹沢東部 郷土の文化財保存を進める会」とあります。なんと郷土愛に満ちているのでしょう。
散策日:平成29年(2017)10月20日(金)