四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

山口城跡(埼玉・所沢市)

2012年01月15日 | 100名城以外の城館跡




市街地の中にある城跡・山口城跡(埼玉県所沢市山口)を訪ねてみました。
この山口城跡は、県道55号線(所沢武蔵村山立川線)の山口城址前交差点の一角にあります。  






この土塁を見ただけでは「残土の山」としか見えませんね。(1号土塁)  
  
1590年の小田原の役のあと、この城(館)は廃城になり、江戸期には敷地の大半は開拓されて畑地や住居、溜池などに転用され、更に、
明治以降に至っては道路や鉄道が建設されて遺構の大半が失われた。この僅かに残った遺構も商業地域として開発されることになったが、
保存運動等もあり現在いくらかの遺構(土塁・空堀)が残存している。
この残存区域は、フォッション市場サンキ所沢店の敷地となっているが、サンキさんの理解があって残存できたものでしょう。






これが2号土塁でしょうね。土塁の右側には西武線の線路が走っています。

現地に立てられた案内板(説明板)に記載されたものを転記しておきます。   

埼玉県指定旧跡  【 山口城跡 】
山口城は、平安時代末から鎌倉・室町時代にこの一帯を本拠とした武蔵武士の山口氏によって築かれました。
この場所は北に椿峰の丘陵がせまり、南は柳瀬川と、湿地に囲まれた要害の地で、西側には鎌倉街道が通っていました。
城跡の規模は東西約400メートル、南北約200メートルと推定され、埼玉県の旧跡に指定されています。
築かれた頃の大きさは不明ですが、戦乱の時代に館を囲む土塁(土手)や堀は徐々に広げられました。
室町時代の終わりには、複数の郭がつながった姿となりました。この城跡には石垣がなく、
土塁の上に木や竹の柵を造り、幅が広く深い堀をめぐらせて敵が入るのを防いでいました。
戦国時代の戦乱によって落城し、江戸時代に入ると城跡は畑や宅地として拓かれ、堀跡は溜め池に利用されました。
その後、道路や鉄道が開通し、元の姿は一部を除いて失われました。現在、周辺には「堀の内」、「城上」、
「梨の木戸」といった城跡に関係する地名が残されています。

【土塁と空堀】
現在、敷地内には3基の土塁があり、土塁の規模はそれぞれ異なりますが、
幅10メートル前後、長さ20~30メートル、高さ3メートル前後です。
第1号土塁と第2号土塁は互いに向かい合い、第3号土塁L時型で東側に張り出しています。
さらに発掘調査によって第1・2号土塁の間に南北方向に伸びる第4・5号土塁が新たに確認されました。
土塁の外側には堀がめぐり、上部幅約4メートル、底部幅約2メートル、深さ1.5~2メートルの逆台形で、
底から水が湧き出して沼地のような状態でした。これらの築造と掘削の年代は、戦国時代に入った頃と考えられます。
土手の下から永楽通宝が、堀跡の底近くからは木製の椀や塔婆が出土しています。

【郭・曲輪】
土塁に囲まれた内部は、東側より一段高く東西約20メートル、南北約32メートルの長方形の平地となっていました。
これを「くるわ」と呼び、何回か繰り返し整地を行っています。多数の柱穴や焼土とともに井戸跡6基が発見され、建物があったと
推測できます。また、鎌倉・室町時代の灯明皿や、常滑焼の壷や甕の破片、年号のわかる板碑等が出土しました。
                                           所沢市教育委員会   
   
攻城日:2012年(平成24年)1月15日(日)           

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