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清水冠者義高の影隠地蔵(埼玉県狭山市)

2020年08月04日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:影隠地蔵(かげかくしじぞう)
形 態:石の地蔵尊
指 定:狭山市指定文化財〔記念物・史跡〕 昭和52年(1977)9月1日指定
所在地:埼玉県狭山市柏原204-1
 
源義仲の嫡男で頼朝の娘婿となった清水冠者義高は、実父の死をきっかけに自身に難が及ぶと察し
鎌倉から逃れてきましたが、頼朝の追手に入間川で討たれました。討たれる前に難を避ける目的で
一時的に地蔵の背後にその姿を隠したことから「影隠地蔵」と呼ばれますが、その影隠地蔵を訪ね
て来ました。
現在は石の地蔵で柏原よりに立っていますが、かつては木像でしかも広瀬側に地蔵堂があり、その
中に安置されていたとのことです。




『影隠地蔵』




『影隠地蔵』を横から




『影隠地蔵』説明板
 
    影 隠 地 蔵     市指定文化財 史跡      
                         所 在 地 狭山市柏原204-1 
                         指定年月日 昭和52年9月1日
 この地蔵尊が影隠地蔵と呼ばれるのは、清水冠者義高が追手に追われる身となったとき、難
を避ける目的で、一時的にその姿を隠したためといわれています。
 義高は源義仲(木曽義仲)の嫡男で、義仲が源頼朝と対立していた際、和睦のために人質と
して差し出され、頼朝の娘である大姫と結婚しました。政略結婚とはいえ二人は幼いながらも
大変仲がよかったと伝えられています。その後、義仲と頼朝は再び対立し、後白河法皇の命を
受けた頼朝は、弟範頼・義経の軍に義仲の討伐を命じ、義仲は敗れて討たれました。
 義高は我が身に難が及ぶのを避けるため、大姫のはからいで鎌倉から逃れ、父の出生地でも
あり関係の深かった畠山重能の住む現在の比企郡嵐山町か、生まれ故郷である信濃国(長野県)
へ向いました。しかし、頼朝は将来の禍根を恐れ、娘婿の義高に追手を放ちました。命を狙わ
れた義高は元暦元年(1184)4月、この入間川の地まできたときに、追手の堀藤次親家ら
に追いつかれ、一度はこの地蔵尊の陰で難を逃れたものの、ついには捕えられ、藤内光澄に斬
られたといわれています。
 地蔵尊はかつて木像で地蔵堂があり、その中に安置されていました。道路の拡張により現在
の場所へ移動していますが、過去にも入間川の氾濫で幾度か場所が移動していると思われます。
また、石の地蔵尊になったのは明治7年(1874)のことで、明治政府がとった廃仏毀釈に
より木像の地蔵が処分されたためと考えられています。不明な部分もありますが、義高の悲劇
をあわれんだ村人が建てたともいわれているなど、変わり行く時代の中でも影隠地蔵はその歴
史を後世に伝えています。
          =清和源氏略系図・桓武平氏略系図(省略)=
 平成24年3月 
                    狭山市教育委員会 狭山市文化財保護審議会




『信濃坂 しなのざか』の標柱
左の道路は旧鎌倉街道で、写真には入っていませんが坂の下を左右に走っているのが旧奥州道




『歴史の道』説明板
 
   歴 史 の 道  鎌倉街道(かまくらかいどう)
 鎌倉幕府の成立とともに整備されたといわれる中世の道「鎌倉街道」は、武蔵武士を代表する畠山
重忠をはじめ新田義貞等多くの武将たちが、その栄枯盛衰の物語を刻みつけた道として、また、さ
まざまな文化の交流の場として利用され、狭山市の歴史の展開に大きな役割を果たした道です。
 狭山市内を通過する鎌倉街道の伝承路は、児玉方面(群馬県藤岡方面)に向かう通称「上道」があ
り、上道の本道(入間川道)と分かれた鎌倉街道には、堀兼神社前を通る道があります。このほか、
「秩父道」などと呼ばれる間道や脇道もあります。
 また、逆に「信濃街道」・「奥州道」といった鎌倉から他国への行き先を示した呼び方もあります。
                             狭 山 市



付近の街道図




右側の小さな繁みの中に影隠地蔵があります 赤い頭巾がほんのちょっとだけ見えます
電柱の少し先で旧奥州道と交差します 交差点名は「奥州道交差点」




影隠地蔵前に建つ石橋供養塔
この石橋供養塔は、安永三年(1774)二月 建立のもので、道標を兼ね
頂部に種子 願主 柏原村 十方助力
正面に「西 八わうじ道」、右面に「南 江戸道」、左面に「北 小川道」、裏面に「東 川こへみち」




影隠地蔵から南南東へ約1.2㎞行った国道16号線沿いに、入間川で頼朝の追手に討たれた源義賢を
祀った『清水八幡』(清水冠者源義賢終焉の地)が鎮座しています。2016.12.17撮影

『清水冠者源義賢終焉の地』⇐クリックでブログ記事に

散策日:令和2年(2020)7月16日(木)

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