名 称:岩室観音( いわむろかんのん)/岩室観音堂 (いわむろかんのんどう)
岩室山龍性院(いわむろさん りゅうせいいん)境外仏堂
本 尊:聖観世音菩薩
創 建:弘仁年中(810~824)※不確か
再 建:寛文年間(1661~1673)
構 造:木造懸造り
指 定:吉見町指定文化財 建造物(名称:岩室観音 昭和46年(1971)11月22日指定)
備 考: 比企西国三十三観音札所(霊場) 第三番・ 胎内くぐり
所在地:埼玉県比企郡吉見町北吉見327
岩室観音は、国指定史跡「𠮷見百穴」の手前の道沿いにあり、𠮷見百穴見学や松山城攻城の際に立
ち寄る方も多いようです。
岩室観音堂、嵯峨天皇の御代の弘仁年中(810~24)に真言宗の宗祖弘法大師が、諸国遊歴の際に、
当地で岩窟を選んで高さ一尺一寸(36.4㎝)の観世音の尊像を彫刻しこの岩窟に納めてその名前を
岩室山と号し創始したと伝えられています。
観音堂を正面から
この背後の崖の上は松山城の惣曲輪あとで、このお堂のある場所は、(伝)搦手口です。
岩室観音と石仏 岩をうがって観音像をまつったところから岩室観音という。龍性院の境外仏堂である。 この観音のはじまりは弘仁年中(810~824年)といわれていいるが、たしかな記録は残 っていない。 松山城主が代々信仰し護持していたが、天正18年(1590)松山城の攻防戦の際に兵火に あって当時のお堂は焼失してしまった。 現在のお堂は、江戸時代の寛文年間(1661~1673年)に龍性院第三世堯音が近郷近在 の信者の助力を得て再建したものである。お堂の造りは懸造り様式で、江戸時代のものとしては、 めずらしいものである。 また、ここにある石仏は、四国八十八ヶ所弘法大師巡錫の霊地に建てられた寺々の本尊を模し たもので、八十八体の仏像がまつってある。 また、この石仏をおがめば、いながらにして四国 八十八ヶ所を巡拝したのを同じ功徳があるとされている。 平成15年3月 吉見町・埼玉県 |
1階部分
このお堂の奥に胎内くぐりがあります
お堂に入ると左右の洞窟内にたくさんの石仏が安置されています。
これらの石仏は「四国八十八ヵ所」の霊地にたてられた本尊を模したものと言われ、合計で88体あ
り、こちら左側には、1番から51番までの本尊を模した石仏が安置されています。
こちら右側の洞窟内には52番から88番までの本尊を模したものとされる石仏が安置されており、居
ながらにして四国八十八ヵ所をお参りしたのと
同じ巧徳を得られるとされています。
また、「比企西国三十三札所」の第三番にも指定されています。
岩室観音について 一、縁 起 武州比企郡岩室山の正観世音は、その昔、嵯峨天皇の御宇・弘法大師が諸国を遊歴しこの地に至 り、岩窟を選び三昧に入り、観世音の尊像を彫刻しこの岩窟に納め、岩によりて殿をかまえ岩室 山と号し多くの人を血縁せしめました。 天正の終わり事、太閤秀吉関東に出馬したとき、石田三成の士卆によって松山城が灰燼となり、 その餘焔大殿にかかり堂宇残らず消失しても、尊像だけが不思議にも岩窟内に無事おわしました。 その後、龍性院中興第三世・堯音法師が師命を受けて遠近を駆け巡って檀信徒の助力を募って、 寛文年中に現在のお堂を造営したと伝えられています。 二、お堂 この建物、懸造りと称して、有名な京都清水寺の観音堂と同様で、稀に見る貴重な建物です。 三、ご縁日は毎月十八日 災難除け、交通安全、商売繁盛、安産等あらたらかな霊験は、広く知られています。 岩室山 龍性院 |
お堂2階 本尊様が奉ってあります 奉納額や千社札だらけです
胎内くぐりは、←印で示したところから鎖に掴まって登って行きますが、足場が悪いので注意を。
岩室観音堂の胎内くぐりはハート型になっており、ここで胎内くぐりをすると、 子宝・安産・子育
ての願いに通ずると言われております。
自身も、𠮷見百穴や松山城を訪ねた際に、(ついでに?)何度か立ち寄って何枚かの写真を撮って
ありましたが、今回あらためて訪ねてみました。
参詣日:令和2年(2020)5月28日(木)