四季・めぐりめぐりて

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渋沢平九郎自決の地(埼玉県越生町)

2021年05月24日 | 史跡・遺跡・文化財


本年の大河ドラマ『青天を衝け』の主人公渋沢栄一の義弟・養子である渋沢(尾高)平九郎の自決の地と
その関係地を訪ねてみました。

名 称:渋沢平九郎自決の地
指 定:越生町指定史跡(昭和37年〔1962〕2月14日指定)
所在地:埼玉県入間郡越生町黒山
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渋沢(尾高)平九郎とは
 弘化4年(1847年)、武藏国榛沢郡下手計村(現深谷市)の名主尾高勝五郎の末子として生まれ、兄の惇忠(新五郎)や
長七郎、従兄の渋沢成一郎(喜作)、渋沢栄一らの影響を受けて育ちました。
 慶応3年(1867)、渡欧する栄一の養子(跡継ぎ)となった平九郎は、日本橋錦町に居住し幕臣としての生活を始めます。
 翌年、鳥羽伏見の戦いの後、徳川慶喜追討令が出されると、成一郎や兄の惇忠とともに彰義隊、振武軍に参加し、徳川家
再興のために自らの生命を顧みず尽くす決意をしました。
 旧暦5月23日(7月12日)、隊長の成一郎と右軍頭取の平九郎らが率いる振武軍は、飯能の東方で新政府軍に敗れます。顔
振峠から黒山村(現越生町大字黒山)にひとり逃れてきた平九郎は、新政府軍の斥候隊に遭遇し奮戦しますが、深手を負い
潔く自刃しました。村人たちは、名も分らぬ若き志士を「脱走のお士様(だっそ様)と呼び、勇ましい姿を語り継ぎました。                         
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                            (『越生に散った若き志士 渋沢平九郎展』配布資料から)





渋沢平九郎自決の地は黒山三滝入口の二差路を三滝方向に向かわず左に100m程行った場所にあります。
平九郎はこの林道を下って来たのでしょう。




自刃岩の上に「自刃岩」と刻まれた碑が建立されています。
ただ岩だけでしたら自刃岩とは考えもしないでしょうし、気づきさえしないかもしれません。




【文化財解説板】(左)と【澁澤平九郎自決之地】石碑(右)


【文化財解説板】 ※越生町では数年前からこの形式の文化財説明板になりました
《上段》


左:渋沢平九郎の写真  右上:明治45年4月14日 自決の地を訪れた渋沢栄一一行の写真
            右下:渋沢家と尾高家略系図


《中段》


町制施行百周年記念 越生町再発見100ポイント
  80 渋沢平九郎自決の地
         平成元年度選定 平成28年度再建』
 慶応4年(1868)5月23日、飯能で官軍に敗れた一人の振武軍兵士が、顔振峠から黒山村へ下りてきた。官軍の斥候隊と
遭遇した兵士は、孤軍奮闘後、路傍の石に座して自決した。首は越生今市で晒され、骸は全洞院に葬られた。今市では、
横田佐兵衛と島野喜兵衛が、密かに首を法恩寺に埋葬した。黒山の村人たちは、その壮絶な最期を讃え、「脱走の勇士様」
(だっそ様)と崇めた。
 やがて、この兵士は振武軍頭取尾高惇忠(後に初代富岡製糸場長)の弟平九郎、享年22歳であったことが判明した。平
九郎は渋沢栄一の妻千代の弟で、渡欧する栄一の見立て養子となり、渋沢姓を名乗っていた。 「自刃岩」の傍らの茱萸
は、平九郎の血の色を宿す実をつけると言われ、「平九郎ぐみ」と呼ばれている。

                                昭和37年2月14日町指定(史跡)

《下段》


「澁澤平九郎自決之地」碑文
表題を書いた 澁澤敬三 は渋沢栄一の孫で財界人・民俗学者

この「澁澤平九郎自決之地」の石碑は、梅園青年会と八基村(平九郎が生まれた当時は手計村といったが、
のち改称して八基村となった・現深谷市)青年団の呼びかけによって昭和29年(1954)に建立されたもの。




「平九郎ぐみ」について




渋沢平九郎の墓がある『全洞院』(越生町黒山)




『全洞院本堂』




渋沢平九郎の墓 道標
  最上段 歴代住職の墓地の下
   黒山に散った悲運の英傑




奥にあるのが渋沢平九郎の墓




『渋沢平九郎の墓』




澁澤平九郎之墓(渋沢平九郎の墓)説明板




墓参に訪れた渋沢栄一一行の写真




境内に「澁澤平九郎埋首之碑」が建立されている『法恩寺」(越生町越生)




『澁澤平九郎埋首之碑』
この碑は、昭和39年(1964)、渋沢元治の題字、山口平八の撰文により建立された。
題字を書いた 渋沢元治 は渋沢栄一の甥(工学博士・日本学士院会員)
山口平八は、「澁澤平九郎自決之地」碑の撰文も書いている



                                         2021.2.19撮影
深谷市の旧渋沢邸「中の家」の敷地にある『澁澤平九郎追懐碑』
大正6(1917)、東京都台東区の谷中霊園にある渋沢家の墓所内に建立されたものですが、渋沢家墓所の
整理縮小にあたり、平成26年(2014)3月に、旧渋沢邸「中の家」へ移設された。
この碑は若くして亡くなった平九郎のために渋沢栄一が建立したもの。

【碑文】
 [澁澤平九郎追懐碑]
 楽人之楽者憂人之憂   (人の楽しみを楽しむ者は人の憂いを憂い)
 喰人之食者死人之事   (人の食を喰らう者は人の事に死す) 
        昌忠       ※平九郎が仮住まいの障子に書いた書

 嗚呼此我義子平九郎取義之前日自題寓舎障壁之辞也明治戊辰五月官軍入江戸城平九郎
 年尚少不忍坐視主憂便投振武軍廿三日遂殞命草野・・・以下省略・・・
                   大正六年十二月 義父 渋沢栄一識並題額


散策日:令和3年(2021)5月22日(土)

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