四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

世良田東照宮(群馬県太田市)

2017年10月14日 | 神社仏閣


名 称:東照宮
通 称:世良田東照宮(せらだとうしょうぐう)
祭 神:徳川家康公(東照大権現)
社 格:旧郷社
創 建:寛永21年(1644)
本 殿:一間社流造
指 定:国指定史跡(新田荘遺跡 東照宮境内)
所在地:群馬県太田市世良田町3119―1

新田荘遺跡(東照宮境内)
世良田東照宮は長楽寺住職天海大僧正の発願により、日光から長楽寺境内に勧請された神社です。本殿・唐門・拝殿
と鉄燈籠は国指定の重要文化財の建造物です。
日光東照宮は、家康の死後2代将軍徳川秀忠によって創建されましたが、寛永13年(1636)3代将軍徳川家光によっ
て、全面的に改築され現在の姿になりました。天海は、社殿の造り替えの際、旧奥社の拝殿と宝塔(現存せず)を、
徳川氏祖先の徳川(新田)義季(よしすえ)が開基した長楽寺の南西部分に移しました。
遷座(せんざ)は寛永21年(1644)10月11日に行われました。幕府は寺領100石に合わせて、神領200石の朱印地を
長楽寺に与え、合計300石を領した長楽寺を別当寺として、東照宮の管理と祭祀にあたらせました。また社殿等の修
理は幕府によって直接行われました。
境内には、長楽寺5世住持月船琛海(げっせんしんかい)の塔頭である普光庵跡(ふこうあんあと)があり、月船の
遺骨とともに弟子6人の遺骨も葬られた普同塔(ふどうとう)であることも確認されています。
                                      (太田市役所HPより)

この世良田東照宮は平成22年4月に訪ね、その3日後に当ブログにアップ済でありますが、東照宮の記事が3件続
きましたので、どうせなら4件並べようと写真を追加の上、再投稿します。




御黒門




門前右方に設置されている「東照宮境内案内図」板




門前に設置されている「東照宮」説明(案内)板




御黒門(縁結び門) この門は御黒門と言われ、江戸時代には正月と四月の御祭禮日に開かれました。地履長押(じふく
なげし)をまたいで参拝すると、良縁が成就すると言われ、「縁結び門」と言われています。・・・と書かれています。




御黒門を入るとすぐ左手に「上番所(再建)」




東照宮鳥居と社殿(拝殿)
拝殿前の3対6基の石燈籠は、東照宮の修復時にお宮警固を担当した藩(藩主)が工事の落成を記念して奉納したもの
※ 前橋藩主 松平朝矩 ・ 川越藩主 松平直恒 ・ 忍藩主 松平忠国




拝殿




拝殿上部の彫刻




拝殿背面




唐門 拝殿移築時に日光東照宮奥社神廟前にあった門を移築 門に付随し透塀が本殿を一周  門の中に見えるのが本殿




本殿




鉄燈籠
元和4年(1618)総社藩主秋元越中守長朝が家康公から受けた恩顧に対する報恩から、児玉の鋳物師・中林仲次に依頼し
て鋳造したもので、高さ4.95mの当時とすると 日本一大きい鉄燈籠。明暦4年(1658)長朝の曾孫喬朝が奉納したもの。

秋元長朝といえば、はじめ庁鼻和上杉氏に仕え、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原征伐のとき、主君氏憲が小田原城
に籠もったため、長朝も北条方に与して深谷城を守備しました。前田利家らの深谷城攻めに際し、城下を戦禍から守るた
め、杉田因幡と謀り、城を明け渡して深谷を兵火から守りました。その後、徳川家康の家臣となり総社藩主にまで出世し
た方ですね。




御供水井戸 御宮へお供えする水を汲み用いた井戸(平成15年に再建) 




境内 拝殿から鳥居の間にかけて




真言院井戸




「真言院井戸」説明版




普光庵跡




普光庵跡等の説明版




長楽寺の太鼓門

徳川家康公の先祖は、新田氏の始祖である義重から新田荘の内、当地「世良田」他5カ郷を譲り受けた子の義季である。
義季は5カ郷内にある利根川沿いの押切を徳川と改称し、徳川義季と称した。承久3年(1221)世良田郷を開発した義
季は臨済宗長楽寺を開基し、世良田の義季とも称された。寛元4年(1246)頃、亡くなり同寺境内に葬られた。その後、
頼氏・教氏・家時・満義と後継。 次の政義・親季・有親は、南北朝時代に南朝方として活躍したが、9代目の親氏に至
り北朝の猛勢により徳川郷を追われ同志 や一族の居所を頼りに出国。諸国を流浪の後、松平郷に身をよせ郷主在原信重
に入婿し、松平親氏と称した。 それから7代を経て家康公は誕生した。家康公は三河一国を統一した25歳の時、松平姓
から 徳川・世良田を開発した徳川義季にあやかり、徳川に復姓した。
また松平家二代泰親は世良田三河守、同三代信光は世良田二郎三郎、同七代清康は世良田次郎三郎、家康公第四子忠吉
は世良田下野守、尾張家三代綱誠は元服時に世良田、徳川七代将軍家継は幼名時に世良田鍋松君と先祖の姓である世良
田を称していた。                (東照宮HPの中の「徳川氏発祥の地の由来」を転記) 

徳川家康は、天正18年(1590)小田原北条氏攻めの功により、関東の地を与えられました。そこで、祖先開基の寺とする
長楽寺を、天海大僧正を住職として復興に当たらせ、寺領100石を与えました。天海は臨済宗から天台宗に改宗し、境内を
整備し、伽藍を修復し、幕府庇護のもと末寺700寺有余の大寺院に成長させました。



徳川義季公累代墓

なぜ世良田が徳川氏発祥の地なのか? いろいろと裏があるようですね。源氏を名乗る必要があったから・・・

今回は宝物館の展示物は省略しました。

東照宮シリーズ(?)はこれで終了です。他には行っておりませんので。

散策日:2010年(平成22年)4月24日(土)

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