四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

武田信俊館跡 -輪禅寺-(埼玉県小川町)

2017年01月27日 | 100名城以外の城館跡


比企郡小川町上横田地内に所在する曹洞宗の禅寺「一機山輪禅寺」を約6年半ぶりに訪ねてみました。(前回は平成22年(2010)8月17日・火)

この輪禅寺は、武田信玄公の甥である川窪(武田)新十郎信俊が、天正3年(1575)長篠合戦で討死した父信実(信玄の異母弟)の冥福を祈るために造営したと
伝えられています。武田家は天正10年(1582)天目山の戦いで織田信長軍によって滅亡しましたが、信俊はその直前に夫人と母を伴い甲州を脱出し信州に
身を潜めていました。その後、徳川家康の家臣となり、甲斐の川窪を領したことから川窪と姓を改める。天正19年(1591)甲斐から比企・賀美二郡に知行地を
改められ、1610石の領主として金窪(児玉郡上里町)に赴任、慶長13年(1608)父信実の追福と一族の菩提寺とするため、既にあった安養寺を廃し、新たに
輪禅寺を建立しました。山号の一機山・寺号の輪禅寺は、信実の法名「輪禅師殿玉輪一機大居士」に因んでいます。信俊の孫の代に川窪姓から武田姓に複しましたが、
これは将軍家光の命によるところです。武田氏一族の墓域は、墓地の一番高いところにあり、本堂を見下ろすような状態で、52基あまりの墓石・供養塔があります。




国道254号線小川バイパスを寄居方面から東松山方面に進行、高谷交差点を過ぎて少しすると輪禅寺入口の看板が見えます。道路反対側には小川消防署があります。




あとは標識通り進めばすぐに(1分くらい)輪禅寺前に着きます。駐車場もありますから、車の方でも安心です。




「曹洞宗 輪禅寺」の寺号標と山門 山門には、山号「一機山」の扁額が掲げられています。




山門前に設置されている説明板  6年半前に訪れた時のものから新しいものに変わっていました。墓石数の記載がなくなっただけで内容はほとんど変わっておりません。




境内




本堂




寺号「輪禅寺」の扁額




本堂左手にある石段を上って墓所に行きます




フェンスに囲まれた武田氏一族の墓域




川窪武田家初代信実の墓  信実の墓は甲斐・恵林寺にもあるようですので、これは供養塔でしょう?




武田家累代霊廟改修記念碑
武田氏10代にわたる墓石が長年の風雨により傾いたりしていたものを地元の方の篤志などにより昭和60年(1985)に整備し直したという説明文が刻まれています。
墓域を囲むフェンスはこの時に設けられたものと思料します。




整然と並んだ墓石 ① とても全部を紹介することはできません




整然と並んだ墓石 ②




整然と並んだ墓石 ③




武田家一族の墓域は本堂の屋根くらいの高さにあることが分ります




本堂裏の土塁?  別の所でも書きましたが、お城好きな方は、土の盛り上がりを見るとどうしても土塁と言うことにしたいようですが・・・




形状から土塁跡ではないかと思われている方が多いようですが、ここ輪禅寺は低い丘陵に建っています。丘陵の一部を削平し、そこにお堂もしくは館を
建立したと考えられますので、削平されなかった部分が土塁のように残った(実質的には土塁の役目をなす)のではと素人が勝手に考えてみました。




境内山門付近維咲いていたロウバイ




同じく白梅

散策日2017年5平成29年)1月23日(月)・25日(水)

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