本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

世界内存在

2023-02-24 21:24:04 | 十地経

『十地経』で、

今読んでいるところが

「無量」ということと

「無功用」(むくゆう)と

いうことが出てきています

それで無量ということで

「何等の衆生」と

無量に修行しようと、

衆生ということが無量

なんです

そして

「衆生はどこに住している

か」

ということが出て来ます。

 

「衆生はあるけど

どこに住しているかという。

どっかにおるものでしょう。

つまり境遇というものです。

今日では、有名な、

ハイデッガーの存在論

なんかでも人間存在という、

現実存在というものを

考えるのに

世界内存在といって、

In‐der-Welt‐sein

といいますね。

世界内存在と、その世界です

衆生の問題が次に

今度は世界という問題に

移ってくる。」

 

世界という言葉も

ワールドという方が

最近は通じるかもしれません

ディズニーの

「小さな世界」という歌が

有名です

また、サッチモの

「何と素晴らしい世界」

というヒットソングも

あります。

 

しかし、

広辞苑を引いてみても

世界という言葉の

一番初めの説明は

仏教語と有ります

それによると

「衆生が住む時間・空間。

”世”は過去・現在・未来の

三世、

“界”は東西南北上下を指す。」

とあります

 

仏教辞典では

もう少し詳しく

「ローカ・ダートゥ、

壊れるべき場所の意。

時間的には生滅変化の

移り変わりがあり、

空間的には方位などの

限定がある場所の意味で、

衆生が住んでいる場所。」

とあります。

更にもっと詳しく述べて

あるのですが、

 

漢和辞典では

「世」というのは

三十ということから出てきた

字で、

それから一代という意味も

出てきたようです

昔は30年が一世代だった

のではないでしょうか。

 

「世界においてあるもの、

In‐der-Welt‐sein と

こういうように

世界内存在ですね。

世界においてあるもの、

それが衆生なんです。

どっかにおいてあるもの

なんです。

 

まあこういうところに

社会ということの

基礎があるんです。

歴史とか。

これは、

世というのが時であるなら

界はやっぱり空間という

ようなものです。

世が歴史であるなら、

界の方は社会なんだ。

歴史的社会的に、

おいてあるもんだ。

 

そういう限定をもってですね

歴史的社会的限定において

あるものといえば

それは衆生ですね。

やっぱり

どうしても衆生という問題を

無量の衆生という問題を

考えてくると、

どうしてもそこに

世界ということが出てくる」

 

と続くのですが

「世界」ということも

仏教語ということも

驚きですが

時と場所を以て生きている

それを衆生と

厳密な意味があるのですが

それをワールドと、

いや、ワールドを世界と

訳したのはどういう意味合い

でしょうか

 

ワン・ワールドと

それは神のもとに一つの世界

というのでしょう

ところが仏教では

それぞれが一つの世界を

持っている、という意味では

世界ということも

西洋の神がいる考えとは

少し違うように思います

 

それぞれの世界を持っている

のですから

それを一つにしようと

するところに無理があり

問題も起きてきて

火種の下となっている

ような気がするのですが…

 

 

 

コメント
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