本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

無量自然は仏の世界

2023-02-18 21:05:21 | 十地経

自然、仏教では「じねん」と

読みます

「無量と自然」

第七地では大切な問題です

自然ということは

無功用(むくゆう)という

言葉でも出て来ます

 

「むくゆう」「うくゆう」

面白い響きを持った言葉で

興味をもった言葉です

漢字では「無功用」「有功用」

と書きます

普通には「こうよう」と

読んでしまいますが

仏教読みでは「くゆう」と

なります

 

簡単には努力する世界が

有功用で、

努力という意識もなくなる

そういう努力が無功用という

ような意味です

 

「これは我々、

何とも思っておらんですけど

必要があるから、

求められる。

求められると何か工夫する、

工夫するとそれが出てくる

こんな不思議なことが

あるでしょうか。

精神の不思議というのは

そういうことです。

打てば響くというのは。

 

その響かんように

しとるところに何か、

障りがあるんだ。

精神が悪いのじゃない、

精神の無限のはたらきを

何か妨げてるものがある。

 

それは非常に横着なこと

でしょう。

やるだけのことを

やらせてもらう

というようなこといって、

あれはいかにも

謙譲のようだけど、

あれはこすいんです。

裸になっとらんです。

何か責められたらその時に

答えるという

弁明を考えとるんや。

だからして、

やれる範疇で、

というようなことは

すでに計算を終えて、

算盤をはじいとる。

そういうものが妨げるん

ですよ、

打てば響くという精神を。

 

だからして、無量種

ということが、

無量って概念がこれが

『華厳経』では、

無尽ってこともあるね、

尽きないと。

無尽蔵というような。

これは精神生活というものを

考えるのに非常に大事な

根本概念です。

 

それからもう一つは

無功用、自然です。自然。

自ずから然るという。

この無尽、無量だけど、

その修行という範囲に

修行を超えた無量自然という

ことが映っとるわけです。

 

自然というのは、

修行を超えとるでしょう。

自然にできるのは

修行じゃない。

しかしそれが

修行を超えた自然が

修行の中に反映している

わけです。

それだから

修行が修行を超えていける

のでしょう。」

 

先日テレビで

車椅子バスケットの

鳥海選手のドキュメントが

ありました

本当に困難を乗り越えられた

のですね

しかし

当の本人にとっては

「できないことが多いから

 楽しい」と、

手の皮むけ、

車椅子で転びながらも

何度も何度も繰り返す

そのことが苦痛ではなく

楽しいと、

こういう努力があっての

最優秀選手に選ばれる

のでしょうが

本人にとってはまだまだと

そういう姿を見たとき

努力無功用行

ということがぴったり

当てはまるように感じました

 

ある面、こういう心境が

「無量自然は仏の世界」

ということなのかも

しれませんね。

 

 

 

 

 

 

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