「十地経講義」の中で
「打てば響く」という言葉
とても強く心に残ったものです
人とのつき合いでも
その人との響き合うものが
なかったら
成り立たないでしょうし、
仕事の面でも
その仕事と響き合うことが
なかったら仕事も出来ない
ものです。
何をするにも
「打てば響く」という
心意気がなかったら
成り立たないのでしょう。
しかし、講義では
もっと精神面のことで
苦難なことがあっても
その苦難に応えていく精神力
そういうことが
「打てば響く」という意味で
語られています。
そこで、
「無量」ということと
「無功用」(むくゆう)という
二つのことが出て来ます。
「それから無功用ってことは
これは何かというと
自然(じねん)というんです
自然である。
つまり、努力というような、
いかに無量であることが
できても、
更にそれを努力で無量にする
というような。
これは、人間の努力に、
努力というもに
期待しとるようでは
この修行は完成しないん
でしょう。
無量であって、
かつ自然ですね。
これも非常に大事な概念です
精神生活というものにとって
無量であるということと
自然であるということですね
できるだけのことをやる
というのじゃないんです。
必要に応じて無限にやると、
打てば響くというわけです。
臨機応変というのも
みんなそれですわ。
臨機応変です。
何かそこへあらかじめ
何か準備してあって、
それでやるというのじゃない
そうしたら
種が尽きるということになる
そうじゃなしに、
打てば響くというんですよ。
だから響くのは打ち方に
応ずるわけです。
何か精神というものは、
これだけってことが
いえんものなんです。
打てば響くというような
意味をもたなきゃならない。
これは小さいことですけど、
我々は、
障りという字が
あるんですけど、
我々が生活、
生きていく間には、
いろんな過失があるんです。
これは過失がある、
失敗があるってこと、
これを責めるわけには
いかんのじゃないかと
思いますね。
過失があったり失敗したり
ですね、
そういうことを
責めるわけにはいかない。
そういうことを責めとったら
生きれる人間は
一人もおらんです。
人間、生きていけば
必ず
失敗というものを起こすと。
しかし人間であるなら
失敗に対する態度があるわけ
でしょう。
人間である限り
失敗はあるけれど、
しかしながら
失敗するのも人間であるなら
失敗に対する態度が
そこに生まれてこんならん
ですね。
その失敗に負けたら、
人間でなくなってしまう。
失敗というものをあえて
責めるわけじゃないけど、
失敗を契機として
自己を展開するんです。
そこでへこたれてしまわずに
ですね。
だから我々逆にいえばですね
失敗せなんだら、
およそ精神が無限に展開する
ということを知らなかった。
失敗というものがないなら
ですね、
精神は無限のものである、
打てば響くものであると、
そういう精神が
自覚できなかったんだろうと
思いますね。」
今読み返してみると
ここは三浦先生に対する
激励のように思います。
この時は非常に苦しい
どうにもならない問題が
のしかかっていたのです。
安田先生は
経典に照らしながら
話をされたようですが
困難を一身に受けられていた
三浦先生には
とてもつらい話だったように
思います。