本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

春の散歩道

2017-04-20 21:24:17 | 住職の活動日記

いつもの散歩道、桜も散って

若々しい新緑に変わっています。

 

 

ちょうど奈良へ行くJR、

以前の東京の山の手線の列車

 

 

足下にはつつじが咲きはじめ

 

 

もう咲いている花も、

 

今年は寒さも続き桜も

長いこと咲いています

しかしここの桜は散り、

 

 

新しい葉が出てきています

 

 

さくらの花も次の段階へ

これから緑の葉を茂らせ

日の光の栄養を根の中に

取り込み始めます

 

 

散歩道にはちょうどチューリップが

咲き誇っています。

 

 

クモの子供、

花とともに大きくなり

花の香りに誘われた虫たちを

食べるのでしょう

 

 

見上げると

白いハナミズキが桜に代わり

満開を迎えています

 

ここの散歩道いたるところに

チューリップが咲き誇っています

 

 

 

白や赤、それに黄色

 

 

 

ちょうどいい時に散歩ができました

 

この散歩道やはり人通りも

多いのでしょうか

 

 

踏まれて茎は横に伸び

それでも必死に花を咲かせようと

 

「踏まれても

  咲くタンポポの笑顔かな」

 

ですね!

 

 

名前は分かりませんが

こういう美しいピンクの花を

 

 

可愛らしく咲かせています。

 

その近くに雑草にまみれて

 

 

アヤメでしょうか

白い、それも不思議な形で

他の草花に負けじとばかり

にょっきり顔を出しています。

 

 

振り返ってみると

本当に小さな散歩道ですが

これから増々木々たちが生い茂り

安らかな緑の木陰を作ってくれます

 

そういえば、先日紹介した

「ニシキギ」

茶色い枝だけでしたが

 

 

今は葉もつけて、

これから秋の紅葉に向けて

葉をグングン伸ばしていくことでしょう

そして、すっかり枯れ枝だった

「マンサク」

 

 

ビロードのような

小さな産毛に包まれた

初々しい葉を出し始めています。

 

近くには

 

 

周りは散ってしまった中に

ほんの数輪花を残しています

 

 

わずかに残る桜の花、

 

「散るさくら

 残る桜も散るさくら」

 

春という季節の中でも

それぞれの命の輝き、はたらきが

繰り返されています。

 

いのちの流れを感じる

生き生きとした季節でもあり

変化があり、

私達にとっては体調が

ついていかないような

厳しい季節でもあるようです。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聞くということ

2017-04-19 20:55:10 | 住職の活動日記

食堂でのことですが、

席が近かったせいか、

隣で話す声が否応なしに

耳に飛び込んできます。

聞きたくもない話ですが、

まあ、大きな声でよくしゃべる

それも聞いていると、

一人が喋れば次に相手が喋る

ただ喋っているだけ

話しのキャッチボールもできてないし

話が展開しているようでもない

関西ならまだしも笑いもあったり

落ちもあったりするのですが

沈黙が耐え切れないかのように

話し続けているという光景に

出くわしました。

 

よく三浦先生からは

人の話を聞くときには

心を無にして全身を耳にして

身体中で聞きなさい

といわれたものです。

保護者会や生徒に話されるときにも

身体中を耳にして聞いてください。

と話されています。

 

話を聞く、

なんだか当たり前のようですけど

本当はとても難しいことのように

思います。

人の話を聞くということは

ただ聞き流すのであれば

別ですけど、

本当に聞くとなると

自分を無にして

自分の固執を捨てて

相手の立場に立って聞かなければ

聞けないものです。

 

聞くということが大事な修行の

第一であるということは

本当に聞くためには

まず自分の固執(煩悩)を

一時捨てなければ聞けないものです

修行は「聞・思・修」

といわれるように

聞く耳を育てていくということが

一番の修行です。

 

しかし、

今の風潮を見ていると

聞く耳を育てるということは

逆行しているようにも思えます。

国会においても

お互いに自分の言いたいことだけ

言って相手の話は聞かない

何も話が進展しない

ただ持論を言い張るだけ

後は数の論理で押し通す。

 

最近の若い子は

話をするというだけでなく

ただ自分の言いたいことだけ

言うだけ

というような気がします。

話を聞くという習慣が

育っていないような

自分の主張だけは上手に述べる

そういう習慣があるようにも

思うのですが、…

 

物事を調べるにしても

好き嫌いを越えて

実験観察しなければ

ものそのものの声は聞こえてこない

何をするにしても

聞く耳が育たなければ

何もできないような気がします。

映画を見るにしても

お茶を頂くにしても

お料理を頂くにしても

聞く耳を持たなければ

本当の姿は見えてこないでしょう

 

聞く耳を持つということは

自分の煩悩をどれだけ対治できるか

自分をどれだけ否定できるか

ということです。

自分を肯定した立場では

絶対に真実の姿は見えてこない

ということです。

 

色々な話も

音も

聞こえてきます。

そこに真実な声を聞き取る

それには「聞く」という修行が

一番難しいのです。

 

唯識を見ていると

ここまでも人間の煩悩を

見抜いているのかと驚かされます

そうするとわが身は煩悩だらけ

どこにその煩悩を脱する道は

あるのか?

経典では「依附している」(えふ)

とかいてあります。

小さな種が仏の心にくっついている

その種を聞くことによって

仏の種を大きくしていくのだと、

だから仏心を開くには

聞法、法を聞くしかない

ということが述べてあります。

 

聞くということ

たかが聞くことかもしれませんが

されど一番大切な行なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シング イン ザ・レイン

2017-04-18 21:33:43 | 住職の活動日記

「シング~ 

  イン ザ・レイン」 

と、口ずさんだ記憶があります。

とても軽快な曲で、

ただ記憶に残っているのは

雨の中で楽しそうに歌う

その光景とリズムが衝撃的で

ずっと記憶に残っていました。

 

その公演が日本であり

チャンスを得て見に行ってきました

 

 

いや、わくわくするミュージカルです

 

年に一度は訪れる

この光景、

 

 

渋谷のスクランブル交差点

この付近いまだに工事中

 

でも、公演は素晴らしい!!

舞台に本当の雨を降らせる、

前列に人はレインコートを着ての

観劇です。

 

終わって、カーテンコール

ここからは写真OK

 

 

舞台に雨の振る中

全員で踊りまくります

 

 

まあこれも迫力もの!

 

 

舞台にたまった水を客席めがけて

足でけって水しぶきを上げます。

 

 

真ん中が主役のアダム・クーパー

素晴らしい舞台でした。

 

年に一度こういうのを観れるのは

最高です。

本物の舞台に触れることができる

やはり大切なような気がします。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

深大寺(じんだいじ)そば

2017-04-17 18:05:04 | 住職の活動日記

深大、深くて大きい

同じ対の言葉として

広大という言葉があります。

仏教の教えは深大にして広大と

「深広」という表現もとります。

 

そして、深大寺というお寺もあり

またここは「深大寺そば」も有名です

 

 

「雀のお宿」というお店

なまえのように竹林の中に

食堂が点在しています。

 

 

もう時期ですね!

筍が勢いよく顔を出しています

 

 

名の通りとても美味しいお蕎麦です

 

 

満腹になったところで深大寺へ

 

 

わら葺の山門をくぐり、

まず、古めかしいわら葺の建物

 

 

昔の本坊とあります

中をのぞくと、

 

 

大きな囲炉裏が

まだ使われているようで

外を見ると

 

 

昔使っていたであろう釜

そして、

囲炉裏の薪が積んであります

 

銅造の釈迦如来が

この度、国宝に指定されたようです

 

 

しかし、本堂の額には

 

 

「無量寿」という、

阿弥陀如来の文字があります。

 

 

扉には珍しい『木』の字に

作られたろうそく台があります。

 

境内はかなり広く

いろいろな花や木々が楽しめます

 

 

珍しい「なんじゃもんじゃ」の木

 

 

こういう白い花が咲くようです

 

そして、

 

 

シャガの花も目を楽しませてくれます

 

 

これからいろんなところで

出会う花です。

 

それから、猫ちゃんにも

出会いました。

 

 

ノラちゃんなのか、

それにしても丸々と太っている

たぶん、お参りに方からいろいろ

頂いているのでしょう。

 

自然が豊かに残る深大寺

お参りも散策も楽しいところです。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

合掌、聞法

2017-04-16 17:24:09 | 住職の活動日記

我が家の孫たちも入園、入学と

新たな世界へ旅立ちです。

「いかない ❗ 」

と言っていた孫も

新しい友達ができたようで、

楽しく通園しているようです。

 

西京極幼稚園でも、

新しい園生活が始まったようです。

 

届いた、「たんぽぽ」4月号

今月の徳目は「合掌、聞法」です。

少しご紹介します、

 

さて、感じ方は人それぞれでしょうが、

形からでも構わないので、

「合掌」をしてみてください。

手と手を合わせてみてください。

すると、

手の温かみや、

姿勢が正しくなるような

感覚が得られませんか。

手と手を合わせる。

ただそれだけの行為にもかかわらず、

「合掌」をしていると

荒げた行動はとれません。

まして、手を出すこともできません。

 

仏教では、

すべての人には仏心

(仏さまの心情)が

備わっているといいます。

つまり、

自分の中の仏さまと、

自身が合わさることが「合掌」の

姿ということができるのです。

実生活の中でも食事を頂く時などに

自然と手を合わせることができる

姿には自らが仏となることで

感謝の心を表しているのです。

「合掌」とは、

自分が自身の中にある仏に語りかけ

自分自身を見つめ、

自らを愛おしみ大切にすることを実感し

その心を他者にも向けることを

意味しています。

 

「聞法」とは尊い教えを聞き、

自らがその実践を修することをいうため

「合掌聞法」という徳目は、

普段からしっかりと自身と

向き合うことを通じて、

自らを大切にすることに気づき、

様々な関わりの中で、

他者の存在を認識し、

感謝し、

敬うという「合掌」の精神と、

話を聞き、

学び合うという「聞法」の

姿勢により、

一人では得られない作用から、

見聞を広め仲間と支え合えるような

環境を作ることに

繋がっていくことになります。

 

 

と書いてあります。

簡単な一文のようですが、

この年になっても、というか

この年だからこそ、

というか、頭が固くなり、

人の話を聞けなくなってきた

私たちにとっては身に堪える

言葉です。

 

先日のこと、

同世代の人が集まって、

話し出したら、

それぞれが喋りだし

収集がつかなくなってきました。

今、喋らなかったら忘れてしまう

だから今、言わなくては

というのです、

そしてさらには、主語もなく

突然単語が飛び出してくる、

話のキャッチボールができない。

なかなか悲しい年になってきました

 

話を聞くという習慣

小さい頃から育てておかないと

いけないということを

つくづく思い知ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もう1年が過ぎたのか!

2017-04-14 22:30:06 | 住職の活動日記

「もう、あかん!!

 お寺が倒れる」

と、電話がったのは

4月14日9時半ごろでした。

それから、更に強い地震、本震

4月16日午前1時半ごろです。

 

その後、17日には二番目の孫が

地震のさなかに誕生。

 

激動の一年前

もう過ぎたのかと思う反面

熊本城、阿蘇大橋の惨状を見ると

まだまだ、

益城の方面を走っても

道のうねり、

やっと復興に向けて手がつき始めた

というところでしょう。

 

京都新聞の「凡語」の欄に

江戸初期、細川忠利が被災や復興の

有様を幾度となく書き残している

ということです。

その当時も余震が続き

「それにしても危なくて

 庭のない本丸には居られない」

と、大弱りだったとか、

そのことを熊本大教授稲葉継陽教授は

「古文から読み解く震災」

で述べておられるということです。

天守は壊滅的、煙硝藏が爆発

城内の死者は50人にもなった。

復旧を命じたものの

農民の窮状を見かねて復旧を延期

麦の作付援助に思い至る。

という古文書もあるという

 

熊本城の復旧には20年は

かかるとか、

生きているうちに元の雄姿は

見られない、

高校時代熊本を訪れた

京都の耳鼻科の先生

もっと詳しく見ておけばよかった

と嘆いておられました。

 

阿蘇神社の惨状を見ても

そうたやすく復興できるものでは

ないようです。

 

時間がかかるかもしれませんが

記憶を消さないためにも

いつも心におもい当り

忘れないということが大切です。

 

そして、

どこにでも起きるという

他人事ではないということも

思い知ることが肝心です。

 

テレビや新聞で

今の阿蘇大橋や普段いけない

熊本城のを間近に見るたび

心が痛みます。

 

「余震なお指先にある春の闇」

震える指先を見つめ、

なすすべがなかったという。

 

ということで結んであります。

 

1年2年と1周忌・3回忌

とあるように、

法事を勤めるように

いつも心に留め忘れない

思いおこすということが

務めではないかと思います。

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

彦根城さくらまつり~海津大崎さくら

2017-04-13 22:53:04 | 住職の活動日記

彦根城は今が桜満開

 

 

石垣とお堀に生えるさくら

 

 

なんともいい時にお邪魔しました

 

 

もう京都は散りはじめ

やはり、少しだけ北にあるせいか

さくらも今が見ごろ

 

 

 

なんとも美しい

 

 

 

少しだけ城内へ

 

 

雁木の桜も見事

 

 

堀には船も浮かべて

船からの桜も楽しめるようです

 

 

たまたま今日は快晴の青空

さくらの花も色鮮やかです

 

 

お城の石垣の土手には

タンポポの黄色と桜のピンク

その対比も美しい

 

そこから彦根の港へ

琵琶湖を横断する形で

対岸の海津大崎へ向かいます

 

船より桜を楽しもうという魂胆です

竹生島を横目に見て

小一時間の船旅

 

 

見えてきたのが

海津の桜並木

 

 

船よりの眺めも最高です

海津大崎の桟橋に上陸

 

 

枝垂れの桜はこれから

 

 

 

湖上に生えるさくら

 

 

ちょっと散策

 

 

空も美しいしさくらも尚更

美しい

 

 

湖上沿いに散歩道があります

 

 

湖上の上に懸崖のように

垂れ下がる桜も見事です

 

 

琵琶湖の西沿いにも道はあるのですが

なにせこの時期は大変な混雑

ということで高速で彦根へ

行った方が早く着くのでは

 

 

道路は大変な渋滞

 

 

ここの枝垂れ桜はまだつぼみ

これからが見ごろでしょう

 

 

まあ、たまたまこの時期に

訪れることができたのは

幸いでした。

 

 

 

本当に彦根城といい海津大崎の

さくらといい

とてもいい出会いでした。

 

天気にも恵まれたことは

なによりもラッキーでした。

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虚無(きょむ)と虚無(こむ)

2017-04-12 17:03:44 | 漢字

仏教では同じ文字でも

読み方も違えば意味も違ってきます。

 

利益と書いて、

仏教では「ごりやく」

普通には「りえき」です。

意味合いも似てるようで

微妙に違ってきます。

 

また、

もとは同じことばでも

私たちが勝手に取り違えている

言葉もあります。

「因縁」と「縁起」

訳された時代によって

因縁ともいい縁起ともいいます。

しかし、

私たちは「縁起がいい」

というように縁起というと

何か良いことがあった時に使い

「因縁」というと

因縁が深いとか

妙に悪い意味で使うようです。

 

「虚無」という言葉も

普通には「きょむ」といい

虚無主義と言えばニヒリズムです。

経典の中には否定の言葉が

たくさん出てきます。

無とか空とか、不という言葉もあり

非ということも出てきます。

般若心経にも出てくる言葉です。

 

無と空よく似ています。

しかし、厳密にするために

「空」のことを虚無(こむ)と

言います。

否定していることは同じなのですが

否定している内容が違う

私たちの執着(しゅうじゃく)を

否定しているのが「空」で

これを虚無(こむ)といいます。

それに対して、

真理を否定しているのが

「虚無」(きょむ)ということになります。

 

真理を否定しているということは

我執に立っているということです。

自分の意見を絶対と思い

それに固執して動こうとしない

自分の意見を曲げようとしない

そうすると

心が汚れてきて暗くなる

心が軽やかでない、

ということがあります。

 

お釈迦様も、

有に迷っている人間には空を説いて

夢から覚めさせればよい、

と言われる。

けれども、夢もない人間は

どうしようもないと

嘆かれたという。

無に迷っている人間、

無を握って離さない人間、

これにはいくら空を説いても

駄目である、

と言われたということです。

 

ニヒリズムのことを

仏教では「悪趣空」といっています。

 

同じ「虚無」でも、

私たちが使う言葉と

仏教でいうう言葉とは

まったく内容が別ということが

あるようです。

 

仏のことを

「虚無之身(こむのしん)

 無極之体(むごくのたい)」

という表現もとります。

私たちの執着の心を否定した

身体ということでしょう。

「執着」ということが

一番きついのです。

煩悩よりも、

煩悩が悪いと言いますが

一番私たちを悩ますのは

煩悩よりも執着という

物事に固執して離さない

そのことで一番苦しむようです。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モラトリアム人間

2017-04-11 17:01:35 | 住職の活動日記

「モラトリアム」

本来は経済用語でしょうか、

債務の履行を延期する。支払い猶予

というような意味があります。

 

エリクソンという方が心理学の

言葉としても使われ

「モラトリアム人間」というように

人間が成長して、なお社会的義務の

遂行を猶予される期間。

と辞書にはあります。

 

つまり、

決断することを猶予する、

いつも猶予している。

自分の全身をかけて一つのことに

打ちこんでいくような生活姿勢

というものがない。

どっちに転んでも大丈夫なように

いつも斜に構えている。

チャンスを与えられても

それを活かそうとしない。

なにかしら、そういう若者が

増えてきたような気がします。

 

煩悩の中にも

「疑」ということと「不信」

ということがあります。

何でも疑ってかかる、

それと信じないという不信

どちらも似ています。

 

「疑」は

根本煩悩に属し、

貪・瞋・痴・慢・疑・悪見

というのが根本煩悩、

「不信」は

大随煩悩に属しています

これには八つあり

掉挙(じょうご)と惛沈(こんじん)

不信と並びに懈怠と放逸と

及び失念と、散乱と不正知となり

というように出ています。

 

「疑」という煩悩は範囲が広い

だから、

ある面では疑うということは

その疑いが晴れたら、

その心は信に変わることがあります。

しかし、

「不信」は非常に積極的というか

無神論とでもいうか

真理に対して積極的に否定する

本当の事実とか、価値あるもの、

値打ちあるものを否定する。

 

否定だけならいいのですが

それによって、

人間の心が穢れてくる

心が透明にならないということに

なってきます。

と同時に、何もやる気がない

という心になってくることが

不信ということの怖いことです。

人間を立ち上がらせない。

理屈ばっかり言って、怠け者

非生産的な存在、

生活が非生産的になる。

 

そのことが「不信」という煩悩の

一番恐ろしいところです。

お経には、

「不信は惰の依になる」

と書いてあります。

懶惰とあるように怠けの元

になるということです。

 

ある一面では、

モラトリアム人間というのは

いつも斜に構えて

本当のことを信じようとしない

いつも猶予している

決断を先延ばしにしている

そういって、

自分は怠けの張本人になっている

ある種のニヒリズムに陥っている

そして一歩を踏み出そうとしない

というようなことになるのでは、

 

仏教もさとりという美しい面を

見つめていくのもだいじですが

人間の煩悩の相(すがた)を

明らかにしていくのも

大切な方向だと思います。

 

そっと隠していた

自分の心をそこまでめくって

明らかにするか、?

もうこのくらいで止めて

と言いたいくらい

事細かにもらさないように

煩悩のあり方を見つめていくのが

「唯識」という経典です。

 

「モラトリアム」

経済面では今の

『東芝』のようでもあり、

なかなか決算ができない

猶予されている。

また原発では、

稼動の禁止措置ということにも

使われるようで、

心理学的には、

社会的義務を猶予されている

本当に幅広い言葉です。

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春の匂いも芽吹く花も

2017-04-10 21:23:25 | 住職の活動日記

4月になっても寒い日もあり

おかげで「さくら」の花は

まだまだ見頃が続くようです。

 

 

ちょうど、JR木幡駅の桜並木

この道筋は火薬庫があって

そこへの引き込み線の跡地が

散策路になっています。

 

 

あふれんばかりの桜

 

 

満開の花には雨は

心地よいシャワーのようで

これくらいでは散ることはないでしょう

 

 

モミジも真新しい葉を吹き出して

これから大きくはを広げていきます

この散策路に踏み込むと

萌えいずる香りというか

なんとも言えない若葉のかおり

その力強い命のかおりが

漂ってきます。

 

 

足下には小さな、

スノーフレークという花でしょうか

小さな鈴蘭のような花です

 

 

これはニシキギの新芽です

これから葉を伸ばし

 

 

 

秋には

見事な紅葉になっていくのでしょう

 

 

サルノコシカケも発見

子どもの頃には本当に座れるのか

とても興味を持ったものです

しかし、

サルノコシカケが出て来る

ということは

 

 

もうこの木が全身、

菌が回っているということです

確かに他の木に比べて

あまり葉も出していません

 

それから、

 

 

つつじの花芽も膨らんできている

 

また今の時期は

 

 

山吹も色鮮やかです

 

帰りしなにはチョット足伸ばして

おもしろいところで

ティータイムです

 

 

ここはもと「日本銀行」があった

その金庫を喫茶店に改装したもの

 

 

壁にはわずかに

小さな金庫の扉のような

跡が見えます。

しかし、この建物全体が金庫

ということですから、

まあ、お金はなくても

気分だけは心豊かに

サンドイッチとコーヒーを

頂きました。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする