本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

節分も終わり鬼も一休み !!

2012-02-14 22:02:49 | 住職の活動日記
 いつもの歯のメンテナンス。  

今回は、昨年人造の歯を入れましたので、レントゲンも撮ります。

やはり、2月ということもあって、デコレーションは 「 鬼さん 」 です。



   



 けど、節分も終わったという事で休憩中です。

「 来年のことを言うと鬼が笑う 」 かもしれませんが、

鬼の子供たちは無邪気に、お楽しみの様子、


   


ま~、  …  豆まきも終わり、ほっとして

来年までは、しばしの休憩というところでしょう。



   



 部屋の片付けをしていましたら、

部屋の隅から 「 漢和中辞典 」 を発見  

今まで使っていたのと同じものです。



   


 ここまで使い込めば、あとはガムテープでも張って、まだ使うか ??

新しいのにするか迷っていたところでした。

 高校生のときから使い、今では、なくてはならない貴重なものになっていました。



   



 新しいといっても、ただ使っていなかっただけで、

「 昭和42年1月25日  74版 」 とありますから

古い分と2年ほどしか違いません。


 ご苦労様の気持ちをこめて、

「 鬼 」  という字を引いてみました。

「 鬼部 」 ( きにょう )

 鬼字の下半分 儿が人をあらわし、上は頭に大きな面、鬼頭をかぶっている形。

とあります。

 「 たましい 」  とか  「 ばけもの 」

というような本来の意味とは別に、

 すぐれて勇猛なものの形容 「 鬼将軍 」

というのもあります。


 「 鬼 」  という字は良くも悪くも、まったく正反対の意味で使われるのは

とても面白いと思います。

 ということもあってか、  当院では節分の掛け声は

  
  「 福は内  鬼も内 」

なのです。


 滋賀県には古くから 『 大津絵 』 というものがあります。

とてもユーモラスでもあり、ちょっとした風刺も効いています。



   



 「 鬼の雪中念仏 」  です。

鬼がころも着て、傘差して、雪の中で念仏を唱えているのです。


      …  !?


じっとよく観れば、

  わが姿かもしれません。 


 外には立派な衣を着ているものの、

 さて、心の中は …     ややもすると 鬼の姿になっているのかもしれません。


ドキッと  はっとさせられる  一枚です。


  「 こころ  せよ  律良  !! 」


という声が聞こえてきます。





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晴れのち雨

2012-02-13 21:26:18 | 住職の活動日記
 昨日は、寒さも緩み、とても穏やかな天気でした。

第二日曜日で 「 サラの苑 」 では毎月の 『 総供養 』 が勤められました。

 いつもの方や先月亡くされた方、まだ悲しみもあり、

名前をお書きしていると、目には涙も浮かべておられます。

なくなった仔たちにとっても、こうやってお参りしていただけるのが

何よりもうれしいひと時です。

 自分がこの世にいて、かわいがられた思い出に浸る事ができます。

私たちはこの仔たちから、無償の愛をいただくのです。

そして、いのちの事をしばし考えるときをいただきます。

忙しい毎日の中で、宝の時間をいただきます。



   



 『 菩提樹苑 』  では  『 梅 』 の蕾が膨らみ始めていました。


 今愛用の 「 Xacti 」 少し調子が悪い、

接写のとき、うまくピントが来ません。

かなり角度を変えたり、場所を変えてみたのですが、

とうとう、梅の蕾にはピントが合いませんでした。



   



 『 菩提樹苑 』 は辰巳向きということもあり、

とても日当たりもよく、植物にとっては幸せな場所でしょう。



打って変わって、昨夜から  


 当院は北向きという事もあり、植物には厳しい環境です。

梅も蕾も出る様子がありません。

ただ、雨の合間、もみじの枝についた 『 水玉 』 がキラキラと輝いていました。



   


 けど、やはりピントが合いません  

とくに、こういう枝ものはピントが合いにくいのかもしれません。

このカメラ、ピントがないので、ピントマークを

被写体に上手に合わせるコツがいるのですが、  …  



   



 水仙が雨に打たれていましたので、撮ってみると

これは上手にピントが合いました。


   



 ついでに、葉っぱの様子も撮りました。

水玉の感じがとても好きです。



 晴れから一転、雨、ここ数日続き、

また寒さが戻ってくるようです。

身体にはこたえますが、

植物が目を覚ますのには必要な事なのでしょう。





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今週の言葉 2/13~2/19 「 自らを灯明とし、自らを依り所として …

2012-02-12 19:45:08 | 今週の言葉
      自らを灯明として、

      自らを依り所として、

      他人を依り所とせず、

      法を灯明として、

      他を依り所とせずして住するがよい。



 2月15日は 涅槃会 ( ねはんえ ) といって、

お釈迦さまがそのご生涯を終わられた日です。

この今週の言葉は、お釈迦さまの最後の言葉です。


 涅槃会の歌には、

   1、遠くみ空に 楽( がく )の音( ね )すみて

     沙羅のはやしは 花咲きみてり

     あわれとうとき 大( おお )み姿

   2、たかきいやしき 差別 ( けじめ ) もあらで

     ともに真如の ひかりをあおぐ

     実 ( げ ) にもとうとき 救世 ( くせ ) のみ業 ( わざ )

   3、こころあわせて ほとけのあとを

     ともにたどれど 真心こめて

     実にもとうとき 大 ( おお ) み教え

   4、法 ( のり ) のともしび 輝きまして

     とわに無明の 闇路を照らす

     あわれとうとき 大 ( おお ) み聖 ( ひじり )


経典には

  アーナンダよ、比丘たちは私に何を待ち望んでいるというのか。

  わたしは内も外もなく、ことごとく法を説いてきた。

  アーナンダよ、如来の法はあるものを弟子に隠すというような

  秘密はなにもないのである。

  アーナンダよ、わたしはもはや老い衰え、老齢すでに80となった。

  たとえばアーナンダよ、古き車が皮ひもの助けによって行くように、

  そのようにアーナンダよ、思うにわたしの体は、

  皮ひもの助けによって、わずかに保っているにすぎない。

   さればアーナンダよ、なんじらはここに

  自らを灯明とし、自らを依り所として、

  他人を依り所とせず、

  法を灯明として、法を依り所として

  他を依り所とせずして住するがよい。

と、お釈迦さまの言葉を述べています。


 お釈迦さまの最後の旅はクシナガラに向かって行かれます。

そのとき 阿難 ( アーナンダ ) が一人随行しておられます。

途中、暑いので沐浴をされます。

しかし、老衰しきったお釈迦さまは岸から上れない。

阿難の助けによってようやく岸に上ると、

普通は、結跏趺坐して瞑想されるのですが、それができない。

その弱りきったお姿をじっと観ていたのが阿難です。

傍からみれば、ただの弱りきった老人です。

しかし、阿難には何もにも代えがたい偉大なお姿に見えたのです。

どこの国でも 「 釈迦涅槃像 」 というのは大きな姿に作られます。

それは阿難が見たお釈迦様のお姿なのです。

生身の体である 「 色身 」 ( 色のついた体ということではない、

              色というのは色即是空の色という形あるもの、)

は滅びていくのですが、その説かれた教え、

その教えが 「 法身 」 ( ほっしん ) ということで、

その教えの偉大さを現すのが仏像なんです。

仏像というのは、阿難が観たお釈迦さまの法身の姿です。

その法身 ( 説かれた教え ) の大きさが奈良の大仏のような

大きな姿となってくるのでしょう。


 お釈迦さまが 「 自己を灯とし、法を灯とせよ 」 といわれました。

本当の教えを灯とし、その教えを聞いて 

「 なるほど 」 とうなずいた自己を灯として、

決して、他を灯としてはならない。

これが独立者の道である。

大勢の力に頼ってわあわあ言うのは暴力であって、

自由への道ではない。

人が何を言おうと自らを灯とし、法を灯として、

千万人といえどもわれ行かん、という

そういう独立者になりなさい、

と、お釈迦さまは教えられたのだと思います。

自己に目覚めよ。

たとい神や仏に救われなくてもいい。

自分が自分に救われる人間になってもらいたい。

これが、お釈迦さまの最後の言葉だとおもいます。







      

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一服所望 !

2012-02-10 21:01:38 | 住職の活動日記
 お抹茶を点てていただきました。


    



 「 この筒茶碗、この時期にしか使いませんので 、 …  」

ということで、一服点てていただきました。

 やはり寒い時期は、手を温めるという意味もあるのでしょうか、

しっかり手の中に抱いていただきました。

 とてもおいしかったので、つい、お替りまで頂戴いたしました。

お抹茶も、ポットから気軽に点てていただけるのは、とてもありがたいです。

作法を知らない私には心置きなく楽しんで味わうことができます。


 東寺の時は、野点をやったりしたとき、裏方でひたすら点てる事に専念しました。

一日、百杯を越えるほど点てるのです。

そのおかげで、きめ細かい泡だけは上手に立てることができるようになりました。

ということで、長いこと 「 茶坊主 」 の指名に預かりました。

でも、 「 茶坊主 」 もいろいろ役得がありまして、

有名な方やスターの方がお見えになるときは、間近にせっすることができ

表では聞けない話も、垣間見る事ができたのです。


 お茶のときは  『 一服 』 といいます。

コーヒーは一杯です。

 『 服 』  という字が気になり、

見てみると、幅広い意味がありました。

 ① きもの 「 衣服 」 「 洋服 」

 ② きる。身に着ける。

 ③ 身に着けて忘れない。

 ④ したがう。ふくする。つかえる。 「 心服 」

 ⑤ つとめる。役につく。 「 服務 」

 ⑥ くだる。 「 降服 」

 ⑦ のむ。薬や茶を飲む。 「 頓服 」

  …

そのほかもろもろ意味があるのです。


 一つの言葉も、( 言葉も生きものなのでしょう、) つぎつぎ成長しているようです。



特に最近では、若い人たちの間で 「 新語 」 が次々生まれているようです。

日新語月歩 「 にっしんごげっぽ 」 というらしいのです。

 
 「 スル女 」 ( するめ )  付き合うほどに味が出てくる女性。

なるほど !

 「 鮭る 」 ( しゃける )  鮭が自分のふるさとへ帰るように実家に帰ること。

            そして、流れに逆らっていくように、電車が混んで 

            「 しゃけって行った 」 とか。

 「 二金 」 ( にのきん ) 本屋で立ち読みをする。

           二宮金次郎からでた言葉でしょう。

そのほか、

 「 勤続アレルギー 」  仕事が長続きしない。

              今の若者の事なのでしょう。

 「 パパカレ 」 なっていうのもありました。

    パパが彼氏、ということで、若い子が父親とデートする事らしいのです。

    「 久しぶりにパパカレに甘えちゃおう ! 」

    ま~、父親は甘いものですから娘のことは何でも聞いてやるようです。

言葉も日々進化しているのです。


 「 一服所望 」 いたしましたので、

一つのことから、いろいろ面白い事が発見できました。







 
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「 万劫の初事 」

2012-02-09 21:24:50 | 住職の活動日記
 お参りに行く度に、

 「 ここのアパート家賃がいくらで、電気ガスがいくらかかって、

   生命保険が毎月これだけ、がん保険がいくら、 …

   がんと診断されればすぐ保険料が出るのです。」

ということから、会話が始まります。

 どういうわけか、この方とはお会いしたときから、この話なのです。

菩提樹苑にお墓を立てていらっしゃるという事からのご縁です。


また、今日もこの話か     ??

やはりそうでした。


     と思いつつも、

ふと、思い出したのです。

 「 万劫の初事 」 ( まんごうのはつごと )

三浦先生の話で、どんな話しでも、生まれてから始めて聞くように

驚きをもって聞かなければいけない。!!

   「 その話は聞いた。!! 」

といってしまえば、本当のことは聞けない。


 いつも目をそらさず、聞くのですが、

今日は特に思い直して聞いて、聞き返したり、

そうこうするうちに、いつもの話の中から、

微妙に新しい話しの展開がありました。


 奥様を亡くされ、男所帯、ひとりでの生活です。

毎月欠かさず、月参りをお願いされ、

仏壇には、整っているとはいえませんがお花がお供えしてあり、

たぶんスーパーで買われたようなお菓子がお備えしてあります。

 私には、ペットボトルからのウーロン茶と果物がでます。

よくよく考えれば、とてもえらいな~  と感心させられます。

 ( もし、立場が反対だったら、私なら出来るだろうか ?? )  怪しいものです。


 「 息子もあてになりません。

   墓参りもしてくれません。

   本蔵院さん私が死んだら、後の供養はお願いしますね。

   遺言書に書いておきますけん ! 」


苦渋の選択だったのでしょう。


 「 菩提樹苑の観音廟に両親と私と妻の永代供養をお願いします。」

 「 もうちょっと、何とか自分でやれると思います。

   いよいよのときは言います けん !! 」


私たちと一緒です。

毎月、お仏壇で同じお経をあげます。

この方も、毎月、家賃がいくら から始まって  同じことの繰り返しです。

しかし、これが大事なのです。

同じお経も、万劫の初事、初めて見るように感動を持って読まなければいけないのです。


 「 人生の学びの始まりは、驚きの心にある 」


どれだけ、この心を保ち続けることができるか、人生の鍵です。


 「 劫 」 ( こう ) とは、インドの時間の長さです。

  四里四方の石に、百年に一回天女が降りてきて

  踊りを踊る、そのとき羽衣で擦り切れて、その石が無くなったのを

  一劫という時間の長さです。

  インド人はよくもこういう考え方が出来るものと思いますが、

  そいう長い時間の中で初めて出会うということです。

  それほど、人との出会いは貴重なものなのです。




 鬱陶しい、と思えた人が輝いて見えました。    







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ありがとう  太郎ちゃん  さようなら !!

2012-02-06 17:48:20 | 住職の活動日記
 昨夕、家族に見守られて 「 太郎ちゃん 」 静かに、

いのちのふるさとへ帰っていきました。

 慧亮部長、夕方6:30には出かける都合があり、

6時に帰宅されたそうです。

その時を待っていたかのように、「 太郎ちゃん 」 は

6:20静かに息を引き取ったそうです。

 晩年の様子を聞いていると、本当に満身創痍になりながらも、

不平も言わず、何一つ文句を言うわけでもなく、

自分に与えられた いのち を精一杯全うして、燃え尽きるように

自分の命に幕を下ろしました。




     



 『 サラの苑 』 の本堂で、阿弥陀如来に見守られながら、

その姿を横たえていました。

 食事ものどを通らず、その体は  …  本当にご苦労様  と

いうほどの姿になっていました。




    



 職員の皆さんから花束が手向けられました。

涙ながらに、みなさんやってきて、焼香をしていただきました。

お葬式も終わり、いよいよ野辺の送りです。



    




    



 たくさんの花で体をお飾りしました。


「 太郎ちゃん 」 は菩提樹苑で生まれ、最初はノラとして生まれたのですが

慧亮部長宅に引き取られ、18年も一緒に生活しました。

珍しくも、ここで生まれ、ここの土になっていくのです。

「 太郎ちゃん 」 にとっては、慧亮部長家族から

たくさんの愛情を全身に受けて、幸せな一生だったと思います。

 最後は、目も見えず、耳も聞こえず、ただ人の気配を感じて、

手を差し出し、その手を握ってやると、グッパグッパと握り返し、

そして、膝の上で抱っこされるのが一番愛情を感じるひと時だったようです。

ここ一週間は手を握っても、握り返す力も無くなった、ということです。



   



 思い出は尽きないのですが、いよいよお別れです。


    『 太郎ちゃん ありがとう !! 』


の部長の声で、スイッチが押されました。


  ありがとう   さよなら  


 年とともに、別れが辛くなってきます。


   「 これから夫婦喧嘩が増えるかも  ?? 」

ぼそりと、慧亮部長

 本当に、子ども以上に夫婦の架け橋となっていた 「 太郎ちゃん 」 でした。


 最後の最後まで、自分の命を燃やし続けたその姿は立派でした。


  

   人事ではなく、このことは自分の姿なのです。

   この太郎ちゃんのように見事には出来ないでしょう。

   文句や不平を言いながら、ばたつきながら  …

   それが心配です。



いのちの世界では、先に往った人たちや、太郎ちゃんや、銀太、ピンキー

たくさんのいのちとまた会うことができるのでしょう。


    ほんとうにごくろうさまでした。

    いのちにかんしゃ 






  
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今週の言葉 2/6~2/12 「 空なるがゆえに一切が成立する 」

2012-02-05 19:39:03 | 今週の言葉
        『 空なるがゆえに

            一切が成立する 』




 毎月の勉強会の折、

職員から、 ( どうもこの方 「 空 」 ということが気がかりのようです。 )

おりにふれて、「 空 」 ということの質問が飛び出すのですが、  …  ??

どうにもこうにも、適切なことも言えずにいました。


 昨年、琴奨菊が大関昇進の伝達式で、


   「 万里一空の境地を求めて、日々努力精進します 」


と、口上を述べておられました。

 宮本武蔵の 『 五輪書 』 から引用されたのです。


 「 山水三千世界を万里一空に入れ、満天地とも攬る ( と ) 」

                 攬( 手中に収める )

というのが全体の文ようです。

そしてまた、五輪書には


 「 兵法の事 総じて万里一空 ことばにては云い難し 」


ともありますように。

 ことばにては云い難し、というのが本当のところでしょう。


 仏教では 人間のあり方 ということ

が問題となって、それを解き明かしていくということが中心課題です。

その我々の究極的問題として 苦 ・ 無常 ・ 無我  という言葉で捉えています。

そのあり方、それが私たちの本当の姿だと見ています。

 ( どこかの歌には、「 人生楽ありゃ、苦もあるさ … 」 とありますが、 )

仏教の問題は、苦として迫ってくるような、

人間の現実問題なのです。

その苦をいかにして克服するかという問題です。

 そのとき、

自覚 という方法でそれを解決する、

それが仏教の立場です。

 神に祈る、ということもありますし、

存在の仕方を変えていく、

変えることが出来なければもっと高い存在の力にたよるということもあります。

しかし、仏教ではそうではなく、

苦をよく見よ  といいます。

苦をよく見るとは、 存在の法 をよく見るという事です。

このような意味で 「 法の体系 」 ということがあります。

 『 般若心経 』 に出てくる 

五蘊 ( ごうん ) 「 色・受・想・行・識 」

十二処 ( じゅうにしょ ) 六根 ( 眼・耳・鼻・舌・身・意 ) と

               六境 ( 色・声・香・味・触・法 )

十八界 ( じゅうはっかい ) 十二処に認識作用としての 六識

               六識 ( 眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識 )

五蘊・十二処・十八界 です。

 このことが私たちが存在しているという意識の構造です。 


「 空 」 ということを 『 無分別智 』 という言葉でもあらわします。

無分別の智慧、ということです。

 
五蘊・十二処・十八界、と分けて考えていくのは 『 分別智 』 です。

普通には、私たちはいろいろな事を分別して生きています。

学校で習う事も 「 分別智 」 です。

これもとても大事な事です。

 それに対してですが、

空ということには、一応否定の意味もあります。

龍樹という方は、

 「 何もかも無いというのが空ではない。

   それは空の精神を知らないからだ。 」

と述べておられ、

 「 あらゆるものを否定するのが空ではない。

   むしろ、空によって一切のものが成立するのだ。 」

ともおっしゃっておられます。


 私たちは考え方の癖として、

あるがごとく、実体化してみるようです。

 「 坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い 」

何も、憎い坊さんがいるわけでもなく、袈裟までが憎いわけでもありません。

ただ、意識として 「 憎い坊さん 」 ついでに 「 憎い袈裟 」

までを心にとどめているのです。

 憎い坊さんは既に無く、ただ、憎かったという意識を持ち続け、

それに腹を立てている、ということが本当の心の姿です。

 すべてにおいてそういう考え方をする、人間の習性を

打ち砕くものとして、 「 空 」  という表現をとったのではないかと思います。

 分別智ということが成長して

無分別というフィルターを通してみると、

あらゆるものは 「 空なるがゆえに一切が成り立ってくる 」

ということがいえると思います。


 どこかのコマーシャルに、

  「 えらべる自由、つながる自由、たのしむ自由、はじめる自由 」

というのがあったようですが、

仏教でも、「 自由自在、融通無碍 」 という言葉もあります。

何か、一点を押さえると、すべてが自由に展開していくという事があります。

人生のキーワードというか、

弘法大師は 「 鑰 」 ( やく ) 鍵 という

「 秘蔵宝鑰 」 秘密の蔵の宝の鍵 という言葉で表されているようです。

 
 そういう事がすべてを成り立たせている原理なのでしょう。


言い尽くせぬまま、の感がありますが、

私の一生の課題でしょう。


  




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立春大吉

2012-02-04 20:51:20 | 住職の活動日記
 無事に 『 節分会 星祭祈願 』 を勤めることが出来ました。

今日から 立春大吉  です。

天気も、寒さも少し緩み、晴天に恵まれました。




    



 なにか、特別にお祈りしているわけでもありません。

今年の 恵方 北北西に向かって 「 恵方巻き 」 を食べているところです。

 どことなく、不気味な感じもしますが、

皆さん真剣に、黙って食べておられました。

 「 恵方巻き 」 も全国的に有名になりましたが、

もともとは、関西圏の風習だったでしょうか ??

 東寺にいるときは、信者の方が手作りの 「 恵方巻き 」 をもって見えられました。

  「 恵方に向かって、黙って丸かじりしなはれや !! 」

といっていただいたものです。


 そのこともあって、当院では20年も前から 「 お接待 」 に恵方巻きを出していました。

 なぜ、こうやって食べるのかは、意味不明です。

ま~  節分の風物しては面白いと思いますが  …  ?


 当院では、鬼さんへの掛け声は、


   「 福は内 鬼も内 」

といって豆をまきます。


 都合の良いものだけはこっちに来て、

自分に都合の悪いものはあっちに行け、

というのではないのです。

 福の神と貧乏神は姉妹だと聞いたことがあります。

両方受け入れていくというのが仏教の考え方でしょう。


  

という字も考えてみると、いろいろな使われ方をしています。

 単純に悪い意味でも 「 鬼 」 と使いますが、

大工の棟梁とか秀でた方を、 「 ○○の鬼 」 と呼んだりもします。

妥協を許さない、技術に対して許さない受け継いでこられたものがあるのです。

そういう方も 「 鬼 」 と呼んでいます。

鬼に 「 云 」 を付けると

「 魂 」  という字になります。

 
 面白いと思います。


 今年も 鬼も魂も同居、

色々困難が多いとは思いますが、叡智をもって乗りきっていきましょう。





 
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『 節分会 星祭 』  を控えて

2012-02-03 16:56:03 | 住職の活動日記
 


 6時から 『 節分 星祭祈願 』 が始まります。

準備も整い、鬼さんたちが最後のリハーサルに取り組んでいます。


   


 豪華景品も並びました。

オーブンレンジ・テレビ・スティーム掃除機・アンパンマンのお人形・

などなど20数品の景品です。


『 福豆 』

   


 15キロほどの 「 福豆 」 をまきます。

この中に当たりくじがあるのです。



 



 星祭の壇飾りもできました。

当院では古式にのっとり、星が出てからということで、

夜のお参りになります。


 裏方さんたちは、お接待の準備が大変です。

当院名物 「 五智汁 」  

    



 この大きななべに3杯ほど作られています。



   「 恵方巻き 」

    



 も準備が整いました。


お勤めが終わると、五智汁と恵方巻きのお接待があります。

そして、

 開運厄除け破魔弓矢

   


ご参拝の方に授与されます。

     で~す。



 私はこれから、一足先に 「 護摩祈願 」 に入ります。






 
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熊本も厳しい冷え込み !!

2012-02-03 11:45:23 | 住職の活動日記
 すべてが  凍てて  しまって。

お参りのときも、合掌している手先が痛みを感じるほどでした。

 外の参り、 樒 しきみ  も

ちょっとチルド状態、

    


 植物にも今朝の冷え込みは堪えたのでしょう。



   バラ  も



    


寒さで固まっていました。


 気温何度ぐらい    かな

 スマート君   も凍りついています。  

    


なんと、


    



 マイナス5度   を指しています。


そんななか、

 朝一番で、福岡よりのお参り、

   「 昨日、掘ってきました 。 」

と、

     



 「 たけのこ 」 のお供えをいただきました。

日当たりのいいところでは、昨年ぐらいから出てきているそうです。

春を感じさせる、何よりのお供えでした。



    



 まだ、掘りたての土の香がするようです。

外はこんなに冷たいのに、土の中ではもう春の準備が整っているのです。


  今日が    『 節分 』

 明日は 『 立春大吉 』  もう暦の上では春が来ます。


 この凍てつく寒さの中、春の予感がする何よりのお供えです。

 今晩の 『 節分会ご祈祷 』 にはなによりでした。







   
   
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