本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

今週の言葉 2/13~2/19 「 自らを灯明とし、自らを依り所として …

2012-02-12 19:45:08 | 今週の言葉
      自らを灯明として、

      自らを依り所として、

      他人を依り所とせず、

      法を灯明として、

      他を依り所とせずして住するがよい。



 2月15日は 涅槃会 ( ねはんえ ) といって、

お釈迦さまがそのご生涯を終わられた日です。

この今週の言葉は、お釈迦さまの最後の言葉です。


 涅槃会の歌には、

   1、遠くみ空に 楽( がく )の音( ね )すみて

     沙羅のはやしは 花咲きみてり

     あわれとうとき 大( おお )み姿

   2、たかきいやしき 差別 ( けじめ ) もあらで

     ともに真如の ひかりをあおぐ

     実 ( げ ) にもとうとき 救世 ( くせ ) のみ業 ( わざ )

   3、こころあわせて ほとけのあとを

     ともにたどれど 真心こめて

     実にもとうとき 大 ( おお ) み教え

   4、法 ( のり ) のともしび 輝きまして

     とわに無明の 闇路を照らす

     あわれとうとき 大 ( おお ) み聖 ( ひじり )


経典には

  アーナンダよ、比丘たちは私に何を待ち望んでいるというのか。

  わたしは内も外もなく、ことごとく法を説いてきた。

  アーナンダよ、如来の法はあるものを弟子に隠すというような

  秘密はなにもないのである。

  アーナンダよ、わたしはもはや老い衰え、老齢すでに80となった。

  たとえばアーナンダよ、古き車が皮ひもの助けによって行くように、

  そのようにアーナンダよ、思うにわたしの体は、

  皮ひもの助けによって、わずかに保っているにすぎない。

   さればアーナンダよ、なんじらはここに

  自らを灯明とし、自らを依り所として、

  他人を依り所とせず、

  法を灯明として、法を依り所として

  他を依り所とせずして住するがよい。

と、お釈迦さまの言葉を述べています。


 お釈迦さまの最後の旅はクシナガラに向かって行かれます。

そのとき 阿難 ( アーナンダ ) が一人随行しておられます。

途中、暑いので沐浴をされます。

しかし、老衰しきったお釈迦さまは岸から上れない。

阿難の助けによってようやく岸に上ると、

普通は、結跏趺坐して瞑想されるのですが、それができない。

その弱りきったお姿をじっと観ていたのが阿難です。

傍からみれば、ただの弱りきった老人です。

しかし、阿難には何もにも代えがたい偉大なお姿に見えたのです。

どこの国でも 「 釈迦涅槃像 」 というのは大きな姿に作られます。

それは阿難が見たお釈迦様のお姿なのです。

生身の体である 「 色身 」 ( 色のついた体ということではない、

              色というのは色即是空の色という形あるもの、)

は滅びていくのですが、その説かれた教え、

その教えが 「 法身 」 ( ほっしん ) ということで、

その教えの偉大さを現すのが仏像なんです。

仏像というのは、阿難が観たお釈迦さまの法身の姿です。

その法身 ( 説かれた教え ) の大きさが奈良の大仏のような

大きな姿となってくるのでしょう。


 お釈迦さまが 「 自己を灯とし、法を灯とせよ 」 といわれました。

本当の教えを灯とし、その教えを聞いて 

「 なるほど 」 とうなずいた自己を灯として、

決して、他を灯としてはならない。

これが独立者の道である。

大勢の力に頼ってわあわあ言うのは暴力であって、

自由への道ではない。

人が何を言おうと自らを灯とし、法を灯として、

千万人といえどもわれ行かん、という

そういう独立者になりなさい、

と、お釈迦さまは教えられたのだと思います。

自己に目覚めよ。

たとい神や仏に救われなくてもいい。

自分が自分に救われる人間になってもらいたい。

これが、お釈迦さまの最後の言葉だとおもいます。







      

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする