自らを灯明として、
自らを依り所として、
他人を依り所とせず、
法を灯明として、
他を依り所とせずして住するがよい。
2月15日は 涅槃会 ( ねはんえ ) といって、
お釈迦さまがそのご生涯を終わられた日です。
この今週の言葉は、お釈迦さまの最後の言葉です。
涅槃会の歌には、
1、遠くみ空に 楽( がく )の音( ね )すみて
沙羅のはやしは 花咲きみてり
あわれとうとき 大( おお )み姿
2、たかきいやしき 差別 ( けじめ ) もあらで
ともに真如の ひかりをあおぐ
実 ( げ ) にもとうとき 救世 ( くせ ) のみ業 ( わざ )
3、こころあわせて ほとけのあとを
ともにたどれど 真心こめて
実にもとうとき 大 ( おお ) み教え
4、法 ( のり ) のともしび 輝きまして
とわに無明の 闇路を照らす
あわれとうとき 大 ( おお ) み聖 ( ひじり )
経典には
アーナンダよ、比丘たちは私に何を待ち望んでいるというのか。
わたしは内も外もなく、ことごとく法を説いてきた。
アーナンダよ、如来の法はあるものを弟子に隠すというような
秘密はなにもないのである。
アーナンダよ、わたしはもはや老い衰え、老齢すでに80となった。
たとえばアーナンダよ、古き車が皮ひもの助けによって行くように、
そのようにアーナンダよ、思うにわたしの体は、
皮ひもの助けによって、わずかに保っているにすぎない。
さればアーナンダよ、なんじらはここに
自らを灯明とし、自らを依り所として、
他人を依り所とせず、
法を灯明として、法を依り所として
他を依り所とせずして住するがよい。
と、お釈迦さまの言葉を述べています。
お釈迦さまの最後の旅はクシナガラに向かって行かれます。
そのとき 阿難 ( アーナンダ ) が一人随行しておられます。
途中、暑いので沐浴をされます。
しかし、老衰しきったお釈迦さまは岸から上れない。
阿難の助けによってようやく岸に上ると、
普通は、結跏趺坐して瞑想されるのですが、それができない。
その弱りきったお姿をじっと観ていたのが阿難です。
傍からみれば、ただの弱りきった老人です。
しかし、阿難には何もにも代えがたい偉大なお姿に見えたのです。
どこの国でも 「 釈迦涅槃像 」 というのは大きな姿に作られます。
それは阿難が見たお釈迦様のお姿なのです。
生身の体である 「 色身 」 ( 色のついた体ということではない、
色というのは色即是空の色という形あるもの、)
は滅びていくのですが、その説かれた教え、
その教えが 「 法身 」 ( ほっしん ) ということで、
その教えの偉大さを現すのが仏像なんです。
仏像というのは、阿難が観たお釈迦さまの法身の姿です。
その法身 ( 説かれた教え ) の大きさが奈良の大仏のような
大きな姿となってくるのでしょう。
お釈迦さまが 「 自己を灯とし、法を灯とせよ 」 といわれました。
本当の教えを灯とし、その教えを聞いて
「 なるほど 」 とうなずいた自己を灯として、
決して、他を灯としてはならない。
これが独立者の道である。
大勢の力に頼ってわあわあ言うのは暴力であって、
自由への道ではない。
人が何を言おうと自らを灯とし、法を灯として、
千万人といえどもわれ行かん、という
そういう独立者になりなさい、
と、お釈迦さまは教えられたのだと思います。
自己に目覚めよ。
たとい神や仏に救われなくてもいい。
自分が自分に救われる人間になってもらいたい。
これが、お釈迦さまの最後の言葉だとおもいます。
自らを依り所として、
他人を依り所とせず、
法を灯明として、
他を依り所とせずして住するがよい。
2月15日は 涅槃会 ( ねはんえ ) といって、
お釈迦さまがそのご生涯を終わられた日です。
この今週の言葉は、お釈迦さまの最後の言葉です。
涅槃会の歌には、
1、遠くみ空に 楽( がく )の音( ね )すみて
沙羅のはやしは 花咲きみてり
あわれとうとき 大( おお )み姿
2、たかきいやしき 差別 ( けじめ ) もあらで
ともに真如の ひかりをあおぐ
実 ( げ ) にもとうとき 救世 ( くせ ) のみ業 ( わざ )
3、こころあわせて ほとけのあとを
ともにたどれど 真心こめて
実にもとうとき 大 ( おお ) み教え
4、法 ( のり ) のともしび 輝きまして
とわに無明の 闇路を照らす
あわれとうとき 大 ( おお ) み聖 ( ひじり )
経典には
アーナンダよ、比丘たちは私に何を待ち望んでいるというのか。
わたしは内も外もなく、ことごとく法を説いてきた。
アーナンダよ、如来の法はあるものを弟子に隠すというような
秘密はなにもないのである。
アーナンダよ、わたしはもはや老い衰え、老齢すでに80となった。
たとえばアーナンダよ、古き車が皮ひもの助けによって行くように、
そのようにアーナンダよ、思うにわたしの体は、
皮ひもの助けによって、わずかに保っているにすぎない。
さればアーナンダよ、なんじらはここに
自らを灯明とし、自らを依り所として、
他人を依り所とせず、
法を灯明として、法を依り所として
他を依り所とせずして住するがよい。
と、お釈迦さまの言葉を述べています。
お釈迦さまの最後の旅はクシナガラに向かって行かれます。
そのとき 阿難 ( アーナンダ ) が一人随行しておられます。
途中、暑いので沐浴をされます。
しかし、老衰しきったお釈迦さまは岸から上れない。
阿難の助けによってようやく岸に上ると、
普通は、結跏趺坐して瞑想されるのですが、それができない。
その弱りきったお姿をじっと観ていたのが阿難です。
傍からみれば、ただの弱りきった老人です。
しかし、阿難には何もにも代えがたい偉大なお姿に見えたのです。
どこの国でも 「 釈迦涅槃像 」 というのは大きな姿に作られます。
それは阿難が見たお釈迦様のお姿なのです。
生身の体である 「 色身 」 ( 色のついた体ということではない、
色というのは色即是空の色という形あるもの、)
は滅びていくのですが、その説かれた教え、
その教えが 「 法身 」 ( ほっしん ) ということで、
その教えの偉大さを現すのが仏像なんです。
仏像というのは、阿難が観たお釈迦さまの法身の姿です。
その法身 ( 説かれた教え ) の大きさが奈良の大仏のような
大きな姿となってくるのでしょう。
お釈迦さまが 「 自己を灯とし、法を灯とせよ 」 といわれました。
本当の教えを灯とし、その教えを聞いて
「 なるほど 」 とうなずいた自己を灯として、
決して、他を灯としてはならない。
これが独立者の道である。
大勢の力に頼ってわあわあ言うのは暴力であって、
自由への道ではない。
人が何を言おうと自らを灯とし、法を灯として、
千万人といえどもわれ行かん、という
そういう独立者になりなさい、
と、お釈迦さまは教えられたのだと思います。
自己に目覚めよ。
たとい神や仏に救われなくてもいい。
自分が自分に救われる人間になってもらいたい。
これが、お釈迦さまの最後の言葉だとおもいます。