「猶若聚墨」
この言葉も分かりにくい
辞書を引いても出てこない
あえて、
「猶若」は「猶如」と同じで
「なお~のごとし」
と唯識辞書には出ています
「聚」はあつめる
「墨」はすみです
文字だけ見ていると
分からないのですが
講義で見ると頷ける言葉
なのです。
「真理に出会うといっても
真理に生きた人に出会う。
真理に生きる人を通して
真理に出会うんです。
生きておらん真理なら
いわゆる観察もできるけど
そういうところに立つときに
何かそこにですね、
そういうものに触れたときに
猶若聚墨といってですね、
魅力を失うんです、一挙に。
消えるわけじゃないです。
そういうものに触れても、
教理とか文化とか
そういうものが消える
わけじゃない。
ただ、
味気ないものに
なってしまうんです。
昨日まであんだけ魅力を
感じたものを、
砂を噛むようなものに
なってしまう。
猶若聚墨といって、
これまで光っておった
もんですけど、
精神の光に触れてみたら、
そっれまで
光っておったものが
墨のようになってしまった
ということですね、
猶若聚墨ということは。
消えたわけじゃない。
まったくはや
どうでもいいものに
なってしまうわけ。
そういうものですね。
どうでもいい。
まあ、
なけりゃならんものじゃ
なくなってしまうわけです。
道というものに
出会わんまでは、
楽しいものが最高だった。
道というものに触れたら、
まあ、楽しいものは
別に悪いもんじゃないけど
別に
なくてはならんもんじゃない
道に触れるなら
苦しいものでもなお
それの方を求める。
道を忘れさせるものなら
楽しいものでも一向無意味だ
こういうような
一つの変化が起こるわけだ」
ということですけど
むかし、
三浦先生が
「聞かなければよかった」
ということを
つぶやいておられました
「もう、元には戻れない
聞いてしまった以上」
たぶん、
価値観が変わってしまわれた
のでしょう
三浦先生も
他のお坊さんのように
位や名誉を求めて
おられたのなら
赤い衣を着て管長さんと
呼ばれていたら
ある面問題はなかった
のかもしれません
ところが、
聞いてしまうと
もうそういうものが色褪せて
自分にとって一つも
大切なものでなくなった。
大切なことは
道に触れてしまうと
あえて苦しいものでも
それを受けて立とうと
そういう心に変わって
しまった
ということです
世間で生きる以上は
そういう地位とか名誉
ということも
大切なことですが
本当のことに触れると
妙なもので
そういうことが魅力を失って
しまうということです
どちらが良いか悪いかは
その人の価値観ですが
一応、出家という
世間の価値を
捨てたのであれば
やはり本当のことを
求めていくというのが
大切なようです
そういうことを
猶若聚墨というのでしょう
あたかも光り輝いていた
ものに墨を落としたように
光が失せていく
ということなのでしょう。
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