本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

この世をば 我が世とぞ思う 望月の

2017-12-24 15:15:48 | 住職の活動日記

藤原道長が詠んだこの句

「この世をば 我が世とぞ思う

  望月の 欠けたることも

    なしと思えば」

道長が絶好調の時に読んだのでは

ないでしょうか。

道長は紫式部が書いた「源氏物語」

の主人公といわれています。

この歌が詠まれた場所が

 

 

土御門第(つちみかどてい)です。

南北二町に及び、

上東門第(じょうとうもんてい)

京極第(きょうごくてい)などとも

呼ばれていたようです。

今はひっそりと立札が立っています。

 

 

御所の南、仙洞御所の東側です。

その跡を歩いてみますと

 

 

さくらの固い蕾がありました。

 

一家三立后(いっかさんりっこう)

といって

自分の娘三人を

一条天皇・後一条天皇・後朱雀天皇

に嫁がせたのです。

 

1018年10月三女威子(いし)を

後一条天皇に嫁がせその宴席で

詠んだのがこの歌です。

来年で秋で1000年になるという

ことです。

 

おもしろいことに

その頃の貴族たちはこまめに日記を

書いていたようで、

世界的に見ても千年も前の

日記が残っているということは

珍しいことのようです。

それらを読み合わせると

貴族たちの超多忙な一日を

垣間見ることができるようです。

 

道長の「御堂関白記」には

この歌を詠んだことを

「余読和哥人々詠之」

私は和歌を詠んだ、人々は詠唱した

としか書いてないようで、

また、

藤原実資(さねすけ)の「小右記」

には、

「誇っている歌である。ただし

準備していたものではない」

というように書き残している

ようです。

こういう日記を読むと

貴族たちは朝から晩まで

超多忙のようで、

政治経済、社会、宗教など

当時の様子を事細かに記している

そして、また日が変わる頃まで

宴席が続いたりと

今と変わらない忙しさのようです

 

1000年というのは

遣唐使も廃止されて

中国からの文化も途絶え

書にしても漢字からかな書という

日本独自の文字も発展していった

ということで、

女流文学も花開いたのでしょう。

 

道長の長女・彰子(しょうし)は

一条天皇に嫁ぎ

その彰子に仕えたのが

紫式部・赤染衛門・伊勢大輔

和泉式部という方々で

大勢の才媛が互いに妍を競ったので

女房文化が花開き

「源氏物語」「枕草子」なども生まれ

なんとも華やかな時代だった

ようです。

 

そして、道長の長男は

藤原頼通(よりみち)で

平等院を建立した方です。

 

しかしながら

この歌を詠んだ3年後の1019年

には道長は出家をしています。

法成寺を建立、現存はしませんが

とても立派なお寺だったようで

九体の阿弥陀さまをお祀りし

1027年、

九体の阿弥陀さまから糸を引き

自分の手に持って

お釈迦さまと同じように

頭を北に向け顔を西に向けて

お坊さんが唱える読経の中

62歳で亡くなったということです

 

華やかに見えるようなその姿にも

病魔は襲って来るし

(どうも、糖尿病の症状だった)

色々の確執もあり、悩みの絶えない

人生だったようで

名誉も地位も財産もすべてが

思うようになっても

そこには四苦八苦は付き纏い、

 

ということを思って

この歌を読みかえしてみると

ただ、

栄華を誇ったというだけではなく

そこに流れる無常なものを感じつつ

今は満月であっても、

やがて欠けていく月に

自分の姿が重なり、

欠けないでほしいという願望も

汲みとれるように思われます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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