本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

のぞみはありませんがひかりならあります

2024-04-16 18:31:41 | 十地経

NHKブラタモリ

いつの番組だったか

タモリさんが訪ねたお寺の

掲示板に

「人生はやり直すことは

  できないが

 見直すことはできる」

というような

言葉がありました。

 

最近タモリさんはこういう

掲示板の言葉が

気になられるようで

この言葉を見て

「うーん、まあね

最近一番気になった言葉は

『のぞみはありませんが

 ひかりならあります』

これは新幹線の駅員さん

の言葉ですけど

なかなか奥が深い」

ということを仰っておられ

ました。

 

なるほど

何気ないというか

駅員さんとして当たり前の

説明だったのでしょう

が、それを受け止めた方が

素晴らしい

閃かれたのですね。

 

のぞみ、という

人間の望みというものは

個人的なもの

かもしれません

あれしたいこれしたいと

しかし、

ひかりは万人に隈なく

照らしているものです

 

ですから

仏さまを光で表します

仏像を見ると

光背(こうはい)

といって光を背に背負うて

おられます

また、卍という印

お寺のしるしですが

この卍も光を象徴して

います

 

薬師如来も

薬師瑠璃光如来と

瑠璃の光を持った仏です

阿弥陀如来も

無量光如来ともいい

奈良の大仏も

毘盧遮那如来といい

毘盧遮那・ビルシャナ

というのは遍く照らす

という意味です

 

まあそういうこともあって

でしょうか

のぞみはありませんが

ひかりならあります

という言葉に

ビビット感じるものを

覚えられたのでしょう。

 

そういうと

蓮如上人と一休さんの問答

も思い出されます

一休さんが問いかけます

「阿弥陀には真の慈悲は

 なかりけり

 たのまぬものは

 たすけたまわじ」

と、

阿弥陀さんは料簡が狭い

ではないかと

たのむ人しか救わないのか

というものです

 

そこは蓮如上人

すぐに歌を返されます

「武蔵野の葉ごとに

 月は宿れども

 露なき草に月は宿らじ」

というものです

月の光は平等に照らして

いるのですが

露のない草には月は

映らないのではないか

 

やはりここに

求道心というか

十地経では「菩提心」が

なければ、いかに

これが本当の道だと

示しても受け入れない

という問題があります。

 

まあ、私たちは迷っている

のですが、

それは何となく分かる

さとってはいない

迷っていると

しかし、

よく考えてみると

迷っているということを

知っているという

そういう能力を与えられて

いるのは不思議ではないか

と、

講義では仰っておられます

面白いですね

さとってはいないけど

迷っていることを

知っている

ということは不思議です

 

逆説的ですが

こういうような形で

さとりというものを

自覚するのでしょう。

 

 

 

 

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