早速ですが講義は、
「初めから求道心という
ことはない。
途中から出発して
初めを見出してくる。
初めを見出さないなら
途中ということも
意味がないのである。」
気がついたら生まれていた
ある時何かの縁に触れて
生まれた意義を求めてくる
そういう心が起こってくる
そういう時
初めということが見つかる
そこが初歓喜地という
ことでしょう。
最初から道を求めてという
求道するということは
ないのです。
漫然と生きていた自分に
これではいけない
本当のことは何なんだろう
という、
求める心が起こってくる。
人生でもオギャと生まれて
よし、道を求めようと
そういう心は起こらない。
お釈迦さまは
生まれるとすぐ七歩歩んで
天上天下唯我独尊
と産声を上げたという。
こういう宣言が求道という
ことを表現しています。
普通は、
何も分からず生まれて
途中から求道心が起こり
初めを見出し
歩みはじめる
そして
その歩みは終わりがない。
講義は続けて
「発願というが、
我が起こしたのでない。
願が起こってきたのである
宗教が好きだというなら
変態である。
人間は好きなものだけ
でなく、好ましくない
ものに引かれる
というところに願があり、
人間というものがある。」
ここの、
宗教が好きだというなら
変態である。
という言葉も聞いた当時
話題になった言葉です
変態という言葉も
今では語弊がありますが、
宗教感覚として
好きというより
背きながら近づく
という方が正しいと
思います。
講義がある日は
前日から頭が重い
面倒くさい鬱陶しい話を
聞かなければいけない
というように思うのですが
無理やりでも聞くと
心が軽くなるものです。
何かしら、
心の中にあった問題が
解けてくるような
そういうことが起こります
恐れながら近づく
人間とは妙なもので
自分を肯定してくれる
ものだけでなく、
自分を否定してくれる
ものに引かれていく
ということがあります。
そこで、あえて
先生は変態という言葉を
使われたのでしょう。
体操部の監督で辻野先生は
出席されなかった
しかし
そういう先生にこそ
宗教心は宿っていると
仰っておられました。
それは、
知的興味で宗教ということ
を知りたがっている人
そういう人に対する
痛烈な批判の言葉です。
講義には出ないが
日々の生活を命がけで
生きておられる辻野先生
には講義よりも
感覚として受け止められる
そういうことを大切に
されたのです。
ただ、
聞いたような言葉を覚え
それを振り回す私たちを
叱咤された言葉のようです
一言でも、
聞いたことを実践される
辻野先生を受け止めて
おられたのです。
やはり、初めを見出す
そして歩み続ける
初めを見出すという
初歓喜地
そして終わりのない世界
八地以降からの法雲地に
いたり終わりのない修行
求め続けることを止めない
そういうことが大事だと
思います。
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