自分で自分を
一番見失いやすいのは
ブレークしたり
低迷したとき
仏教で一番大きな罪は 「 自分を見失う 」
ということでしょう。
不安という罰が与えられます。
人間調子がいいときは
世界は自分のものというような錯覚をして
有頂天になってしまうものです。
また、反対に落ち込んだときは
何もやる気がなくなってしまうものです。
いま、読んでいる 「 唯識三十頌 」
大随煩悩 ( だいずいぼんのう ) ということがあって、
そのなかに、面白い煩悩が出てきます。
『 掉挙 』 ( じょうご ) と
『 惛沈 』 ( こんじん )
という煩悩です。
「 掉 」 普段はあまり目することのない言葉です。
騒がしい、という意味になります。
「 挙 」 は何か突き上げられるような落ち着けない
じっとしておれない、そわそわする。
『 掉挙 』 というのは、そわそわして落ち着かせない。
静かにさせない。別に何があるというわけでもないのに
じっとしておれない。
静寂をを失わせる、というのが本質です。
『 惛沈 』 は反対に、心が何か沈む。
心が重苦しく沈んでくる。
何もやる気がしない。
という煩悩なのです。
そわそわするのも煩悩なら、
重く沈んで何もやる気がしないというのも煩悩です。
それによって自分を見失ってしまうのです。
お経の中では、
「 私たちが我執をもった意識の運命 」
と書いてあります。
人間は我執があると、
そわそわするか、
それともじっと深く重く沈むかのどちらかなのです。
よく三浦先生から、言われたものです。
「 顔が暗いということは腹に一物持っているか
よからぬ事を考えている、
明るい心でなければ何事も出来ませんよ ! 」
そのことが我執なのです。
我執の心というものは重い、
また、濁っているから暗い、
濁った暗い心は得てして事が起こっても、
それを引き受けて立ち上がる力をなくすものです。
このことは、日常生活よく直面します。
何か物事がちょっとうまくいくと、
そわそわして調子に乗り、 「 掉挙 」 になって、
自分を見失うし、反対に
ちょっと失敗でもすれば、
すぐに落ち込んで 「 惛沈 」 と暗く重いにふけって
これまた、自分を見失ってしまうものなのです。
仏法を聞くということは、
大事なことをしっかり覚え、
それによって意識が散乱しない。
だから、生活に意識において散乱しないという
功徳があるとかいてあります。
普通の生活の中では心は散りじりバラバラで、
集中力をなくしてしまいがちです。
だかた、常に教えを聞いていくということは
わかるとかわからない、ということよりも
聞くことによって、私たちの心に集中力が出てくる
という事が何よりも大切なことなのです。
今週の言葉も、
じつは 『 壇蜜 』 という方が
なにかのインタビューに答えて言われた
一言なのです。
やはり、今もてはやされていても
自分を見失ってはいけない、
ということをよく認識しておられるのでしょう。
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