ドキッとするこういう一文です。
「何か、僕は、
清沢満之という人は自分の
述懐を述べるのにですね、
こううことをいっとる。
思惟というものの限界を極める
ということはですね、
つまり自分が無能であるもんだ
ということを自覚することが
実は一番骨の折れる仕事であった
と、こう清沢満之が告白しとる
でしょう。
骨の折れる仕事だと。
自分が無能であるということを
ですね。
努力すれば、
無能にもなるんじゃないと、
無能ということが自己の本質だと
いうことを知るということが、
これが求道の上で一番骨の折れる
仕事だったと、
こういうような告白ですね。」
私にも大きな誤解があったようで
何か一生懸命勉強して
多くの知識を身に着け
また理論を学び煩悩に打ち勝つと
ところがこれが
求道という立場になると
教えを聞けば聞くほど
自分が何も知らなかった
まったく無能であった
ということに気づかされる
それが求道ということです。
何か自分がはっきりしてくる
ということですね。
以前望遠鏡で土星の環を見たとき
それまでぼんやりしていたものが
望遠鏡を通してみると
はっきり見えてきて
小さな点の集まりで
さほど美しくもなかった
ということがありました。
最近では
携帯の写真でもスノーという
アプリがあって
これを通すと
輪郭がぼんやりとしてきて
顔のシミ・皺などがぼやけて
何とも美しい姿に変身するという
代物です
まったく関係のないたとえですが
何ごともぼんやりしているうちは
それなりにそういうものなのです
が、
勉強も同じで
やらないうちは
何でも知ったかぶりして
言えるものなのですが
すればするほど
何かしら分かりかけてくると
自信がなくなり
言えなくなってくるものです。
今まで生きてきた中で
それなりの知識なり
知っていることを
ひけらかしたいものですが
それがいざ聞法を始めると
知っていたことが微塵に砕かれ
ていくものなのですが
これがなかなか
うち砕くことが出来ないのです
一番身近なところでは
いつもそばにいる家内です
大事にしてきたものを
遠慮もなく木っ端微塵に
うち砕いてくれます。
まあそれがいいのでしょうが
結婚ということも
そういう意味では
剛情我慢の自分のエゴを
否定してくれるのは家内
という存在が大切なのかも
しれません
ある面では坊さんの修行より
厳しいかもしれませんね。
話がそれましたが
自分が無能であるということの
自覚はそれほど大変な
ことなのです。
『般若心経』にも
「一切顛倒」という一文が
あります
一切は顛倒であった
逆さまだったというのです
少しぐらいの間違いではなく
全部がさかさまという
これも全否定を表しています
何気なく読んでいますが
自分のこととして
読んでみるととても厳しい
ことが書いてあります。
なかなか全否定ということは
できないものです。
言われた時は仕方なく屈服する
のですが
その先から、
お尻は上がっているのです。
ここが「一番骨の折れる仕事」
といわれる所以でしょう。
年取ってからの修行は
ここですね!
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