本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

死して生きる

2009-03-24 23:14:05 | 住職の活動日記
 葉隠れ武士の精神に 『 武士道とは死ぬことと見つけたり 』

という言葉があります。

 仏教も似たようなところがあって、

今までの自分に死して、本当の自分に生きる

というような意味があります。

    『 死して生きる 』

 現在の自分を変えなくて、そのまま延長しても、

それは、上手に煩悩を伸ばしているに過ぎません。


 興味深い話を聞きました。

『 志村ふくみ 』 という方のお話です。

この方は植物染料で着物を染めていくことでは

日本で最高水準の方だといわれています。

 『 桜色 』 という、その色をだすときに、

桜の幹から、それを煮て染める。そうすると淡い桜色に染まる。

ところが、桜が咲いてからその木をとるのと、

花が咲く前にその木から染料をとるのとでは、違うというのです。

花が咲く少し前にとると、一見同じようだけれども、

その色は何か萌えるようないのちが、

そこに感じられるというのです。

だから、人は植物染料で着物を染めるというけれども、

実は桜が、冬の間じっとエネルギーを蓄えて、

そうして自ら花を咲かせようとするその以前に、

いわばその桜を殺して、

そして、それを染料にして美しい色をだす。

だからそれは、桜から色をいただいて、

それをもう一ぺん着物のうえに生かすのだと、

だから色をいただくのだと。


    「 桜木を手折り見れど 花はなし

                春こそ花の命なりけれ 」



という歌を思い出します。

 幹の中には、折ってみても、花は無いのですが、

しかし、幹の中には、もうすでに、花の色を宿している。

   そこが不思議です。


 咲いてしまった桜の幹には、もう微妙に桜色は残っていない、

幹にとっては、もう次の準備をしているのでしょう。

 だから、咲く前に、その木を殺して、

その色をいただく、そして、色を、今度は着物としていただく。


 なんかとても、考えさせられる問題をいただいたような気がします。
コメント
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