本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

真言宗醍醐派全国宗務所長会議

2009-03-10 22:22:22 | 住職の活動日記
 明日明後日と 『 宗務所長会議 』 があり、

醍醐寺の本山へ参ります。


 京都でいろんなサプライズがあるかもしれません。

帰ってきたらまたご報告します。

 
    しばらく 
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菩提樹苑 花便り

2009-03-10 22:02:16 | 住職の活動日記
 昨日、菩提樹苑を見てまわりました。

早咲きの桜はもう咲いていました。


   


 何かもったいないほど綺麗でした、ので


  


 2枚ほど撮りました。天気もあまりよくなく、写真では

( 私では ) 美しさを表現するのは無理のようです。


『 ゆきやなぎ 』 もとても綺麗です。


   


 それから、『 紅かなめ 』 新芽の赤もとても綺麗です。

これから、本格的に 『 桜 』 も開花してゆきます。

鳥もさえずりだし、いろんな花も咲き出し、

見ごたえのある 「 菩提樹苑 」 が続きます。


 安らかに休まれているご先祖さまも

これから、「 花をめでる 」 楽しみの季節なってきます。


 彼岸ですよね~ 

  ご先祖様へお参りしましょう  ナムナム
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お釈迦さま から アンパンマンへ

2009-03-10 21:28:33 | 住職の活動日記
 毎月10日の 『 しらぬい荘 』 

お説教の内容は、彼岸ちなんで 「 中道 」 の話から、とか

あらかた考えていたのですが、

 「 登仙庵 」 の仏間へ着くと、そこに中学生がぞろぞろとやってきました。

 エエッ  

この子達も話を聞くのだろうか ?

 でもそうに違いない !

聞いてみると、 『 小川中学校 』 の生徒さんの

体験学習ということです。


 なんとかこの子どもたちにも分かる話をしなければ、

お経はいつものように声をだして読んでいるのですが、

頭の中は、  急遽、話内容の変更で

話のネタ探しで、急回転です。


 いつものように、じっちゃん・ばっちゃん、に話すようなことでは

いけません。  ここは勝負どころです !

 若い子どもたちになにが通じるのか …


 そこででてきたのが 『 アンパンマン 』 です。

幸い、頭陀袋には巡礼姿の 『 アンパンマン 』 をつけていました。


 「 なんのため~に うまれて なにをして いきるのか~ 」

と、調子はずれの歌まで歌って …

 お釈迦さまの修行のことから、アンパンマンへもって行きました。

そして、 『 山井さん 』 の話をして終わりました。


 山井和則 ( やまのいかずのり ) さん、

京都の方ですが、大学時代ボランティアで熊本の老人ホームで

おじいちゃんをお風呂に入れてあげられた時、

 『 きもちん よか~  』

という言葉が忘れられなくて、そして

 高校の時の 『 三浦俊良校長先生 』 の

「 世の中の雑巾になれ ! 」


 『 雑巾はほかの汚れを一生懸命拭いて、自分は汚れにまみれている 』


「 雑巾の心が菩薩の精神なのです。」


 この二つの言葉が 「 山井さん 」 の人生を大きく変えたのです。

分かるわからんということを越えて、

  叫びました  

 『 これでいいのだ~  』 と

終わってみると、理事長さんまでも座っておられました 


 
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うずく魂 !

2009-03-10 10:37:44 | 住職の活動日記
 『 うずく 』 ということは辞書によると、

「 傷口が傷む 」 というよう意味なのですが、

適当な言葉が見つからず、 『 うずく魂 』 と言ってしまいました。


 「 菩提樹苑 」・「 沙羅の苑 」 職員みんなの

なにかしら、『 うずいている心 』 を感じたのです。


 東国原宮県知事の言葉ではないですが、

『 気になってならない、どげんかせんと 』

 そういう、うずくような心が宮崎県を

チェンジさせようとしているのではないかと思います。


 昨日、頭の中に浮かんできたのは、

「 一体自分とは何物か? 」

と、問うてみたとき、分かっているようで分からない、

「 どげんかせといかん 」 というような 「 うずく心 」

その心が自分の本当の姿ではなかろうか、? と、

それは、本当のことを知りたいという 

『 求道心 』 本当の道理を求める心、

それが本当の自分自身の姿のようにも思うのです。

 儲かった、損した、好き嫌い、そういう心も確かに自分なのですが、

それだけでは満足しない自分の心も持っているのです。


 お釈迦さまの悟られた内容を 『 ダルマ 』 といいます。

それを、漢民族の方は 『 法 』 と訳されました。

『 法 』 と言ってしまうと、なにか 「 実体化 」 してしまう

恐れがあると思います。

 というより、 『 ダルマ 』 とは

「 道を求める心それ自体 」 といった方が、

ただの 「 名詞 」 と捉えるより、

もっと、動的な動きのあることのように思います。

 そう思うと、自分という固定したものは無く、

『 本当のことが知りたい 』 という

「 うずく心 」 の正体が自分自身ではないのか ?

と思ったりしてます。


 どんな仕事にしろ、 「 どげんかせんといかん 」 

という、 「 うずく魂 」 がなければ、

感動も無いですよね!


 仏教も古臭いものではなく、

感動、歓喜の歴史のように思います。
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