喜多院法興寺

住職のひとりごと

寛永寺の徳川家墓所から八角 覆堂の柱穴・礎石

2009-06-11 10:02:28 | Weblog
(読売新聞)
 {東京・谷中の寛永寺にある徳川将軍家墓所で、13代将軍家定の正室・ 澄心院 ( ちょうしんいん ) の墓など7基それぞれの宝塔を保護する八角 覆堂 ( おおいどう ) の跡とみられる柱穴や礎石が出土した。

 八角覆堂の遺構が見つかったのは同寺では初めてで、将軍家の葬送思想を解明する貴重な手がかりとなりそうだ。

 寛永寺谷中徳川家近世墓所調査団(名誉団長・坂詰秀一立正大名誉教授)によって発掘されたこの遺構は、7基のうち6基が柱穴、1基が礎石で、それぞれ2~3メートル間隔でほぼ正八角形に配置されていた。柱穴はいずれも直径約1メートルで、深さは約1メートル半だった。

 江戸時代の墓所で八角覆堂が確認されているのは寛永寺と並ぶ徳川家の墓所である、東京・芝公園の増上寺にある2代将軍秀忠の墓のみ(1945年の戦災で焼失)。将軍家では、秀忠の葬儀や墓が、後のモデルになったとされており、家康、秀忠の葬儀に影響を与えた天台宗の天海大僧正(1536?~1643年)の思想が受け継がれたとみられている。寛永寺の将軍家墓所を含め、八角覆堂は一つも現存しておらず、いつ失われたかは分かっていない。

 八角形の仏教建築としては、8世紀に建立された国宝の法隆寺夢殿(奈良県斑鳩町)が有名。}

 寛永寺にある、13代将軍家定の正室・ 澄心院 の墓など7基それぞれの宝塔を保護する八角 覆堂 の柱穴や礎石が出土した。その他には芝の増上寺にある2代将軍秀忠の墓のみで、昭和20年の戦災で焼失した。しかし寛永寺にある13代将軍家定の八角 覆堂が何時に焼失したかは分かっていない。謎に包まれた八角 覆堂に興味がそそられる。