3月30日付 よみうり寸評
{日本のプロ野球で最初に2000本安打を記録したのは打撃の神様・川上哲治。2人目がシュート打ちの名人・山内一弘で、3人目が安打製造機・榎本喜八だ◆が、2000本到達は榎本が31歳229日で最速。30歳212日で日米通算2000本に達したイチローには及ばないが、日本プロ野球の最速記録は榎本。
◆安打製造機といえば、今ならイチローだが、その異名の元祖は榎本。1955年に東京・早実高から毎日オリオンズに入団、開幕戦から先発出場。この年、打率2割9分8厘、16本塁打で新人王。
◆高卒ルーキーの野手としては目を見張る活躍だった。大毎ミサイル打線の中心として首位打者2回。その実績に比べ今、知る人が少ないのは、引退後、球界から離れていたからか◆打撃一筋の求道者、奇行の人とも言われた。試合前にベンチで座禅を組んだりもした。「打撃の天才といえば、川上、長嶋、それに、ボクと王」と言ってのけた。
◆プロ野球開幕を控えて14日、元祖・安打製造機、榎本喜八さんが逝った。}
3月31日付 編集手帳 読売新聞)
{沢木耕太郎さんに『さらば宝石』という短編がある。〈Eは地味な選手だった。圧倒的に素晴らしい成績をあげているのに人気が少しも湧いてこなかった〉〈Eほどの選手がいつ引退したのかも記憶にないのは奇妙なことだった〉(文春文庫『敗れざる者たち』所収)
◆天才打者と呼ばれ、2度の首位打者にも輝いた元プロ野球選手の「E」が、不惑の年齢で現役復帰を夢みて走り込みをしているらしい――耳にした 噂 ( うわさ ) を追跡したノンフィクションである。
◆最後の1行で、「E」はベールを脱ぐ。〈必死に走りつづけていたE――榎本喜八〉
◆榎本さんが75歳で亡くなったという。引退後は指導者にも評論家にもならず、球界とは距離を置いていた。不惑の走り込みが証し立てるように、元祖「安打製造機」にとって身の置きどころは、唯一、バッターボックスの中だけであったのかも知れない。4打数4安打でも、内容に納得がいかなければ物思いに沈む。ベンチで座禅を組む…。求道者然とした逸話を思い出す。◆衆に抜きんでた才能も、孤独と苦悩の種子になるのだろうか。生きるとは、むずかしいものである。}
東京・早稲田実高で1954年の甲子園大会に春夏連続出場。翌55年にテストを受けて毎日入りし、高卒新人で開幕戦に5番で出場、この年打率2割9分8厘、16本塁打で新人王に輝いた。
「安打製造機」と呼ばれた榎本喜八さんはプロ野球の毎日(現ロッテ)で中心打者として活躍し60年に3割4分4厘、66年に3割5分1厘で首位打者。68年には川上哲治、山内一弘に続いて3人目(当時)の通算2000安打を達成した。14日午前2時4分、大腸がんのため東京都内の病院で死去した。75歳だった。打撃のプロとして突き詰めた技量は素晴らしいのに、なぜか人気者になれず、野球界から去っていった。
{日本のプロ野球で最初に2000本安打を記録したのは打撃の神様・川上哲治。2人目がシュート打ちの名人・山内一弘で、3人目が安打製造機・榎本喜八だ◆が、2000本到達は榎本が31歳229日で最速。30歳212日で日米通算2000本に達したイチローには及ばないが、日本プロ野球の最速記録は榎本。
◆安打製造機といえば、今ならイチローだが、その異名の元祖は榎本。1955年に東京・早実高から毎日オリオンズに入団、開幕戦から先発出場。この年、打率2割9分8厘、16本塁打で新人王。
◆高卒ルーキーの野手としては目を見張る活躍だった。大毎ミサイル打線の中心として首位打者2回。その実績に比べ今、知る人が少ないのは、引退後、球界から離れていたからか◆打撃一筋の求道者、奇行の人とも言われた。試合前にベンチで座禅を組んだりもした。「打撃の天才といえば、川上、長嶋、それに、ボクと王」と言ってのけた。
◆プロ野球開幕を控えて14日、元祖・安打製造機、榎本喜八さんが逝った。}
3月31日付 編集手帳 読売新聞)
{沢木耕太郎さんに『さらば宝石』という短編がある。〈Eは地味な選手だった。圧倒的に素晴らしい成績をあげているのに人気が少しも湧いてこなかった〉〈Eほどの選手がいつ引退したのかも記憶にないのは奇妙なことだった〉(文春文庫『敗れざる者たち』所収)
◆天才打者と呼ばれ、2度の首位打者にも輝いた元プロ野球選手の「E」が、不惑の年齢で現役復帰を夢みて走り込みをしているらしい――耳にした 噂 ( うわさ ) を追跡したノンフィクションである。
◆最後の1行で、「E」はベールを脱ぐ。〈必死に走りつづけていたE――榎本喜八〉
◆榎本さんが75歳で亡くなったという。引退後は指導者にも評論家にもならず、球界とは距離を置いていた。不惑の走り込みが証し立てるように、元祖「安打製造機」にとって身の置きどころは、唯一、バッターボックスの中だけであったのかも知れない。4打数4安打でも、内容に納得がいかなければ物思いに沈む。ベンチで座禅を組む…。求道者然とした逸話を思い出す。◆衆に抜きんでた才能も、孤独と苦悩の種子になるのだろうか。生きるとは、むずかしいものである。}
東京・早稲田実高で1954年の甲子園大会に春夏連続出場。翌55年にテストを受けて毎日入りし、高卒新人で開幕戦に5番で出場、この年打率2割9分8厘、16本塁打で新人王に輝いた。
「安打製造機」と呼ばれた榎本喜八さんはプロ野球の毎日(現ロッテ)で中心打者として活躍し60年に3割4分4厘、66年に3割5分1厘で首位打者。68年には川上哲治、山内一弘に続いて3人目(当時)の通算2000安打を達成した。14日午前2時4分、大腸がんのため東京都内の病院で死去した。75歳だった。打撃のプロとして突き詰めた技量は素晴らしいのに、なぜか人気者になれず、野球界から去っていった。