喜多院法興寺

住職のひとりごと

「残留孤児の父」と呼ばれた長岳寺の前住山本慈昭師 

2009-06-02 10:04:58 | Weblog
天台ジャーナル75号 「素晴らしき言葉たち」
「今日から私がみなさんの父親になります。いつでも日本に来て下さい。私の家に来て下さい。待っています」

 {故山本慈昭師は長野県下伊那郡阿智村の天台宗僧侶で「残留孤児の父」と呼ばれた人です。山本師が、満州へ赴くのは、終戦間近の昭和二十年五月のことでした。開拓団から「子ども達の教師に」と請われて断りきれず、夫人と幼い娘を伴っての移住でした。

 終戦直前の八月九日に、満州にソビエト軍が侵攻し、その地獄のような状況に、一家で自決したり、子どもだけでも助かるようにと現地の中国人に預けたりして人々は逃げまどいました。これが中国残留日本人孤児の始まりです。
 山本師は捕虜になりシベリアに送られます。帰国後、妻も娘も、収容所で死亡したと知らされます。しかし帰国後二十年が経過して、死んだはずの娘は、中国人に預けられて生きているらしいと聞かされます。

 日中国交が回復すると、山本師は外務省などを訪れ、調査を依頼しますが、中国は文化大革命が始まっており、日本政府が孤児を探すことなど到底できない状態でした。
 何度も訴え続ける山本師を、霞ヶ関は「満州帰りの変人坊主」と呼んだといいます。けれども、次第に、肉親に残留孤児を持つ人々が活動に参加してきます。そして、ついに日中の当局に理解者が出て、昭和五十六年に初めて、残留孤児が来日し本格的な調査が始まりました。終戦後、三十六年目のことです。
 来日しても、ついに肉親に会うことができなかった二十三人の孤児を抱きしめて、山本師は冒頭の言葉を告げるのです。「今日から私がみなさんの父親になります。いつでも日本に来て下さい。私の家に来て下さい。待っています」

 そして、この年に山本師は、実の娘さんと中国で再会を果たします。日本から帰った残留孤児たちが山本師への恩返しをせねばと、探してくれたのでした。その後も山本師の調査は続きました。「私にとり、すべての孤児が、自分の娘のようなものなのです。孤児全員が幸せになるまで私の戦後は終わらない」。山本さんが亡くなったのは、平成二年のこと。天台宗にこのような「一隅を照らす」僧侶がおられたことを誇りに思わずにはいられません。}

 外務省に働きかけを山本慈昭さん達が運動した結果、戦後、三十六年目にして初めて中国残留孤児が来日し本格的な調査が始まった。最初は自分の娘を捜すために奔走したが、山本慈昭師は平成二年に亡くなるまで、調査を続けた。。山本師が亡くなった後に、現在長岳寺は、千葉県出身の入カエル亮純師が住職をされている。山本師が残した中国残留日本人孤児の資料が大切に保管展示されている。/face_warai/}