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行人坂の大円寺を後にし、急峻な坂を下りきると左手に雅叙園入口の広場が現われます。そして桜並木の緑が美しい目黒川に架かる太鼓橋を渡り、しばらく歩くと山の手通りにさしかかります。
お江戸の時代はこの行人坂を下っていくとあの目黒不動へとつづく参詣路へと繋がっていたのですが、その路は今では山の手通りにいったん分断されてしまい、横断陸橋か信号を渡らなければなりません。
山の手通りを渡りわき道へとそれるとまもなく右手に現われるのが、黄檗宗(おうばくしゅう)の寺「海福寺」です。参道の入口に「黄檗宗・海福寺」の提灯が掲げられているのですぐに判ります。黄檗宗とは臨済(りんざい)宗、曹洞(そうとう)宗と並ぶ日本禅宗三派の一つで中国明代の僧隠元隆�湊(いんげんりゅうき)(1592―1673)を開祖とし、京都府宇治市にある黄檗山万福寺(まんぷくじ)を本山とする宗派です。
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とはいえこの海福寺の山門やご本堂の造りは黄檗宗の典型的な明朝様式ではなく、ごく一般的な日本風の建築様式を備えています。
両側を建物で挟まれた参道を進むと、左手になにやら由緒ありげな宝篋印塔2基と石碑1基が置かれています。その傍らにこの宝篋印塔と石碑の由来書が立てられていました。なんとあの有名な話として今に伝わる「永代橋落橋」にまつわる供養塔ではありませんか。
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お江戸深川の歴史散策では「永代橋落橋」の噺は避けて通れません。しかしこれまで「海福寺」や海福寺にある永代橋落橋供養塔は私の知識の中になかったため残念な事にお客様にご案内することはありませんでした。
由来書をよくよく読むと、この海福寺は明暦の大火の翌年である万治元年(1658)にそもそも黄檗宗の寺として深川に開基されたのですが、明治の御代の43年にここ目黒の移転してきたのです。もし黄檗宗の寺の建築様式を東京でみるのであれば、向島の弘福寺がお薦めです。
さて永代橋落橋事件は架橋から約100年経った文化4年(1807)の8月15日に予定されていた深川八幡の大祭が雨が順延となり19日に執り行われることになりました。おりしもこの年の大祭は11年ぶりとのことで江戸の庶民が我先にと大挙して永代橋に殺到したのです。そしてその重みに耐えられずに永代橋は永代に引き継がれることなく崩壊してしまったのです。お祭り好きの江戸っ子であるが故の災難だったのですが、この事故でなんと1500人以上の人が亡くなったと言われています。
そんな事故をちゃかす訳ではないのですが、お江戸の狂歌師「蜀山人」はこんな歌を詠んでいます。
「永代のかけたる橋は落ちにけり、きょうは祭礼あすは葬礼」
参道を進むと、石段に上に朱色の御門が恭しく構えています。海福寺の四脚門(よつあしもん) と呼ばれ江戸時代中期の建築様式を今に伝える貴重なものなのです。この門は明治の後期に新宿区の上落合にあった同じ黄檗宗の泰雲寺から移築したものです。尚、泰雲寺は廃寺となって現存していません。
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境内右手には鐘楼が置かれ、吊るされている梵鐘はなんと天和3年(1683)江戸の藤原正次の作です。梵鐘のデザインは中国の禅刹の鐘に似ていますが、日本の古鐘に似せた江戸時代の梵鐘の中でも類例の少ない名作と言われています。
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この鐘楼の脇に立つ「九層の塔」はかつて武田信玄の屋形に置かれてあったと伝えられるものらしいのですが、何故ここにあるのかは判明しません。また甲斐武田家の家紋である「武田菱」は刻まれていません。
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それほど広くない境内の奥に御本堂が配置され、静かな佇まいを見せています。境内には遅咲きの紫陽花が可憐な花弁を咲かせ、四脚門の朱色と絶妙なコントラストを醸し出しています。
お江戸府内の結界を守る名刹・目黒不動尊(龍泉寺)
何かを語りかけているような大勢の羅漢様が居並ぶ目黒五百羅漢寺
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