大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

世田谷にもある小京都・烏山の寺町散策(その二)~江戸の文化人が眠る寺院~

2011年10月10日 14時36分41秒 | 世田谷区・歴史散策
徳川将軍家縁の幸龍寺の隣に山門を構える浄土宗派の一心山稱往院極楽寺(地図上の9番)の山門前になにやら古めかしい石柱がたっています。この石柱が当寺を有名にしているあの「蕎麦禁断の碑」なのです。

蕎麦禁断の碑

なぜ「蕎麦禁断」なのか? それにはこんな逸話が残っています。
誰もが知っているように蕎麦屋さんの屋号によく使われている「庵」ですが、本来の意味としては小さな住居なのですが、そのほか隠遁者や僧侶、尼僧などの住む家や、僧房の名として使われてきました。ということは蕎麦屋さんが使う「庵」は寺社と少なからず関わりがあるんです。

実はご紹介する稱往院極楽寺は明暦の大火以降、浅草の西に堂宇を構えていた古刹です。寺町の(その一)で取り上げた幸龍寺も浅草西にあったのですが、なんと極楽寺は幸龍寺に隣接して山門を構えていたお隣同士のお寺だったのです。

そしてその稱往院内にさらに道光庵という支院が置かれていたのですが、享保年間(1716~1735)ころ、この道光庵の庵主は信州松本出身で、蕎麦打ちが大変上手であったので、檀家の人々向けに自ら蕎麦を打って振る舞ったということです。最初は檀家の方々だけのサービスだったのですが、その美味しさの噂はたちまち江戸市中に広まり、信心にかこつけて檀家以外の町民が蕎麦目当てに連日長蛇の列をつくる有様でした。この様子をみた市中の蕎麦屋さんは「蕎麦切り寺の道光庵」の名声にあやかろうと、競って屋号に「庵」をつけるようになったということなのです。

その後、寺なのか蕎麦屋なのかわからなくなってしまった様子に見かねた稱往院極楽寺の和尚さんは天明6年(1786)に門前に「蕎麦禁断」の石碑を建て、道光庵の蕎麦作りを禁じてしまったということです。

この石碑は震災後、烏山に移転する際に、3つに折れた状態で土中から発見され現在の門前に修復され立っているのです。

こんな謂れのあるお寺にはもう一つ、江戸の文化に深く関わった人物のお墓があるんですね。それは俳聖芭蕉の第一の門弟と言われる宝井其角のお墓が置かれていることです。墓域を巡ってみると、一番奥に「宝井家」の墓が集中している場所がありました。どれが其角の墓なのか判別できませんでした。尚、其角の草庵は現在の茅場町永代通り沿いににあったのですが、その場所には小さな石碑が一つ置かれています。

由緒ありげな宝井家の墓標
宝井家の墓域

そして江戸の文化人の代表格の一人である浮世絵師「喜多川歌麿」が眠る浄土宗派のお寺・専光寺(地図上の18番)をご紹介しましょう。

専光寺山門

寺町どおりもまもなく終わるあたりにあるのが専光寺です。お寺の規模はそれほど大きくはないのですが、山門脇に歌麿の墓を示す石標が立っています。

歌麿の墓の石柱
専光寺ご本堂

境内はそれほど広くないのですが、ご本堂の前に喜多川歌麿「秋圓了教信士」と刻まれた墓石が置かれています。

歌麿の墓

歌麿といえば江戸時代の宝暦の頃、鈴木晴信、鳥居清長と並ぶ美人画の大家としてあまりにも有名なのですが、この三人の中でも歌麿が描く美人画はナイスバディの女性で、晴信の描くほっそりタイプ、清長の八頭身美人と一線を画した筆タッチは現代のグラビアの先駆者といってもいいのではないでしょうか。

次に寺町の寺院の中でも、その規模と境内の美しさに定評がある2つのお寺を(その三)でご紹介いたします。

世田谷にもある小京都・烏山の寺町散策(その一)~通りを挟んで山門と甍が続く景色~
世田谷にもある小京都・烏山の寺町散策(その三)~絵の中にいるような寺院~




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