私ごとですが結婚するまでは世田谷の上北沢にある実家に暮らしていました。小学、中学は世田谷にある公立学校に通っていました。そんなことで甲州街道沿いに点在する八幡山、芦花公園、千歳烏山あたりまでは小中学時代を通じて自分の庭のような場所だったのです。
小学校の課外授業では烏山の寺町の遠足や写生の授業で訪れた記憶が残っています。あれから時が過ぎて早五十年余り、当時の様子をおぼろげながら辿り、京王線の千歳烏山駅に降り立ちました。駅周辺の地図を見ると寺町へと通じる道にはなんと三本の通りが横切っていました。記憶によると千歳烏山駅から寺町までには旧甲州街道と呼ばれる道幅の狭い道しかなかったはずなのですが、地図上には新しいバイパスと中央高速の高架下を走る計三本の道が走っていました。
黄色の部分が各寺の寺領
高度経済成長の時代を経て、昭和のバブル時代そして平成と時が流れる過程で、街の様子が変貌するのは当たり前なのですが、かつて寺町に至る道沿いに広がっていた田んぼや畑は戸建ての住宅が密集するごく普通の街並みとなっていました。
それでも中央高速の高架をくぐると、その光景は一変します。目の前に現れるのは寺町を貫く一本の細い道と、その両側は高層ビルに邪魔されない空の下に広がる緑の木々と寺院の甍が続いているのです。
ここ烏山の寺町は関東大震災の時に、浅草・本所・荒川・築地・麻布・新宿・渋谷など東京市内(当時)にあった寺が震災によって鳥有と化し、復興のために区画整理がなされここ烏山に移転し造られた現代版寺社地となったのです。この地に移転が始まったのは大正末年から昭和初期の頃で、その当時は田畑が一面に広がる寂しい場所だったのです。それからおよそ85年を経た現在、それぞれの寺院の堂宇は時の流れにその趣を深くし、境内の木々は大きく育ち、しっとりとした佇まいの中に平成の古刹として静かな雰囲気を漂わせています。
烏山の寺町には烏山仏教会に所属している寺院が全部で26寺あります。これら26寺が隣り合うように甍を連ねているのです。今回の散策ではすべての寺院を巡ることは諦め、歴史的に価値がある建造物や歴史上の人物の墓などを寺域に持つ寺院に絞って取材を試みました。
それではまず寺町の寺院の配置を地図でご覧いただきましょう。
千歳烏山駅から一番近いお寺は1番の「妙高寺」です。それではこの妙高寺から寺町のお寺巡りを始めることにいたしましょう。
妙高寺山門
妙高寺ご本堂
水野家の墓
妙高寺は江戸時代の寛永二年(1625)に水野家の帰依を受けて浅草今戸に再建された由緒あるお寺です。実はこの水野家こそ天保の改革を断行した老中水野越前守忠邦を輩出した家系なのです。
寺内の墓地には水野家代々の墓とそれに隣接して忠邦の子「忠精」と孫の「忠弘」の墓が置かれています。尚、忠邦の墓は茨城県結城市に置かれているそうです。
忠精と忠弘の墓
更に江戸時代における尊皇の先駆者として知られる「藤井右門」の墓も置かれています。右門はあの幕末の尊皇運動が始まるずっと以前の宝暦年間に尊皇思想を展開した先駆者なのです。しかし右門は明和事件に連座し、48歳で処刑されてしまいます。この事件は幕末の尊皇運動が始まる百年前のことです。
藤井右門の墓
最初に訪れた「妙高寺」で江戸時代に活躍した人物に関わるお墓に詣でることが出来た感動を胸に、次に家康公と深く関わりをもつ「幸龍寺」へと歩を進めます。
幸龍寺山門から参道を見る
寺町通りに面して立派な山門を構えるのが日蓮宗の幸龍寺(地図上の7番)です。
当寺の由緒は徳川家康公がいまだ浜松城主で在った天正七年(1579)四月にw後の二代将軍秀忠公が誕生した。この時、乳母大姥ノ局(正心院殿日幸尼)は秀忠公の為に一宇の建立を請願、家康公は奨めを入れ城外に伽藍を調え、聖人を開山に招き、徳川家祈願寺に定めたのが当寺の開基です。その後、家康公は駿府、江戸と本拠地を変えるたびに当寺を伴い移転しています。江戸府内においては家康公の入府の折にはは神田湯島に寺領を与えられていました。その後寛永年間に浅草の浅草寺の西(現在の浅草ビューホテルが立っている場所)に広大な寺領を与えられ、将軍家の深い帰依を受けていました。二代将軍秀忠公は継嗣出生安産祈願を当寺に命じ、無事に後の三代将軍家光公の誕生を見ると仏舎利を奉遷の上、鬼子母神十羅刹女を造像奉納したと伝えられています。
清正公堂門柱
山門を入るとすぐ右手に古めかしいご本堂が現れます。このご本堂は清正公堂と呼ばれるもので天保年間建立の歴史的建造物です。震災後浅草から移転の際に移築されたものです。山門に記された「清正公大神」「柏原大明神」は共に江戸時代には寺内の神社であったものが、明治初期に神仏分離令が発令された際「南無」を付けて仏様として引き継がれたものです。
清正公大神」「柏原大明神」
浄行菩薩像
清正公堂
ご本堂の入り口の両脇の壁に嵌め込まれた透かし彫りの見事さは当寺の価値を更に高めています。広い境内の半分を墓地が占め、墓域との境に存在感を示すように鐘楼が置かれています。
透かし彫り
透かし彫り
鐘楼
境内のさざれ石
まるで京都の寺社巡りをしているかのような錯覚に陥るような烏山の寺町散策ですが、更に感動的な古刹が次から次へと現れてきます。
世田谷にもある小京都・烏山の寺町散策(その二)~江戸の文化人が眠る寺院~
世田谷にもある小京都・烏山の寺町散策(その三)~絵の中にいるような寺院~
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小学校の課外授業では烏山の寺町の遠足や写生の授業で訪れた記憶が残っています。あれから時が過ぎて早五十年余り、当時の様子をおぼろげながら辿り、京王線の千歳烏山駅に降り立ちました。駅周辺の地図を見ると寺町へと通じる道にはなんと三本の通りが横切っていました。記憶によると千歳烏山駅から寺町までには旧甲州街道と呼ばれる道幅の狭い道しかなかったはずなのですが、地図上には新しいバイパスと中央高速の高架下を走る計三本の道が走っていました。
黄色の部分が各寺の寺領
高度経済成長の時代を経て、昭和のバブル時代そして平成と時が流れる過程で、街の様子が変貌するのは当たり前なのですが、かつて寺町に至る道沿いに広がっていた田んぼや畑は戸建ての住宅が密集するごく普通の街並みとなっていました。
それでも中央高速の高架をくぐると、その光景は一変します。目の前に現れるのは寺町を貫く一本の細い道と、その両側は高層ビルに邪魔されない空の下に広がる緑の木々と寺院の甍が続いているのです。
ここ烏山の寺町は関東大震災の時に、浅草・本所・荒川・築地・麻布・新宿・渋谷など東京市内(当時)にあった寺が震災によって鳥有と化し、復興のために区画整理がなされここ烏山に移転し造られた現代版寺社地となったのです。この地に移転が始まったのは大正末年から昭和初期の頃で、その当時は田畑が一面に広がる寂しい場所だったのです。それからおよそ85年を経た現在、それぞれの寺院の堂宇は時の流れにその趣を深くし、境内の木々は大きく育ち、しっとりとした佇まいの中に平成の古刹として静かな雰囲気を漂わせています。
烏山の寺町には烏山仏教会に所属している寺院が全部で26寺あります。これら26寺が隣り合うように甍を連ねているのです。今回の散策ではすべての寺院を巡ることは諦め、歴史的に価値がある建造物や歴史上の人物の墓などを寺域に持つ寺院に絞って取材を試みました。
それではまず寺町の寺院の配置を地図でご覧いただきましょう。
千歳烏山駅から一番近いお寺は1番の「妙高寺」です。それではこの妙高寺から寺町のお寺巡りを始めることにいたしましょう。
妙高寺山門
妙高寺ご本堂
水野家の墓
妙高寺は江戸時代の寛永二年(1625)に水野家の帰依を受けて浅草今戸に再建された由緒あるお寺です。実はこの水野家こそ天保の改革を断行した老中水野越前守忠邦を輩出した家系なのです。
寺内の墓地には水野家代々の墓とそれに隣接して忠邦の子「忠精」と孫の「忠弘」の墓が置かれています。尚、忠邦の墓は茨城県結城市に置かれているそうです。
忠精と忠弘の墓
更に江戸時代における尊皇の先駆者として知られる「藤井右門」の墓も置かれています。右門はあの幕末の尊皇運動が始まるずっと以前の宝暦年間に尊皇思想を展開した先駆者なのです。しかし右門は明和事件に連座し、48歳で処刑されてしまいます。この事件は幕末の尊皇運動が始まる百年前のことです。
藤井右門の墓
最初に訪れた「妙高寺」で江戸時代に活躍した人物に関わるお墓に詣でることが出来た感動を胸に、次に家康公と深く関わりをもつ「幸龍寺」へと歩を進めます。
幸龍寺山門から参道を見る
寺町通りに面して立派な山門を構えるのが日蓮宗の幸龍寺(地図上の7番)です。
当寺の由緒は徳川家康公がいまだ浜松城主で在った天正七年(1579)四月にw後の二代将軍秀忠公が誕生した。この時、乳母大姥ノ局(正心院殿日幸尼)は秀忠公の為に一宇の建立を請願、家康公は奨めを入れ城外に伽藍を調え、聖人を開山に招き、徳川家祈願寺に定めたのが当寺の開基です。その後、家康公は駿府、江戸と本拠地を変えるたびに当寺を伴い移転しています。江戸府内においては家康公の入府の折にはは神田湯島に寺領を与えられていました。その後寛永年間に浅草の浅草寺の西(現在の浅草ビューホテルが立っている場所)に広大な寺領を与えられ、将軍家の深い帰依を受けていました。二代将軍秀忠公は継嗣出生安産祈願を当寺に命じ、無事に後の三代将軍家光公の誕生を見ると仏舎利を奉遷の上、鬼子母神十羅刹女を造像奉納したと伝えられています。
清正公堂門柱
山門を入るとすぐ右手に古めかしいご本堂が現れます。このご本堂は清正公堂と呼ばれるもので天保年間建立の歴史的建造物です。震災後浅草から移転の際に移築されたものです。山門に記された「清正公大神」「柏原大明神」は共に江戸時代には寺内の神社であったものが、明治初期に神仏分離令が発令された際「南無」を付けて仏様として引き継がれたものです。
清正公大神」「柏原大明神」
浄行菩薩像
清正公堂
ご本堂の入り口の両脇の壁に嵌め込まれた透かし彫りの見事さは当寺の価値を更に高めています。広い境内の半分を墓地が占め、墓域との境に存在感を示すように鐘楼が置かれています。
透かし彫り
透かし彫り
鐘楼
境内のさざれ石
まるで京都の寺社巡りをしているかのような錯覚に陥るような烏山の寺町散策ですが、更に感動的な古刹が次から次へと現れてきます。
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