大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

大老・井伊直弼が眠る山手の名刹「豪徳寺」を訪ねて~招き猫の云われ~

2011年10月03日 17時20分02秒 | 世田谷区・歴史散策
当ブログで紹介する記事がやたらと地方の歴史散策をとりあげた内容にかたよってしまった感があります。そこでブログタイトル「大江戸散策徒然噺し」に沿って、しばらくぶりにお江戸の風情を感じる場所へご案内したいと思います。

さて、幕末好きの私にとってこの時代はどのエポックを取り上げてものめりこんでしまうのですが、その中でも幕末の端緒を切ったといっても過言ではないあの「黒船来航」から幕府内でのてんやわんやの騒動そして朝廷を差し置いての違勅による通商条約調印から幕末の暗黒時代である「安政の大獄」へと進むなかで起こる幕末最大のテロ事件「桜田門外の変」にいたる時の流れは、時代の変革という大きな歯車が大きく回り始めるプロローグとしては最高の面白さがあります。

そんな時代の中で、ひときわ輝く人物をあげるとしたら、やはり時の大老・井伊直弼ではないでしょうか。これまで当ブログではお江戸に残る井伊直弼縁の場所を取り上げてきましたが、彼が眠る場所については未だ手付かずの状態でした。そこで、当ブログでははじめて取り上げる地域でもある世田谷の大江戸幕末歴史散策を敢行いたしました。

豪徳寺の仏殿

目指すは大老・井伊直弼が眠る豪徳寺です。同時に江戸における彦根藩井伊家の菩提寺なのですが、いつから井伊家の菩提寺になったかというと寛永10年(1633)にここ世田谷が彦根藩の領地となってからと言われています。がこの豪徳寺という寺名は彦根藩二代藩主である井伊直孝の没後、彼の法号「久昌院殿豪徳天英大居士」から豪徳寺と寺号が改められたとのこと。このことから当寺には井伊家二代藩主を筆頭に、六代、九代、十代、十三代、十四代の計六人の藩主の墓が置かれています。因みに直弼は十三代彦根藩主です。

付け加えて、当寺は「招き猫」の寺として有名なのですが、なんで豪徳寺と招き猫が関係するのか? よくよく調べてみると結構話が長く、なにやらとってつけたような話なのです。

寺務所前の招き猫
猫の置物

簡単に言うと、当寺が豪徳寺と名が変わる以前の寺は弘徳院と呼ばれていたのですが、この弘徳院はかなり荒れ果てて貧乏寺になっていたようです。そこで時の住職は可愛がっていた猫に「私の恩がわかるのならば、何か果報をもたらせ。」と言い含めたらしいのです。そしてその年の夏、鷹狩の武士がこの荒寺の前を通ると、なんと山門の前で「おいでおいで」と手招きをする猫がいたのです。そしてこの猫に誘われるように武士たちはこの寺に休息がてら立ち寄ったといいます。するとにわかに空が曇り始めそれはそれは激しい雷雨となります。この状況をみて武士たちは猫が招きいれてくれたお陰で雨宿りができたと喜び、福を呼ぶ「猫」がいる寺として大事にすることを約束したのです。この約束をしたのが彦根藩の二代藩主である直孝公で、これ以後、江戸における井伊家の菩提寺を当寺にしたというお話です。

招福堂山門

この招き猫の由緒となる場所が豪徳寺の境内にあるのですが、招福堂という名前がついています。。この祠の中には招福観音が祀られ、「家内安全」「商売繁盛」「心願成就」というご利益があるそうです。祠の入口や祠の前には絵馬ならぬ絵猫がかけられ、多くの人が猫に願掛け参りにきている様子が伺えます。また、寺務所の入口にも招き猫の看板や猫の置物が置かれています。

絵馬ならぬ絵猫

猫つながりで言えば、お江戸には浅草裏手の新撰組の沖田総司と縁のある「今戸神社」が有名ですが、招き猫の元祖はここ豪徳寺だそうです。

それでは豪徳寺境内をご案内いたしましょう。世田谷では一二を争うほどの規模を誇る豪徳寺ですが、さすが井伊家の菩提寺たる風格と申しましょうか、参道の入口にどっしりと構える門柱とそこから山門へと延びる参道の両側には見事な松の大木の並木が整然と並んでいます。

豪徳寺門柱
松並木の参道
山門脇の井伊直弼公の墓標
山門

山門もそれなりの風格を漂わせています。山門をくぐると美しく整備された境内の庭が眼前に現れます。境内の左手には三重塔が立っています。見るからに木の新しさが目立つ塔で、平成18年5月14日に落慶したものです。新しいからといって、境内の雰囲気を壊すものではなく、他の堂宇とほどよく調和し、当寺の風格を更に高めているように思えます。

境内のお庭
三重塔
三重塔

そして境内の右手には鐘楼が置かれています。延宝七年(1679)に製造されてからずっと豪徳寺に伝えられてきた由緒ある鐘で、世田谷区内では一番古い鐘とされています。

鐘楼
梵鐘

山門から正面を見ると大きな香炉とその向こうに歴史に彩られたような古い建物が立っています。
この建物は仏殿と呼ばれ、延宝四年(1676)に二代藩主の直孝公の娘が藩主真澄の菩提を弔うために建てられたものです。仏殿内には三世佛と呼ばれる仏像が納められていますが、この三世とは「前世」「現世」「来世」を具現化したものといわれています。この仏殿の建築様式は中国の禅宗「黄檗派」のそれと同じものでどっしりとした外観が特徴的です。

香炉
仏殿
仏殿内部
仏殿

豪徳寺の堂宇の配置は禅宗の特徴であるように山門から仏殿そして法堂と一直線上に並んでいます。山門と仏殿が木造の古さを湛えている反面、法堂は現代的なコンクリート製です。

灯篭と法堂

この法堂から右へ目を移すと寺務所の建物があるのですが、この建物がわりと立派な造りなのです。特に建物入口の構えが特徴的なのですが、実は千葉の佐倉藩藩主堀田家で使われていた大名屋敷の玄関を移築したものだそうです。どうりで、といった感じです。

寺務所の正面玄関

そしていよいよ本日のメインである井伊家の墓域への参拝です。仏殿から招福堂へと進むと、その前方に2本の石製の門柱が遠目に入ってきます。雰囲気からして井伊家の墓域であることが認識できます。門柱の手前に井伊家代々の方々の墓の見取り図が置かれていますので、各藩主の墓の位置が一目瞭然でわかります。

井伊家の墓域入口
墓域俯瞰
直弼公の墓
直弼公の墓石
直弼公の墓石から井伊家墓域を俯瞰

門柱を抜けると、目の前に広がるのが井伊家の墓域です。第一印象としてずいぶんゆとりのある墓域です。勉強不足で他の大名の墓域と比較することができないのですが、小石川の伝通院にある徳川家の墓がかなりキツキツに配置されているのとむりやり比較しても、ここ井伊家の墓域はぜいたくな敷地の使い方のようです。そしてこれまで私が見た多くの大名の墓が宝塔印塔タイプであったのが、そのほとんどが唐破風笠付位牌型なのです。前述のようにここ豪徳寺に眠っている藩主は2代目直孝、6代目直恒、9代目直�倥、10代目直幸、13代目井伊直弼、14代目直憲(明治35年没)の6人です。その他の藩主の方々は滋賀県彦根市の清涼寺と近江市の永源寺にあるとのこと。尚、豪徳寺の井伊家の墓域には300基にのぼる墓石があるそうです。これは井伊家の方々だけでなく藩士やその家族の方々も含まれているとのことです。直弼公の墓のそばには桜田門外の変でなくなった藩士の碑もたっています。

桜田門外の変烈士碑

直弼公の墓石には彼が亡くなった万延元年 閏三月二十八日の文字が刻まれており、毎年この日に営まれる法事でたむけられたであろう卒塔婆にも三月二十八日の文字が鮮やかに残っていました。




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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (しずか)
2011-10-07 10:25:47
こちらのお寺の存在は知りませんでした。
広い境内にあるかなり見事なお寺のようですね。
また11月に東京に行く予定があるので、こちらのサイトで予習させていただきます。
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Unknown (【ダンディ松】)
2011-10-07 21:38:15
世田谷の中でその規模と風格において肩を並べるのが豪徳寺と九品仏でしょう。近日中に、九品仏をブログに掲載する予定ですのでご覧になってください。尚、豪徳寺参拝の折には、近くの世田谷城址をうはじめ、歴史に彩られた寺社が点在していますので立ち寄ってみてください。
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