西神吉町をゆく(36) 海岸段丘
明石市の江井島から林の海岸を散歩されてことがありますか。
そこは、10mもある台地が急に海に落ち込だ海岸をつくっています。
屏風を立てたような風景のため、「屏風ヶ浦」と呼ばれています。
この海岸は、昭和6年「明石原人」が発見されたことでも知られています。
地球は、幾度となく氷河期を経ました。暖期には、海が押し寄せました。
屏風ヶ浦は長い年月、隆起と海の侵食により、現在の地形をつくりました。現在は、護岸工事で侵食はとまっています。
話を西神吉町にもどします。岸から大国・中西にかけて、写真のような崖(海岸段空段丘)が続いています。
ここは、かつての海岸であり、屏風ヶ浦と同じく波の浸食作用により急な崖をつくりました。
屏風ヶ浦と決定的に異なるのは、近くに大河加古川があったことです。
加古川が、土砂を大量に運び崖の南に平野をつくりました。
海は、はるか南に遠ざかりました。そのため海の侵食の影響は屏風ヶ浦ほどではありません。
西神吉の崖の北に広がる台地も屏風ヶ浦とおなじく、小さいが一貫した隆起現象が続いています。
ここはかつての海岸であり、波が岸辺を洗い崖をつくりました。
つまり、西神吉町の北部は、この隆起した台地上の地域がほとんどです。
この地域は加古川東岸の印南野台地と同じく台地を潤すほどの川がありません。水の確保が難しい地域でした。
西神吉から・志方に広がる台地を勝手に、「西神吉・志方台地」と呼んでおきます。
ここでは水との闘った歴史があったと想像できます。
*『加古川市史(第一巻)』参照
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