ひろかずのブログ・3

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西神吉町をゆく(35) 高砂の大年寄り岸本家は西神吉大国の出身

2024-03-13 10:02:23 | 加古川市歴史探訪・西神吉町

 

         西神吉町をゆく(35) 高砂の大年寄り岸本家は西神吉大国の出身

 話は、高砂へと飛びます。

 江戸時代、高砂そして姫路藩の掲載に貢献した岸本家は大西神吉町大国出身でした。そのため、岸本家についてすこし話しておきましょう。



 高砂町の中央を南北に貫通する幹線遭路沿いの町並は北本町です。

 江戸時代、ここに高砂町大年寄(たかさごまちおおとしより)・岸本吉兵衛がいましたいた。

 岸本家は、代々木綿業を営む豪商で、姫路藩の木綿専売制に深く関与します。

 文化年間(180418)、姫路藩家老・河合寸翁(かわいすんおう)の建議で郷学(ごうがく)・ 申義堂(しんぎどう)が建てられ、土地・建物は岸本家が提供しています。

 高砂町の町は、天保10年(1839)の家数82戸・人数358人でした。

       大年寄・岸本家

 岸本家は、印南郡大国村(現:加古川市西神吉町大国)から、享保年間(171635)に高砂町(たかさごまち)に進出したことに始まります。

 大国村の岸本家の本業は、木綿業を行なっており、高砂岸本家も木綿屋(木綿屋)と称し、木綿問屋経営が本業でした。

 岸本家は、木綿売買のために加古川河口の港町高砂町にその拠点を設けるために、高砂町に移りました。

 岸本家は、三代で、その基礎が確立され、その資産は、持高約270石を含め、銀高にして83貫目にも達したといいます。

 そして、岸本家は、従来の高砂町の特権商人であった大蔵元などの有力商人として、高砂町の行政の一端を担うようになりました。

 また当時、姫路藩では家老・河合寸翁が中心となって藩政改革が進められ、藩財政の再建策の一つとして、領内の重要な産物であった木綿の藩専売制が実施されることになりました。

 姫路藩には多額の収入が入るようになり、藩の借金は専売制を初めて7・8年で返済することができました。

 この時、岸本家は、木綿の藩専売制の運営の中で、重要な役割を果たし、姫路藩の財政にも深く関っていくことになります。

 それに対し、姫路藩は、岸本家を御用達商人として士分待遇を行ないました。

 高砂岸本家は、高砂町の有力商人として、姫路藩の御用達商人になるとともに、高砂町の大年寄役を長期にわたって勤め、近世高砂町の町政に大きく貢献しました。

 *『播州高砂岸本家の研究(工藤恭孝)(ジュンク堂書店)参照

 *写真:大国時代の岸本家の菩提寺(常福寺)

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