goo blog サービス終了のお知らせ 

ひろかずのブログ・3

81歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

八幡町をゆく(15) 猫池の伝説

2024-06-05 09:48:40 | 加古川市八幡町をゆく

 

            八幡町をゆく(15) 猫池の伝説

 「猫池」の伝承です。

 八幡町上西条・中西条は、加古川に近いにもかかわらず十分な水が得られませんでした。

 そのため、村の南の印南野台地のくぼ地に池を造り、その水を使っていました。

 猫池は、享禄4年(1531)、当時の沼田若九郎等が指導し、村人と共に造ったと伝えられています。

 猫池の水は、その後上西条・中西条に大きな恵をあたえました。

 しかし、台風や大雨の時には、しばしば堤防が切れ、田畑や民家を押し流しました。

 いつしか、猫池に伝説が生まれました。

 村人は、堤防が切れない方法はないかと考えたのですが、いい考えが浮かびません。「人柱を・・・」という意見もありました。 

 そんな時ででした。「猫を堤に埋めると堤が切れなくなるであろう・・・」という神のお告げがありました。

 そこで、猫八匹を堤防に埋め、大がかりな工事は完成しました。

 以来500年間、堤防は切れることなく満々と水をたたえています。



 もっとも、猫池は形があたかも猫が横たわっているようにみえるところから、いつの頃からか人々は、猫池と呼ぶようになったというようです。




八幡町をゆく(14) 宮山古墳

2024-06-04 10:16:40 | 加古川市八幡町をゆく

       八幡町をゆく(14) 宮山古墳

 八幡町野村の手前で、道は坂をつくって八幡町へと急降下します。

 その坂を下る手前辺りから印南野台地が西へ舌を出したように城山(じょやま・加古川市神野町)にむかって伸びています。

 この舌のような台地こそ、古代文明の舞台であり、縄文・弥生・古墳・白鳳時代の人々の生活の跡がいっぱい詰まっています。

 今日は、『加古川市の文化財』を参考にして、宮山遺跡を訪ねてみます。

 宮山(古墳)遺跡は、八幡町上西条と中西条の間で、印南野台地から更に北へ突き出たところにあります。

 昔、ここは上西条と中西条の共有地で、自由に土を取っていました。

 昭和39年頃、この土砂が採集されていた場所から遺物を含む層がみつかりました。

 昭和40年に一部、発掘調査が行われ、縄文時代後期の遺跡で、住居址や祭祀跡とみられる遺構が発見されました。

 また、山頂部に古墳が集中しており、宮山大塚(中期古墳)の他、後期古墳五基が確認されてました。

 保存状態はあまりよくありません。江戸時代に盗掘されたらしい。

 *『加古川市の文化財』(加古川市教育委員会)参照、写真は宮山古墳の一基。


八幡町をゆく(13) 銅鐸のみつかった古墳(望塚)

2024-06-03 07:20:33 | 加古川市八幡町をゆく

   

   八幡町をゆく(13) 銅鐸のみつかった古墳(望塚)

  まず、東沢1号墳を地図で確認ください。



 東沢1号墳は望塚(ぼんづか)があった水田の下から新たにみつかった古墳です。

 東沢1号墳は、5世紀前半に造られた古墳であることが明らかになりました。

 古墳の斜面には、葺石(ふきいし)が比較的良好に残存するとともに、古墳の周りを囲む周溝内からはたくさんの埴輪(はにわ)や土器が出土しています。

 この他、弥生時代(約1800年前)の竪穴住居跡もみつかっています。

 少し説明を加えます。

 上記の説明文の「東沢1号墳は、望塚(ぼんづか)があった水田の下から新たに見つかった古墳です。

 望塚は、加古川市内で唯一の銅鐸が発見された塚です。

 銅鐸は、弥生時代の青銅器です。

 東沢1号墳は、もちろん古墳時代の塚です。

 歴史は、弥生時代から古墳時代へと移行します。

 とすると、少しおかしなことになります。

 新しい古墳時代の遺跡の上に、古い弥生時代の望塚があったことになるのです。

 『加古川市史(第一巻)』で、望塚についての記述を読んでみます。



 「・・・(望塚の)銅鐸の出土した年代については諸説があり、一致しない。

 大正二年、同三、四年、同七年、同十三、四年の五つの説がある。・・・・銅鐸出土に関しては、こうした基本的なことさえわからにことが多いのである・・・」

 塚に大正十四年八月、末沢隆次建立」の文字がありますが、何らかの理由で当時すでに発見場所もはっきりしなくなっていたようです。

 そして、場所の確定のないまま、「この辺にしておこう」と土盛りをして望塚としたのが真相に近いようです。

 東播磨南北道路が望塚の上を通過することになり、遺跡の調査が行われて、このことが確かめられた。

 現在、望塚発見場所は少し東へ移動しています。写真は、新しい望塚。


八幡町をゆく(12)  行者塚古墳③・加羅への援軍

2024-06-02 10:09:26 | 加古川市八幡町をゆく

 

   八幡町をゆく(12)  行者塚古墳③・加羅への援軍

 古代史の専門家は、行者塚出土の大量の埴輪(写真は一部)の研究等から行者塚は、5世紀初期の古墳であると結論づけています。

 ここからは、素人()の無責任な想像を書いてみます。

 行者塚古墳の出土品の中には朝鮮半島南部からの遺物が多くあります。

 これは中央(奈良地方)の豪族が、朝鮮南部から得た品物を、地方の豪族に与えたものとも考えらますが、それにしては行者塚古墳には多すぎます。

 行者塚古墳の主は、中央の豪族にとって、それほど特別な豪族であったとも思えません。

 5世紀の朝鮮半島の情勢は、百済・高句麗・新羅・加羅(から)、それに中国が複雑に絡み合っています。

 つまり、お互いに相手の領土を狙っていたのです。

 行者塚古墳から出土品から考えて、行者塚の主は加羅(任那)と関係が深いと想像されます。

 加羅は、これらの国の中でもっとも弱小の国(地方)でした。

 とするなら、当然加羅は、他国と同盟を結んだり援軍を求めたりしたのでしょう。

 西日本や北陸の海岸にある古墳にも、行者塚と同じく、加羅地方の遺物を多く持つ古墳があります。

 これらの古墳の主は、加羅へ直接援軍を送ったのでしょう。

 そして、「その見返りとして、加羅からたくさんの宝物を得たのではないか」と考えるのです。

 あくまで、素人の推測として読んでください。

*写真(行者塚古墳出土・盾形埴輪)


八幡町をゆく(11) 行者塚古墳②・朝鮮南部とのつながり

2024-06-01 07:07:30 | 加古川市八幡町をゆく

     八幡町をゆく(11) 行者塚古墳②・朝鮮南部とのつながり

 行者塚古墳からたくさんの遺物が発掘されました。

 そのうち、先に紹介した帯金具は中国・晋(しん)の時代のもので、朝鮮半島の金海(朝鮮南部)から伝えられたと考えられています。

 中国大陸のものが交易により朝鮮に渡り、それが日本へ交易により伝えられました。

 その他、多くの種類の遺物があります。

 巴型銅器(写真)は、新羅の慶州・釜山の金海あたりの古墳でも発見されています。

 それに、馬具なども朝鮮南部製と考えられています。

 そのほか、鉄鋌(てってい・鉄の板がね)等が発見されているが、それらは朝鮮半島南部のものと思われます。

 今後、鉄の成分分析が行われると更に詳しく生産地等が特定されるでしょう。

 つまり、行者塚古墳の遺物は大陸の、特に朝鮮半島南部の香りをいっぱい詰め込んだ古代のタイムカプセルです。

 それでは、行者塚古墳の築かれた時代、行者塚古墳の被葬者はどんな人物なんでしょうか。・・・・

 *『開かれた古墳時代のカプセル(記録集)』(加古川市教育委員会)参照


八幡町をゆく(10)  行者塚古墳①・古代からのタイムカプセル

2024-05-30 07:13:21 | 加古川市八幡町をゆく

      八幡町をゆく(10)  行者塚古墳①・古代からのタイムカプセル

(加古川市)行者塚古墳(ぎょうじゃづか)古墳は、加古川左岸の丘陵に築かれた前方後円墳です。

 かつて、この辺りには、古墳時代後期の群集墳が多数存在していたが、そのほとんどは昭和38年(1963)よりはじまった宅地開発にともなって姿を消してしまいました。

 今は、行者塚・人塚・尼塚が残るのみです。

 ここは、昭和48(1973)「西条古墳群」として国の史跡指定されました。

 行者塚の第一次調査(1995)、第二次調査(1996)の調査は、驚くべき内容を明らかにしました。

 その一部を『行者塚古墳(発掘調査報告)』(加古川教育委員会・1997)に見てみましょう。

 行者塚古墳を「八幡町」に含めて報告します。

 現在、行者塚古墳は、加古川市山手二丁目となっているが、山手二丁目は、元八幡町中西条と神野町西条の一部が、宅地造成に伴い、昭和58年11月21日新しく設営された地域です。

 行者塚古墳は、古代の不思議をいっぱい詰めたタイムカプセルです。

 「行者塚古墳」を4回シリーズで紹介します。

*写真は、行者塚古墳から発見された帯金具。

 『行者塚古墳(発掘調査報告)(加古川教育委員会)


八幡町をゆく(9) 行者塚古墳、日岡山から西条への移動?

2024-05-29 08:00:58 | 加古川市八幡町をゆく

   八幡町をゆく(9) 行者塚古墳、日岡山から西条への移動?

 地図をご覧ください。

 加古川市には、大きく日岡山古墳群、西条古墳群、そして平荘古墳群があります。

 行者塚古墳は、西条古墳群に属しています。

 日岡古墳群の多くは、4世紀古墳であり、西条古墳群は5世紀古墳が中心です。

 この二つの古墳の関係が気になります。

 二つの古墳群の関係について、大阪大学の都出比呂志教授は、次のような見解をシンポジウムで述べられておられます。

 「・・・この行者塚古墳は5世紀の古墳ですが、その前には4世紀代には、日岡山に有力な墓があったんですね。

 時期が、この行者塚古墳の時期になりますと場所を移動しています。

 その動く時期は、ちょうど大和や河内の大きな古墳が動く時期と一緒なんです。

 ・・・・ということは、・・・大和・河内という当時の政治的な先進地である中央との動きと、地方の動きとが連動している。

 ・・・・この4世紀、5世紀の時代というのは、日本列島各地の王様がお互いに仲良しの連合というものを作っているわけですね。

 ですから、大和東南部に非常に大きな力を持った王様の時期は、その人達と誼を通じた人達は全国にネットワークを持っていた。

 大和の東南部を4世紀に支配していた人は、日岡山の王様と仲良くしていた。5世紀になって河内を拠点とする違う人が治めた時には、西条の王様と仲良くする・・・

 つまり、都出教授は、日岡山から西条への古墳への移動は、中央の支配者の変動に連動した動きと指摘されています。

 *『開かれた古墳時代のタイムカプセル』(加古川市教育委員会)参照


八幡町をゆく(8) 下村の綿作

2024-05-28 09:57:16 | 加古川市八幡町をゆく

      八幡町をゆく(8) 下村の綿作


  江戸時代、大坂や江戸の巨大都市が生まれ、交通も発達し、商品の流通は盛んになりました。
 江戸時代の後半、綿花は商品として大規模に栽培されるよういなりました。
 特に、姫路藩は、財政改善の切り札として綿を藩の専売として奨励しました。
 姫路木綿は、品質がよく、江戸で大好評を得た。木綿の多くは、加古川地方で栽培されました。
 文化14年(1817)、上西条(加古川市八幡町)では全耕地面積の21.9%に綿が植えられ、新田のみでははるかに多く、本田の2倍以上を占めていました。
 ここに下村(加古川市八幡町)の綿作の記録があります。下村も畑地と新田畑に集中しています。
 綿作比率は、文化4年(1807)まで、全耕地の10%に満たなかったが、文化 10年後に急速に増加し17.3%を占めるようになりました。
 特に、畑における増加は著しく、享和年間の2・3倍の面積を綿花が占め幕末にいたっている。
 下村の総面積に対する綿作比率(%)の推移を挙げておきます。 


    享和元年(1801)   8.2     文化4年(1807)   8.2  
  文化10年(1813)    17.3     文政5年(1822)  17.4
  天保3年 (1832)  13.4     天保13年(1842)   16.2  
     弘化4年 (1847)  14.5 

  
 秋には真っ白い綿花の風景が広がっていました。
*『近世農業経営の展開(岡光夫著)』(ミネルヴァ書房)参照
 


八幡町をゆく(7) 太子岩附近にて

2024-05-27 08:47:40 | 加古川市八幡町をゆく

   

  八幡町をゆく(7) 太子岩附近にて


 太子岩付近の本流は比較的水深が浅かったので、鮎釣りをする人や雑魚とりの好きな人が上流から鮎を追って狭い箇所に集め網を打って、これを捕獲していました。
 加古川の鮎は味も香りも一よいと言うので食通には大変評判がよく、子供は、石の下にかくれているえびや雑魚をすくい捕るなどして夏の間はあそびました。
 そうして、水に親しんでいると別に練習などしなくても、いつの間にか泳げるようになっていました。
 五ケ井堰の水門の下流は清流で小砂利が多かったからシジミ貝がたくさんとれました。
 水門の中では小さなえびが側壁にくっついているのを網ですくうと短時間に沢山の小えびがとれ面白いように獲れました。
 太子岩附近は水が淀んでいて流れがゆるやかで深かったので水の多いときは、岸から太子岩まで泳いでも背の立たないこともあり、水の少ないときは太子岩まで泳いで岩の上に立つことができ、そこまで泳げることが自慢でした。
 水門付近は、螢の名所で、六月の初旬になると、沢山の大きな螢が飛び交い明滅するので、麦藁の束を持って行きそれを捕えるのも楽しみでした。
  夏休みになると児重は昼寝の時間に太子岩附近へ泳ぎに行って、タニシを糸でくくったのや米糠で作った団子を餌にして岩にかくれているエビをおびき出し、網ですくい上げて楽しんでいした。
                中西条  山 本 定 次 『ふるさと やはた』より


八幡町をゆく(6) 叺(かます)

2024-05-26 07:02:51 | 加古川市八幡町をゆく

            八幡町をゆく(6) 叺(かます)


 ・・・・農家の耕作の田鍬きはすべて役牛に頼っていましたので、たいていの農家は温和な牝牛を飼っていました。
 小学校の高学年になると、草刈りをしたり、牛に稲わらや米ぬか・麦などの餌を与えることが学校から帰っての仕事でした。
 また、昭和初期は現在のような会社や工場は少なく、農家はカマスや筵(むしろ)を生産して現金を得ていました。 
 そのため、子供たちはこづかいをもらう楽しみに、よく手伝いをしたものです。
 

 注:叺(かます)    袋の一種。藁蓆(わらむしろ)を二つに半折し、両端を縄で閉じて封筒状にした容器である。肥料、石炭、塩、穀物などを入れる。多木肥料からの注文がありました。
 冬の問は裏作として麦を作り、五月上旬に種籾を苗代に蒔き、6月上旬に麦の収穫と田植えをします。


 手植えで大勢の人手が必要で、稲の成育中は、手押しの除草機で草取りをします。病虫害の予防もはとんどできない状態で、誘蛾灯で殺虫するくらいでした。
 また、肥料も堆肥が主で、硫安や過燐酸・石灰・大豆粕・魚粉などは高価で、あまりつかいませんでした。
 稲の収穫も手で一株ずつ刈り取り、稲架で干し、足踏みの脱穀機で脱粒。
それを唐箕(とうみ)で選別し、筵(むしろ)で乾燥していました。
 その当時、籾摺り機だけは石油発動機による自動籾摺り機があり、それを
持つ人は村中で一人か二人でした。その自動籾摺り機で村中の籾を賃摺りして、短時間に多量の玄米にすることができました
 また、わずかな先進的な農家が、動力脱穀機を使い始めたのもこの頃でした。
  昭和12年より、日中戦争が起こり→国中が軍事一色になり、戦闘用の兵器は長速の進歩を遂げましたが、農具は役牛用の物くらいがわずかに改良されるにすぎませんでした。
 昭和16年、第二次世界大戦が始まり、戦争が激しくなると、兵器・軍需物資の生産に全力を注ぎ、農具の改良どころではありませんでした。・・・
*以下、省略     

                                                                                                           宗佐 小田太一 『ふるさと やはた』より


八幡町をゆく(5) 田 植

2024-05-25 06:56:15 | 加古川市八幡町をゆく

      八幡町をゆく(5) 田 植 


  朝まだ太腸が顔をのぞかせない暗いときに起きて、おみそ汁・潰けもの・塩こんぷの簡単な朝食をすませてから、おべんとうを持って田んほへ出かけます。
 親戚二、三軒寄って、まず縄をはり、いろいろな世問話をしながら、ときにはヒルに吸いつかれて悲鳴をあげたこともありました。
 背中一度いに太腸の光を受けて、一株一株植え付けると、まるで緑のじゅうたんを敷きつめたようになります。
 お昼時、田の畔に擾をおろし、溝に足をつけてひろげるおべんとうのおいしかったこと……。
 雨が降っても田植えは休めま甘ん。かえるが、「ゲロゲロ」合唱するなか、みのがさを着て一生懸命植えまレた。


     さなぼり


 田植えが終わると、「さなほり」という休(・・)みがあり、街へ買い物行ったり、ご馳走をしりすることが楽しみでした。
 それからは、草とり機をころがしたり、ひえ引き、肥料、牛の堆把を入れたり、農薬散布と忙しい毎日が擁きます。今年は台風が上陸しなかったので
大豊作でした。黄金色の穂が重く垂れ下がり、ザックザックと鎌で刈りとるとき眇うれしさは、忘れることができません。
 しかし、脱毅したもみや機械を道まで出すのが、一苦労でした。
 「かど干し」といって、庭先にムシロをひいて、その上もみを干しもみ摺りを終えて玄米になります。
             宗佐 藤田ことゑ 『ふるさと やはた』より


*写真:「さなぼり」・田植えを終えたころ、加古川商店街で開催されていた大売出し。


八幡町をゆく(4)  村につき電灯がつき、電話が開通しました

2024-05-24 07:18:05 | 加古川市八幡町をゆく

 

 八幡町をゆく(4)  村につき電灯がつき、電話が開通しました


    電灯のありがたさ 


小学校持代(大正の初期)はになると、ほとんどの家が行燈(あんどん)を用いていました。
少しハイカラな家ではランプでした。
でも、毎晩ランプをつけると油代が高くつくので、お客さんでもある時は別
として、それ以外はできるだけ行鐙でした。
そんな暗い灯の下でも親は毎晩夜業に土間で縄ないや、草履作りをしていました。
 大正三年電灯がつきました。それも、六燭光の電球が一戸一灯でした。
当時は、その明るさに驚喜したものです。
「マッチで電気をつけようとした老人もあった」という笑い話があります。る
以来僅か70年余あまり。今では電気なしには生活できない社会になりました。
文明の有難さを思うと今昔の感にたえません。
                        中西条   山本定次

   

    電話


 加古川郵便局で竜話交換業務を開始したのが明治45年4月。
当地方では八幡村国包郵便局で電話交換業務を開始したのが大正12年3月。
当時、八幡村での電議加入者は3~4で、集落で電話のないところもありました。
昭和47年、上西条、中西条境の宮山脇に無人の自動交換局が設置され、今八幡町の加入者教は1700を越え、殆んどの家庭に架設されるようになりました。
                       下村  本 岡 豊 二


八幡町をゆく(3) 亀の井堰と亀の井用水の受益地域

2024-05-23 08:43:49 | 加古川市八幡町をゆく

 

 

       八幡町をゆく 亀の井堰と亀の井用水 

  国包は上荘町ですがここでは八幡町として話を住めます。
 国包は、5日も日照が続くと、ツルベで朝夕灌漑をしなければならず、他の村から嫁入りが嫌われていたといいます。
 そんな窮状を救うため、文化13年(1816)、畑平左衛門が美嚢川(みのがわ・三木市)が加古川に出る手前から取水するための堰をつくりました。
 この用水は、国包村、船町それに宗佐村の畑地(図の赤く塗りつぶした場所)を潤し、水田化するためのものでした。
 井堰の構造が割石を亀の背中のように丸く積み上げたことから、堰は「亀の井堰」、用水は「亀の井用水」と呼ばれるようになりました。
現在、石組みはなくなり、写真のようなコンクリートの堰に変わっています。
 取水方法も、「水がいる時期に風船が膨らみ川をせき止め水をためる」ように変わりました。
 田畑に水が必要な田植え時期や、今の時期にゴム風船を膨らませたような堰を見ることができます。お出かけください。
 *写真と図:亀の井堰と亀の井用水の受益地域(赤く塗った所)


八幡町をゆく(2) 国鉄(JR)国包(くにかね)駅

2024-05-22 09:31:47 | 加古川市八幡町をゆく

   八幡町をゆく(2) 国鉄(JR)国包(くにかね)駅


 国包(くにかね)は、志方町の投松(ねじまつ)と共に難解地名としてよく紹介されます。
 加古川市の人にとっても、国包はよほど八幡地区と思われているらしく、国包には写真のような丁寧な説明板がありました。
 築山の近くにあった「この表示板」は現在ありません。

          昔、JR加古川線に国包駅がありました


 JR加古川線は、大正二年(1913)、加古川~西脇間で開業しました。会社名は「播州鉄道」でした。
 開業後、経営難もあり、大正12年(1923)に播但鉄道に経営は移りました。
 大正五年(1913)、西脇まで播州鉄道は開通します。この時、国包に「国包駅」が設けられました。
 そして、大正五年(1916)に国包と別所(三木市)間に三木鉄道が開通し、翌年、三木まで延長されました。
 三木鉄道に「国包駅」が設けれられることになり、それにともなって、加古川線の「国包駅」は「厄神駅」になりました。
 現在、三木鉄道は廃線になり、「国包駅」の名称はなくなりました。 
 


八幡町をゆく(1) 冊子『ふるさと やはた』

2024-05-21 09:44:30 | 加古川市八幡町をゆく

 

         八幡町をゆく(1) 冊子『ふるさと やはた』

 
 明治22年、町村制実施に伴い、野村(野村新村と野村は、明治初年に合併し、野村となる)・宗佐(そうさ)・下村・船町・上西条・中西条が合併して「八幡村」が誕生しました。
 史料が少ないため、詳しくは分かりませんが、町名はこの地区にある「厄神・八幡神社」から、八幡を「やはた」と読ませ、村名にしたようです。
 さあいわい、私の手元に、『ふるさと・やはた(高齢者生きがい充実特別事業著)』と言う冊子(写真)があります。
 下村・宗佐・中西条の高齢者の力作です。
 明治・大正・昭和の八幡町の歴史は、この冊子を紹介してくださいました。
 冊子の「あとがき」に、「・・・編集者として20年・30年先には、おじいちゃん・おばあちゃんたちが書き残した貴重な財産になるようなものを作りたい・・・」と書かれています。
 この冊子の発行は、昭和59年3月ですからすでに発行から75年がたっています。
 「あとがき」にある、昭和59年をはるかにより超えています。
 貴重な冊子になりました。冊子の存在を知る人も少ないようです。
 八幡町の古いところは、『加古川市史』などを参考にして、八幡町を再現しましょう。
 もっとも、他の町の紹介と同様、かなりの独断と偏りを持った記述になりますが、お付き合いください。