久しぶりの更新。なかなかエントリーを更新する時間もなく、また、簡単にかけるだけのネタもないので、時々ここを訪問していただいている方には申し訳ないと思っている。
今回は、ルモンドに掲載されたというスラヴォイ・ジジェクの68年論について、紹介したい。リンクをクリックすると、いつも購読させていただいている、ね式さんのblog「ね式(世界の読み方)」での、当該記事の翻訳にジャンプする。
個人的には、かつては、ジジェクによるこの種の68年批判を理解することができなかったのだが、ある時期から、「なるほどこういうことだったのか」と腑に落ちるようになった。
以前、ドゥルーズが、「左翼とは何か」といったことを勘弁に説明しているインタビュー動画をネットで見たことがあるのだが、そこでドゥルーズは、「左翼であるということは、周辺から考えるということ」と語っていた。これだけだと、納得するような内容であるが、しかしその例として、フランスからモノを考えるのではなく、日本から、あるいはアジアから、モノを考えるということ、などといった内容のことを言っていた。
「日本からモノを考えること」が、そのまま周辺からモノを考えるということになるという、地理的な位置感覚に、フランス中心主義の裏返し(というか、要はエスノセントリズムもこの種の批判も同じコインの表裏なのだ)ということを、感じてしまったのだった。それから、これは友人が言っていたので、正確な参照がないのだが、ドゥルーズは、あるところで「哲学とは外国語でモノを書くのと同じことである」と、言っていたらしいのだが、そのとき私は、「それはドゥルーズだから言えること」と、思ったのだった。
アンチ・オイディプスのような文章は、外国人が書くことは許されない(あるいは書いても相手にされない)。母語でない言葉を操りつつ文章を書くというのは、その言語の文法なり表現のルールなりを厳格に守ることが実のところ要求され、「自由にモノを書く」などという経験ではとうていあり得ない。そう考えると、ドゥルーズの「解放的な思想」が、同じ地位を持たない者にとって、いかに映るのかを考えてしまったのだった。(無論、ドゥルーズはこの表現で、「常日頃とは別の仕方でモノを考え書くこと」と言いたかったのだろうし、また、アンチ・オイディプスのような文章の著作は、外国人に限らず、仏人が書いても相手にされない(笑)。あるいは相手にされない危険性は多分にあったはずである。それを犯して彼らが、刊行に踏み切ったことは、勇気のあったことだと思うが)
ジジェクの話ではなく、ドゥルーズの話になってしまったが、ジジェクについてはまた別の機会にでも。
今回は、ルモンドに掲載されたというスラヴォイ・ジジェクの68年論について、紹介したい。リンクをクリックすると、いつも購読させていただいている、ね式さんのblog「ね式(世界の読み方)」での、当該記事の翻訳にジャンプする。
個人的には、かつては、ジジェクによるこの種の68年批判を理解することができなかったのだが、ある時期から、「なるほどこういうことだったのか」と腑に落ちるようになった。
以前、ドゥルーズが、「左翼とは何か」といったことを勘弁に説明しているインタビュー動画をネットで見たことがあるのだが、そこでドゥルーズは、「左翼であるということは、周辺から考えるということ」と語っていた。これだけだと、納得するような内容であるが、しかしその例として、フランスからモノを考えるのではなく、日本から、あるいはアジアから、モノを考えるということ、などといった内容のことを言っていた。
「日本からモノを考えること」が、そのまま周辺からモノを考えるということになるという、地理的な位置感覚に、フランス中心主義の裏返し(というか、要はエスノセントリズムもこの種の批判も同じコインの表裏なのだ)ということを、感じてしまったのだった。それから、これは友人が言っていたので、正確な参照がないのだが、ドゥルーズは、あるところで「哲学とは外国語でモノを書くのと同じことである」と、言っていたらしいのだが、そのとき私は、「それはドゥルーズだから言えること」と、思ったのだった。
アンチ・オイディプスのような文章は、外国人が書くことは許されない(あるいは書いても相手にされない)。母語でない言葉を操りつつ文章を書くというのは、その言語の文法なり表現のルールなりを厳格に守ることが実のところ要求され、「自由にモノを書く」などという経験ではとうていあり得ない。そう考えると、ドゥルーズの「解放的な思想」が、同じ地位を持たない者にとって、いかに映るのかを考えてしまったのだった。(無論、ドゥルーズはこの表現で、「常日頃とは別の仕方でモノを考え書くこと」と言いたかったのだろうし、また、アンチ・オイディプスのような文章の著作は、外国人に限らず、仏人が書いても相手にされない(笑)。あるいは相手にされない危険性は多分にあったはずである。それを犯して彼らが、刊行に踏み切ったことは、勇気のあったことだと思うが)
ジジェクの話ではなく、ドゥルーズの話になってしまったが、ジジェクについてはまた別の機会にでも。
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