a journal of sociology

社会理論・現代思想を主に研究する今野晃のblog。業績については、右下にあるカテゴリーの「論文・業績」から

ブランドと階級:その3

2005年11月24日 | 社会問題
 以前、在外研究で仏に滞在された経験のある先生と、日仏の学生のブランドものに対する意識の違いについて、議論をしたことがあった。この方は、「向こうは、学生などが高級ブランドを身につけることはない。そうしたものに興味がないから。そして自分がそんなものを持っていても似合わないと思っているから」と言っていた。
 実際、仏の学生は、例えばルイヴィトンのバックなど身につけてはいない。ただ、私自身は、少し違った考え方をしている。というのも、これは以前話したが、仏は、所属する階級と分不相応な高級品を身につける事に対しては非難の視線が向けられる社会であるから。つまり、「興味がない」というよりも、「禁止されている」から、という方が、実情に近いように思われる。だから、そうした非難が向けられない環境(例えば日本など)に身を置けば、案外、日本の学生のように高級ブランドを身につけることがあるかもしれない、ような気がする。あくまで、「気がする」だけなのだが。

 実際、ある程度恵まれた家庭に生まれた学生の場合、仏でも、「自分のお気に入りのブランド」というのがあるようだ。私の親しい友人というのは、ほとんどが移民出自だった為、そうした「お気に入りのブランド」を持つのはいなかったのだが、それでも、一人だけ、ファッション好きでお気に入りブランドを持つ友人がいた(今でも友人だが)。化粧品は、ソニアリキエルがお気に入りだったようだが、その他の「お気に入り」は忘れてしまった。
 「比較的恵まれた家庭出身」だが、そこは分際をわきまえているこの彼女、グッチやルイヴィトンなどのブランドには見向きもしない。もっと、「自分らしいもの」を選ぶのだが、この彼女の受け答えが、「仏人の典型」だと私には思われて、非常に興味深かった。例えば、「パリではいつも何処で服を買うのか?」という質問に対して、「どこでも。自分が気に入った服があれば」との返答。お店やブランドについても、「特に決まっていない。自分が好きなものがあれば何処でも」という返答。

 つまり、仏で基準になるのは、「どこどこのブランド」ではなく、また「どこどこのお店で購入」ではなく、あくまで自分のファッションセンス(「どういった服を身につけると自分が一番美しく見えるか」を自分が熟知していること)なのだ。この点が、日本と基準が異なっているように思われる。つまり、簡潔に定式化していってしまえば、日本では「××の高級ブランドを身につけている(から)私は美しい」という論理順序になるのに対し、仏では、「私が身につけている(から)この服は美しい」という論理順序を踏む、つまり人間が中心にあり、その次にものが来るのだ。あるいは、「このバックを選んだのは、私の美的センス」云々と、自分の所有物に依拠しない仕方で、自分のすばらしさを提示せねばならない。

 ただし、このように「人間が中心に来る」という社会は、決して理想のそれではない。

 ブルデューではないが、このような社会では、人間が中心になる以上、まず第一に、その人間と不釣り合いな装いは非難の対象になってしまうからだ。高級バックを身につけていても、その当人がそのバックに見合う人間でない限り(要はそれに見合う階級の出身でない限り)、評価されることはないのだ。

 かなり暴力的なタイポロジーなので、当てはまらないことも多いだろうが(例えば、日本でも誰もが「ブランド好き」というのではなく、実際のところあまり興味のない女子学生も多くいるだろう:というかそっちの方が大多数だと思う)。

 ここから、仏は階級社会で日本は(外見上は)平等な社会である、という結論に行ってもも良いのだが、実際のところはなかなかそうではないと思う。というのも、先ほども言ったように、仏では「分不相応な装いはできない」以上、「勉学を本分とする仏の大学」においては、きらびやかな服装は御法度だからである。だから、なぜかよくわからないが、みんな黒っぽい服を着ている(?_?)。「狭い選択肢」の中で、各自が個性化を狙っているので、逆にみんな似た感じになる、とは別の友人の談。

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