以前、定期的に参加させて頂いている研究会で、赤堀三郎先生が社会システム論の枠組みを使いながら、ネット上での「炎上」というか、「うわさ」の広がりについて分析の報告をしていた。
それについて、私は、エドガー・モランの『オルレアンのうわさ』を下敷きにしつつつコメントさせてもらったのだが、『オルレアンのうわさ』では、うわさは、男性の場合よりも女性の場合の方が広がりやすいという指摘がされている。これだけだとジェンダーバイアスのように思われるが、要は、男性の場合はうわさが伝搬しても社会的契機によってそれが否定される機会が多い(社会的会話の中で否定されることが多い)のに対し、女性の場合はそれが相対的に少ないというものである(なお、この調査は1950年代の調査である)。
これを現行のツイッターなどにおける「うわさ」の広がりに当てはめると、ネットである種の意見が広がるのは、それを否定する契機があまりないのではないかと考えることができるのではないだろうか。
つまり、ある発言を読んだ人が、それをそのままリツイートすると、またそれに同意する人がそれをそのままリツイートすると。そうすると、リツイートされる発言は、あまり否定される契機を持たないままある種の言説としてそのまま拡大されるということになる。
こう考えると、一つの意見や言説が、様々な意見と対立したり、競合したりして、フィードバックをし、修正されることは重要なんだなと納得したのだった。そして、記事の確認なり、検証なりの昨日を持っている大手マスメディアの記事は、様々な問題が指摘されつつも、そうした機能があることを考えると、未だ重要なメディアなのだと再認識したのだった。
こういったことを考えたのだった。
ところで、最近のモランは社会学者の看板をおろしているようで(前に聞いたラジオでは、社会学者という紹介はされなかった)、サイバネティックスをやっているようである。
それについて、私は、エドガー・モランの『オルレアンのうわさ』を下敷きにしつつつコメントさせてもらったのだが、『オルレアンのうわさ』では、うわさは、男性の場合よりも女性の場合の方が広がりやすいという指摘がされている。これだけだとジェンダーバイアスのように思われるが、要は、男性の場合はうわさが伝搬しても社会的契機によってそれが否定される機会が多い(社会的会話の中で否定されることが多い)のに対し、女性の場合はそれが相対的に少ないというものである(なお、この調査は1950年代の調査である)。
これを現行のツイッターなどにおける「うわさ」の広がりに当てはめると、ネットである種の意見が広がるのは、それを否定する契機があまりないのではないかと考えることができるのではないだろうか。
つまり、ある発言を読んだ人が、それをそのままリツイートすると、またそれに同意する人がそれをそのままリツイートすると。そうすると、リツイートされる発言は、あまり否定される契機を持たないままある種の言説としてそのまま拡大されるということになる。
こう考えると、一つの意見や言説が、様々な意見と対立したり、競合したりして、フィードバックをし、修正されることは重要なんだなと納得したのだった。そして、記事の確認なり、検証なりの昨日を持っている大手マスメディアの記事は、様々な問題が指摘されつつも、そうした機能があることを考えると、未だ重要なメディアなのだと再認識したのだった。
こういったことを考えたのだった。
ところで、最近のモランは社会学者の看板をおろしているようで(前に聞いたラジオでは、社会学者という紹介はされなかった)、サイバネティックスをやっているようである。
オルレアンのうわさ―女性誘拐のうわさとその神話作用 | |
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