NPO法人「交通事故110番」代表の宮尾一郎氏が、『交通事故後遺障害等級獲得マニュアル』の前書きにおいて、次のようなことを書いている。「人身事故は被害者が怪我をするところから幕を開けるのですが、実際には『加害者に誠意が…』『保険屋さんがどうも…』などと、円満解決に程遠い議論が繰り返されています。被害者の周辺には、加害者、保険会社、保険調査員、警察官、検察官、治療先の病院など、多くの人たちが登場しますが、彼等はそれぞれの事情で動いており、いつも被害者の側に立って行動しているのではありません。加害者と保険屋さんに誠意を求めるのは、八百屋さんで魚を買い求めるに等しい、これが私の経験から得た実感です。知識を習得した被害者が、合理的な解決を目指し、実利をゲットして早期社会復帰を実現する、これらの集大成としてまとめたのが本書です」。
実利をゲットするのが現実的であり、加害者に誠意を求めるのは現実的ではない、これが宮尾氏の意見である。ここには、功利主義が「犯罪」を捉えることはできても、「犯罪被害」を捉えることができない理由がよく表れている。加害者に誠意を求めるのは現実的ではないと言われても、現実に加害者に誠意を求めたくなるというこの現実はどう説明すればいいのか。多くの人間は、誠意のない加害者の対応を目の当たりにすれば反射的に怒りを感じ、憤慨の念を抑えることができないが、これは端的な現実ではないのか。八百屋で魚は買えないというならば、事実そのとおりであるというだけの話であって、恥じることはあっても威張れる話ではない。誠意を求めるのを断念して実利をゲットするというならば、所詮それだけの話であり、単なる必要悪の方便である。知り合いに医師がいるならば、保険会社に出す診断書を書くときに少しばかりおまけをしてもらい、症状を大げさに書いてもらえばいい。
逸失利益とは、そもそも実際には起こらなかったことを想定した上で損失を計算するものであり、大前提としてそのようなものは妄想である。しかし、実証的な社会科学は、これを客観的に計算することは無理ではないという信仰の下に突き進んできた。被害者を苦しめるのは、この信仰の鈍感さである。時間は戻らず、死者は帰らず、現実のこの世はこのようでしかない。古来人間はそれを宿命と呼び、運命と呼んだ。犯罪被害者遺族の苦しみはここにある。例えば、50歳で殺された人は、51歳になることができない。しかし、ライプニッツ係数の算定とは、その人が67歳まで生きていた場合を想定するものである。生きていないがゆえに生きていると仮定する、仮定できないゆえに無理に仮定する、これは不可能を不可能と知った上で、命の重さを便宜的に金銭に換算する際にのみ必要な技術である。それは、資本主義、近代法という限られたシステムを維持するための必要悪以上のものではない。人の命はお金では買えない、この大前提を見落とすのは本末転倒である。
ライプニッツ係数の語源は、哲学者・数学者のゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz、1646-1716)である。ライプニッツの思想といえばモナド論と可能世界論が有名であり、後者は「現実に創造された世界が全ての可能世界の中で最善のものである」との理論である。現実の世界が最善であると思えるか否かはともかくとして、この世にタラレバはなく、この現実は無数の可能性があり得た中で唯一それでしかあり得ないという問題の所在を示しているのがライプニッツである。50歳で殺された人は絶対に67歳まで生きることができない、これがライプニッツの洞察であるが、ライプニッツ係数はこれを計算するための概念である。皮肉である。
実利をゲットするのが現実的であり、加害者に誠意を求めるのは現実的ではない、これが宮尾氏の意見である。ここには、功利主義が「犯罪」を捉えることはできても、「犯罪被害」を捉えることができない理由がよく表れている。加害者に誠意を求めるのは現実的ではないと言われても、現実に加害者に誠意を求めたくなるというこの現実はどう説明すればいいのか。多くの人間は、誠意のない加害者の対応を目の当たりにすれば反射的に怒りを感じ、憤慨の念を抑えることができないが、これは端的な現実ではないのか。八百屋で魚は買えないというならば、事実そのとおりであるというだけの話であって、恥じることはあっても威張れる話ではない。誠意を求めるのを断念して実利をゲットするというならば、所詮それだけの話であり、単なる必要悪の方便である。知り合いに医師がいるならば、保険会社に出す診断書を書くときに少しばかりおまけをしてもらい、症状を大げさに書いてもらえばいい。
逸失利益とは、そもそも実際には起こらなかったことを想定した上で損失を計算するものであり、大前提としてそのようなものは妄想である。しかし、実証的な社会科学は、これを客観的に計算することは無理ではないという信仰の下に突き進んできた。被害者を苦しめるのは、この信仰の鈍感さである。時間は戻らず、死者は帰らず、現実のこの世はこのようでしかない。古来人間はそれを宿命と呼び、運命と呼んだ。犯罪被害者遺族の苦しみはここにある。例えば、50歳で殺された人は、51歳になることができない。しかし、ライプニッツ係数の算定とは、その人が67歳まで生きていた場合を想定するものである。生きていないがゆえに生きていると仮定する、仮定できないゆえに無理に仮定する、これは不可能を不可能と知った上で、命の重さを便宜的に金銭に換算する際にのみ必要な技術である。それは、資本主義、近代法という限られたシステムを維持するための必要悪以上のものではない。人の命はお金では買えない、この大前提を見落とすのは本末転倒である。
ライプニッツ係数の語源は、哲学者・数学者のゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz、1646-1716)である。ライプニッツの思想といえばモナド論と可能世界論が有名であり、後者は「現実に創造された世界が全ての可能世界の中で最善のものである」との理論である。現実の世界が最善であると思えるか否かはともかくとして、この世にタラレバはなく、この現実は無数の可能性があり得た中で唯一それでしかあり得ないという問題の所在を示しているのがライプニッツである。50歳で殺された人は絶対に67歳まで生きることができない、これがライプニッツの洞察であるが、ライプニッツ係数はこれを計算するための概念である。皮肉である。