犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

「逸失利益」という言葉 その2

2007-11-11 14:29:33 | 言語・論理・構造
NPO法人「交通事故110番」代表の宮尾一郎氏が、『交通事故後遺障害等級獲得マニュアル』の前書きにおいて、次のようなことを書いている。「人身事故は被害者が怪我をするところから幕を開けるのですが、実際には『加害者に誠意が…』『保険屋さんがどうも…』などと、円満解決に程遠い議論が繰り返されています。被害者の周辺には、加害者、保険会社、保険調査員、警察官、検察官、治療先の病院など、多くの人たちが登場しますが、彼等はそれぞれの事情で動いており、いつも被害者の側に立って行動しているのではありません。加害者と保険屋さんに誠意を求めるのは、八百屋さんで魚を買い求めるに等しい、これが私の経験から得た実感です。知識を習得した被害者が、合理的な解決を目指し、実利をゲットして早期社会復帰を実現する、これらの集大成としてまとめたのが本書です」。

実利をゲットするのが現実的であり、加害者に誠意を求めるのは現実的ではない、これが宮尾氏の意見である。ここには、功利主義が「犯罪」を捉えることはできても、「犯罪被害」を捉えることができない理由がよく表れている。加害者に誠意を求めるのは現実的ではないと言われても、現実に加害者に誠意を求めたくなるというこの現実はどう説明すればいいのか。多くの人間は、誠意のない加害者の対応を目の当たりにすれば反射的に怒りを感じ、憤慨の念を抑えることができないが、これは端的な現実ではないのか。八百屋で魚は買えないというならば、事実そのとおりであるというだけの話であって、恥じることはあっても威張れる話ではない。誠意を求めるのを断念して実利をゲットするというならば、所詮それだけの話であり、単なる必要悪の方便である。知り合いに医師がいるならば、保険会社に出す診断書を書くときに少しばかりおまけをしてもらい、症状を大げさに書いてもらえばいい。

逸失利益とは、そもそも実際には起こらなかったことを想定した上で損失を計算するものであり、大前提としてそのようなものは妄想である。しかし、実証的な社会科学は、これを客観的に計算することは無理ではないという信仰の下に突き進んできた。被害者を苦しめるのは、この信仰の鈍感さである。時間は戻らず、死者は帰らず、現実のこの世はこのようでしかない。古来人間はそれを宿命と呼び、運命と呼んだ。犯罪被害者遺族の苦しみはここにある。例えば、50歳で殺された人は、51歳になることができない。しかし、ライプニッツ係数の算定とは、その人が67歳まで生きていた場合を想定するものである。生きていないがゆえに生きていると仮定する、仮定できないゆえに無理に仮定する、これは不可能を不可能と知った上で、命の重さを便宜的に金銭に換算する際にのみ必要な技術である。それは、資本主義、近代法という限られたシステムを維持するための必要悪以上のものではない。人の命はお金では買えない、この大前提を見落とすのは本末転倒である。

ライプニッツ係数の語源は、哲学者・数学者のゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz、1646-1716)である。ライプニッツの思想といえばモナド論と可能世界論が有名であり、後者は「現実に創造された世界が全ての可能世界の中で最善のものである」との理論である。現実の世界が最善であると思えるか否かはともかくとして、この世にタラレバはなく、この現実は無数の可能性があり得た中で唯一それでしかあり得ないという問題の所在を示しているのがライプニッツである。50歳で殺された人は絶対に67歳まで生きることができない、これがライプニッツの洞察であるが、ライプニッツ係数はこれを計算するための概念である。皮肉である。

池田晶子著 『考える日々Ⅱ』 より

2007-11-10 16:36:58 | 読書感想文
11月8日、佐賀県武雄市の病院で入院中の宮元洋さんが殺害された事件は、暴力団関係者と間違われた可能性が強まっている。人違いで殺されるという理不尽、その現実に直面して言葉を失う現実、この絶句以上の現実はない。しかしながら、この事件を刑法199条(殺人罪)という条文を通して見てしまうと、人間の純粋な絶句は確実に迷走し、なかなか元に戻ることが難しくなる。刑法の教科書においては、この問題は具体的事実の錯誤(同一構成要件内の錯誤)における客体の錯誤と呼ばれ、法定的符合説と具体的符合説のアカデミックな争いが続いている。刑法学は、この争いは「哲学的である」と自負しているようであるが、実際には哲学的でも何でもない。


『考える日々Ⅱ』  「批評活動の本物とニセモノ」より p.87~91の随所を変形して抜粋

専門の法律用語が噛み砕かれていないこと、書かれたものを見れば一目瞭然である。消化不良のまま吐き出された言葉は、妙な漢字の羅列になっているだけである。「具体的符合説によれば具体的事実の錯誤のうち方法の錯誤は故意を阻却するが客体の錯誤は故意を阻却しない」、これを普通の日本語で言ってみよ。尋ねて答えられないなら、知識として吸収されていないということだ。

法律家はこう述べるだろう。「思うに、故意責任の本質は、規範に直面しつつあえて犯罪行為に出るという直接的な反規範的人格態度に対する非難にある。そして、規範の問題は構成要件ごとに与えられているので、同一構成要件内であれば具体的事実に錯誤があっても、規範の問題に直面したといえるから、故意非難が可能と考える(判例同旨)」。さて、それでは、「彼はなぜ人違いで殺されなければならなかったのか」という親族からの質問に対して、あなたは逃げないで答えられますか。

人がものを考えるのは、それを知りたいという端的な欲求以外に動機はない。何しろ話は殺人罪、すなわち人間の死である。存在すること、生きて死ぬこと、これ以上の不思議があるか。存在を知るために考えるのなら、生きて死ぬ限りの誰にもできることである。何ゆえそれを法定的符合説と具体的符合説の対立と華々しく競って、多くの人に近づき難い議論をする必要があるのか。生きて死ぬ限りの人類が、数千年考え続けてきたそれである。最新判例やら近時の有力説なんぞでチャラチャラ変わってたまりますかね。

「判例によれば」「通説によれば」と出てきたら、まずそれはニセモノだと思って間違いない。哲学的な問題というのは、「考える」こと以外ではあり得ないのだから、誰それが言おうが言うまいが関係ないからである。

「逸失利益」という言葉 その1

2007-11-09 17:13:13 | 言語・論理・構造
犯罪被害に伴う損害を賠償しようとすれば、近代法および資本主義のシステムの下では、これを金銭に換算するしかない。このシステムが強固になると、単なる次善の策であることが忘れられ、その制度自体が絶対的なものに見えてくる。こうなると、言語ゲームの階層性は無限に細かくなる。それ自体を自己目的化した部分的言語ゲームは、「その犯罪被害は世界で1つの犯罪被害である」という何よりの現実を見落とし、現実的であると称されるところの専門技術を追求するようになる。そこでは、犯罪被害は事案ごとに分類され、ケースとして蓄積され、研究材料となる。

犯罪被害に伴う損害賠償の算定において、詳細な研究が進められ、専門家の間でも盛り上がっているのが「消極損害」をめぐる議論である。これは「休業損害」と「逸失利益」に分けられているが、この後者の逸失利益の計算が非常に難しく、悩ましい問題を生んでいる。そもそも実際には起こらなかったことを想像して計算するのだから、大前提としてそのようなものは無理に決まっている。「事故がなければこうなっているはずである」、「むしろこうなっていたはずではないか」との想像は無数に可能である上、双方の利害得失の問題もからみ、争いはいつまでも終わらない。しかしながら、社会科学の客観性と実証性への信頼は、あるべき唯一の逸失利益の額を模索して精密な議論を展開してきた。そして、この種の争いは根本的に解決することができるものと考えてきた。

例えば、24歳の大学院生の男性が交通事故に遭ってPTSDになった場合の逸失利益は、3,175,600 ×(35/100)×17.54591 という計算式で算出される。まず3,175,600円というのは、厚生労働省政策調査部をもとに日弁連の交通事故相談センターが作成した「賃金センサス」における平均年収額である。実際には、加害者側や保険会社から「被害者は能力が低く、事故がなくても昇進による昇給は望めない」などと主張され、大幅に減額されることが多い。次に35/100というのは、後遺障害別等級表において神経系統に障害を残した場合は第9級第10号に該当するものとされ、労働能力喪失率が35%と定められていることに基づくものである。これも単なる一般論であるから、個々の事故に応じて、加害者側や保険会社から「被害者のPTSDは軽く、働こうと思えば働ける」との主張がなされるのがお約束である。

最後に、17.54591というのは、43年間に対応するライプニッツ係数である。就労可能期間を67歳までとし、24歳で事故に遭ったとすれば、残りは43年間であるから、一見すれば年収と労働能力喪失分の積を単純に43倍すれば済む話である。しかしながら、資本主義とは「お金を持っている者は運用して増やすことができる」「他人に貸せば利子が取れる」というルールである。そうなると、43年分もの収入を前払いでもらうのは不当に得をしているという話になり、この期間の中間利息は控除すべきだという理論が確立してくる。かくして、年5%の利息を複利で差し引くことにより、17.54591という残酷な数字が出る。ちなみに、ライプニッツ係数による計算ではあまりに安すぎるということで、もう一つホフマン方式という計算方法も考えられているが、あまり使われていない。東京地裁がライプニッツ係数を採用すると宣言したことによって、全国の裁判所がそれに従ったからである。

(続く)

徳生祐著 『赤涙の果て』

2007-11-08 14:53:40 | 読書感想文
YAHOOのブログ検索で、「犯罪被害者」のキーワードで検索すると、だいたい上位6位までを占めているのが徳生祐氏のブログである(このブログはいつも7番目に表示される)。金銭欲、物欲、自己顕示欲、性欲、食欲の話題ばかりの情報化社会にあって、同氏のように答えの見えない問いに向かって真摯に苦闘している人物がいることは、なかなか頼もしいことである。それだけに、自費出版の文芸社による本書の取り扱いは非常にお粗末であり、自費出版トラブルが絶えないことの原因も見えてくる。

徳生氏がブログの中で苛立ちを込めて述べているように、このようなテーマの本は商業出版のベースに乗らない。恋愛小説、自己啓発、占い、ビジネスに関する軽い本がベストセラーになる中で、犯罪被害を扱った小説はまず売れない。哲学の本は、哲学の形を装った人生論や自己啓発、もしくは帰納法と演繹法を上手く使ってビジネスに役立てるといった本でなければ売れない。法律の本も、得する法律の知識や暮らしのトラブル解決に役立つものでなければ売れない。さらには犯罪を扱った小説も、推理小説やミステリーでなければ売れない。この点において、同氏の本はどれにも入っていない。犯罪被害に対する世論の関心は高い水準を保ち続けているが、このような本を買って読もうという人々の層は、非常に限られている。

一見して答えの見えない哲学的な問いは、その内容そのものよりも、それを表現す方法をめぐって苦しまれる。徳生氏はその中でも小説という方法を取っており、その試みの方向は一応成功しているように思われる。苦しみの中から言語を絞り出している様子は、わかる人にはわかるだろう。しかしながら、この情報化社会において反響を起こすことは並大抵のことではない。同氏はブログの中で、「小さな反響も無く、現実の厳しさを味わっています」、「私のこの国に対する思いをぶつけています。現実は、ほとんどぶつかっていないようです。無名ということがひしひしと私の体にのしかかってきます」などと述べているが、実際にそのとおりであるとしか言いようがない。

「残虐な事件をなくすにはどうすればよいのか」、「被害者や遺族に仇討ちの権利を認めるべきか」、この手の質問は答えが出ない。徳生氏はこの難問に正面から挑んでいるが、この本の初版から2年、未だ答えが出ていないようである。ここで、問いの裏側に回れば、事態は一気に動き出す。「残虐な事件をなくすにはどうすればよいのか」、「被害者や遺族に仇討ちの権利を認めるべきか」、この答えは簡単すぎる。簡単すぎる解をそれでも維持できない点が難しいのであって、この手の議論があった場合、簡単すぎる解に気付いているかいないかによって話はずいぶんと変わってくる。同氏がこのスタートラインに立つことにより、それが第2弾の小説として結実し、反響を起こすことを大いに期待する。

理屈どおりには行かない

2007-11-07 17:55:39 | 言語・論理・構造
その1 福田首相と小沢代表の阿吽の呼吸
自民党と民主党の連立を先に持ちかけたのはどちらか。一国の首相から「阿吽の呼吸」と言われれば、激怒する人はするだろうが、これは言語表現として非常に正確である。実際に、それ以上進みようがないならば進みようがない。何でもかんでも精密に調べれば5W1Hが確定できるはずだという科学主義信仰は、現実には行き詰まっている。特に刑事裁判の共同共謀正犯の事件では、何時何分という単位での一言一句の再現が問題とされ、多数の被告人の供述の間でズレが生じて大騒ぎになることが多い。しかし、阿吽の呼吸の証明を試みるのは野暮であり、裁判が長引くだけである。

その2 民主党・小沢代表の辞意撤回
小沢代表が辞意を表明したときに「無責任だ」と怒った人は、小沢代表が辞意を撤回したというニュースを聞いて、「責任感がある」と再評価する気になったのか。これは多くの人にとっては無理である。そうであれば、何を求めて怒っていたのか。そもそも最初に辞意を表明したことに対して怒っているのであれば、それは単に怒りたいから怒っているというだけの話であって、何か生産性のある行為に結び付くものではない。これが政治的なオピニオンの内実である。自民党を支持するか民主党を支持するかの違いは、巨人を応援するか阪神を応援するかの違い以上に好みの問題であり、主観的である。

その3 池袋パルコ飛び降り自殺の巻き添え
巻き添えを食った男性に同情が集まれば、死にたいならば自宅で首を吊ればいいという文法が主流になる。それでは、年間3万人を超える自殺者への対策、8階建てのビルの屋上から落ちる瞬間の女性の心境、最愛の娘を亡くすと同時に無関係な人を巻き込んでしまった遺族の心境、これらの文法はどこにあるのか。そんなものはどこにもない、これが正解である。語られないものは存在しない。「マスコミは多角的な視点を提供しない」と言って批判していれば楽であるが、実際の問題はもっと恐ろしいところにある。

その4 福岡市東区・飲酒運転死亡事故で懲役25年を求刑
昨年8月に幼児3人が死亡した事故で、危険運転致死傷罪などに問われた今林大被告(23歳)に対する論告求刑公判があり、検察側は最高刑の懲役25年を求刑した。このニュースを見て誰もが反射的に考えてしまうのが、23+25=48 という計算である。そして、一瞬は今林被告の身になって、そのような人生を送ることの絶望を想像してしまう。その後、多くの人は4歳・3歳・1歳で人生を終えた子どもの存在を思い出すであろうが、思い出さない人は厳罰化反対のイデオロギーに陥る。哲学的な自問自答を経ない刑罰論は不毛である。

中嶋博行著 『この国が忘れていた正義』 プロローグより

2007-11-06 10:36:49 | 読書感想文
プロローグ 女性検事の「大腿」事件 正義はこうして実現した

平成16年12月7日、JR中央線の国分寺駅から武蔵小金井駅の電車内で、有名大学の硬式野球部員5人が集団で女性会社員に痴漢をして逮捕されるという事件があった。被害者からすれば、何よりも5人の大柄な男性に囲まれた恐怖が最大の問題であって、声を上げられなかったのも、その後のトラウマも、この点を抜きにしては語りようがない。マスコミも当初は、5人の男性に囲まれるのがどのような恐怖か、女性の視線に立ってそれを再現していた。ところが、結局は主犯格として実際に女性の下半身を触っていた学生のみが起訴され、周りで取り囲んでいた残りの4人は処分保留で起訴することができなかった。これも、日常言語による写像を強引に専門用語による写像に変換するという言語ゲームの階層性のひずみが見事に表れた例である。

なぜ検察は残りの4人を起訴できなかったのか。それは、警戒中の私服警察官が犯行を見つけた時に、早く取り押さえすぎたからである。部分的言語ゲームにおいては、事件は現場ではなく法廷で起きている。すべての物証は証拠物として法廷に持ち込まれ、すべての目撃者の記憶は証言として法廷に持ち込まれる。被告人が構成要件に該当する行為をしたか否か、それを決めるだけの手続が裁判である。従って、すべては証拠が確保されて立証できるかという観点から逆算されなければならなかった。しかし警察官は、4人の具体的な共謀の会話を確認する前に、あるいは4人で女性を触り始める前に、主犯格の学生を取り押さえてしまった。これを捜査ミスだと言ってしまえば、警察官でありながら早急に女性を救出しないことが正しいということになってしまい、進退きわまった状態となる。法治国家の弱点が明らかにされ、実に後味の悪い結末であった。

痴漢を確実に逮捕するためには、女性はしばらく触られ続けなければならない。この結論を大真面目で正当化するのが言語ゲームの階層性である。法治国家からすれば、最大の真理は法律の条文であって、すべては条文との対応で捉えられる。法曹界を二分した争いとして、「スカートの内外論争」というものがあった。強制わいせつ罪(刑法176条)が成立するためには、スカートの中に手を入れることが必要か否かという論争である。この論争は、罪刑法定主義の根幹である刑罰の明確性にかかわるものであり、「実行行為」と「実行の着手」とを分けて考える近時の有力説まであって、専門家にとっては非常に知的好奇心を刺激する問題であった。ここまで来てしまうと、もはや法律家には犯罪被害者の存在は目に入らない。部分的言語ゲームの条文の主語はいつでも加害者であって、被害者は受動態でのみ登場するにすぎない。このような言葉が世界を作れば、世界はそのように見えてくる。

「スカートの内外論争」が起きたのは、この世には都道府県迷惑防止条例違反が何らかの実体として存在し、さらに強制わいせつ罪が何らかの実体として存在する、法体系においてこのようなイメージが確立していたからである。そして、痴漢が女性の大腿を触った時点で迷惑防止条例違反が成立し、さらにスカートの中に手を入れた時点で強制わいせつ罪が成立する、この時間の流れの存在を信じていたからである。こうなってくると、痴漢を重く罰するためにはスカートの中に手を入れられるまで待たなければならないという結論が非の打ちどころのないものとして必然的に導かれてくる。閉鎖的な部分的言語ゲームの中では、このバカバカしさを自ら解消する方法はない。バカバカしいと認めてしまえば、壮大かつ厳密な体系に蟻の一穴が開くからである。

逆転の理屈の要請

2007-11-05 12:39:36 | 言語・論理・構造
従来の業務上過失致死罪(最高刑は懲役5年)の特別法として、自動車運転過失致死罪(最高刑は懲役7年)が新設される契機となったのが、昨年の9月25日、埼玉県川口市で起きた大事故である。保育園児の列に乗用車が突っ込み、園児4人が死亡し、17人が負傷した。乗用車を運転していた伊澤英行被告については、当時の業務上過失致死の罪では最高となる懲役5年の刑がすでに確定している。遺族らは、事故の責任追及を終わらせたくないとして、現在も伊澤被告らに対しておよそ2億6000万円の損害賠償を求めている。

この事故の後に問題となったのが、危険運転致死罪の適用範囲の狭さであった。被告人は、40キロ以上のスピードで住宅街の細い道を走り、カセットテープを入れ替えるために脇見をし、41人もの人間の行列を見落としている。これが「危険運転」ではなくて何が危険運転かというのが普通の人間の第一印象であるが、近代刑法の罪刑法定主義は、このような「素人の戯言」には耳を貸さない。その後、遺族らが検察官に対して何回も危険運転致死罪(最高刑は懲役20年)での起訴を要請したにもかかわらず、両者の話し合いは全く噛み合わず、結果として被告人は業務上過失致死罪で起訴されるしかなかった。これも、言語ゲームの階層性が如実に表れた例である。

法律家である検察官としては、構成要件に該当しないならば該当しないという話であって、それ以上どうしようもないとういうのが部分的言語ゲームのルールである。これは、2+3=6である、5×7=38であると言えば嘘になるのと同じレベルである。危険運転致死罪に該当するためには、飲酒運転、幅寄せや割り込み、信号無視などの要件が充足されていなければならない。唯一、「スピードの出しすぎによる制御技能の欠缺」という要件に引っかかりそうではあるが、これも法制化の過程で制限速度を50キロ以上オーバーした場合とされており、この事故の場合にはあてはまらないものとされた。

検察官もその職務を離れれば1次的言語ゲームのルールを遂行している以上、遺族の厳罰への要請は、人間として当然理解できる。しかしながら、部分的言語ゲームを厳密に遂行するという職責を負った以上は、これを1人の人間として理解してはいけない。部分的言語ゲームにおいては、人間の生命よりも体系の維持のほうが重要だからである。近代刑法の原則の維持は、今も昔も、ある意味で世論の常識との衝突である。厳密であるべき刑事法の法解釈につき、事件の悲惨さに影響されて解釈を緩めることは、理性の対極にある「心情刑法」であるとして揶揄されてきた。「大事件は悪法を作る」という言い回しもある。

この言語ゲームの階層性、部分的言語ゲームの閉鎖性が、思わぬ方向での人間の心情を生み出す。それは、「せめて被告人が飲酒運転をしていたならば、被告人を20年の実刑にすることができたのに」という心情である。もちろん危険運転致死罪創設のきっかけは平成11年の東名高速における飲酒追突事故であり、飲酒運転撲滅の要請は絶対的であって、被告人に飲酒を求めるのは本末転倒である。しかしながら、園児はこれから70年、80年の人生を生きていたはずなのに、被告人はたったの5年で刑務所から出てくるのか、せめて20年は実刑に服してほしいという遺族の意志からすれば、どうしても論理的にはそのようにつながってしまう。被告人が飲酒をしていたか否かによって法律上15年の刑期の差が出るのは、紛れもない事実だからである。これが、言語ゲームの階層性による逆転の理屈の要請である。

日弁連交通事故相談センター東京支部編 『民事交通事故訴訟損害賠償額算定基準』

2007-11-04 17:18:19 | 読書感想文
現代社会では交通事故が日常茶飯事である。それゆえに、事後処理の技術的な理論は細分化し、その煩雑さが被害者の2次的被害を人為的に生み出している。ただでさえ複雑でわかりにくい計算式が、事故直後の異常な精神状態に置かれた人間に容易に理解できるわけがない。かくして、当の加害者と被害者はそっちのけで、代理人弁護士と保険屋との交渉ばかりが主流となる。これも言語ゲームの階層性の例証である。部分的言語ゲームは自らを自己目的化し、その存在確認のためにさらなる細分化を指向する。議論のスケールは小さくなり、当事者から見れば疎外感が残り、「木を見て森を見ず」との印象を残すことになる。

弁護士や保険会社の社員は誰しも知っており、かつそれ以外の国民はほとんど知らない種類の本として、「赤い本・青い本」というものがある。いずれも日弁連の交通事故相談センターの編集によるものであり、赤い本の正式名称は『民事交通事故訴訟損害賠償額算定基準』、青い本の正式名称は『交通事故損害額算定基準』という。最初から最後まで計算式や数字の一覧表が並んでいて、法律というよりも数学や経済学の本に近く、完全に好き嫌いが分かれる種類のものである。ただ、少なくとも弁護士や保険会社は、この本を使いこなせなければ仕事にならない。

交通事故に伴う損害賠償のうち、「積極損害」の項目は、専門知識がなくても何とか計算できる。例えば、ケガの場合には入院費・治療費・通院費などであり、死亡事故の場合には葬儀費用・遺体搬送料などである。この金額の算出においては、特に難しい計算式は必要ない。本来ならば加害者が支払うべきものを被害者が立て替えているという話であり、領収書を1枚1枚集めて、それを粛々と足していけばよい。ただ、残酷な運命、取り返しのつかない現実、決して戻らない時間という哲学的難問に直面しつつ、心身ともに疲れ果てた状態に置かれながら、決められた定型の書式に合わせて領収書を1枚1枚紙に貼ったり一覧表を作ったりすることは、通常の人間にはかなり苦しい作業である。ここで代理人弁護士の需要が生じることになる。すなわち、被害者としてはまた多額の費用がかかる。

技術の発達による専門知識の増加は、専門用語による細分化を生み、新たな職業、新たな頭脳労働の需要を生んだ。そして、その高い専門性が高い収入に結び付くと、その構造はますます強固になる。これが言語ゲームの階層性の負の面である。哲学的な問題を含んでいる事項についても、専門用語はその問題を問題として捉えることができない。そして、その根本は置き去りにされるどころか、非現実的で役に立たない問題設定であるとして見下される。しかしながら、どんな事故であっても、それぞれが世界でたった1つの事故であること、それに遭った本人には世界でたった1つの苦しみがあること、この現実は絶対に消しようがない。現実を非現実的であると信じ込み、非現実を現実であると信じ込んでいるならば、人間は専門知識によって賢くなっているのか馬鹿になっているのかよくわからない。

おめでとうございました

2007-11-03 11:01:37 | 言語・論理・構造
日本語ブームが続いているらしい。これからは日本人も世界公用語である英語を小学生から必修にするのではなかったのか、狭い日本語などに深く関わっていれば世界から後れを取るのではないかといった議論は、とりあえず別の話であるらしい。『声に出して読みたい日本語』『問題な日本語』をはじめとして、『日本語練習帳』『ホンモノの日本語を話していますか?』などの本が目につく。NHKの梅津正樹アナウンサーが「ことばおじさん」として人気を博しており、普段何気なく使っている言葉の語源や、新語に対する違和感の理由をわかりやすく説明してくれている。

「おざなり」と「なおざり」はどこが違うのか。「こちらコーヒーになります」、「ドアを閉めさせていただきます」と言われると、どこかが変だと感じてしまうのはなぜか。このような点を指摘されると、確かに面白い。知っていたようで知らなかったことばかりであり、目から鱗が落ちるような気がする。しかし、これは「当たり前のことを疑う」という哲学的懐疑と似ているが、実際には全く懐疑というレベルではない。これは、一言で言えば、その懐疑が人間の生死から逆算されていないという点に尽きる。

「おめでとうございました」という表現について、日本語ブームの中で色々と分析されている。「明けましておめでとうございました」は変である。しかし、数か月も経った後で祝辞を伝えるような場合には、「おめでとうございます」では変なのではないか。そうかといって、過去形を使えば「今はもう喜んでいないのか」と思われてしまうのではないか。ああでもない、こうでもないと、この種の議論は尽きない。ちなみに、「おめでとうございました」という表現に違和感があると答えた人の割合は、あるところでは54%で、別のところでは78%であったとのことである。また、東北地方や四国地方では違和感を持つ人が少なく、関東地方では多いという調査結果も出ているらしい。

これらの議論は、ソシュールの言語論的転回を経て、さらにラング(言語共同体における社会的規約の体系としての言語)とパロール(文字を象らない音声的な言語)の差異を通してみれば、そもそも問題の設定自体が問題であることがわかる。パロールによって「おめでとうございました」と語ったのであれば、語った本人にとっては、そのように思っているという以外のものではない。少なくとも、「ういめとごおたまでざし」とは語っていない。違和感は、いつでもラングであるところの社会的規約の体系によって後からもたらされるものである。人間は、自ら事前に違和感を持つ言葉を、瞬間的にパロールとして語ることができない。人間は言葉に使われている。

日本語ブームが起きたのは、「言葉は変化する」という当たり前の命題を指摘されたことによって、目から鱗が落ちたと感じる人が多かったからである。しかしながら、言語論的転回を経ずに言葉の変化を外側に立って眺めている限り、無意識にメタの構造を用いつつ、それを見落とすことになる。「ら抜き言葉」は言葉の「変化」か「乱れ」かという争いに決着がつかなかったのも、「変化」や「乱れ」そのものが言葉であることを見落としていたからである。初めに言葉ありき、言葉そのものが言葉である。従って、変化だと思えばそれは変化であり、乱れだと思えばそれは乱れである。議論しても永久に答えは出ない。

渡辺洋三著 『法を学ぶ』

2007-11-02 21:19:20 | 読書感想文
被害者が裁判を傍聴した際の体験談としては、専門用語ばかりで何をやっているのかわからない、まるで別の世界のようである、疎外されているようだ、といったものが非常に多い。裁判官を初めとする法律家も同じ人間であるはずなのに、どうにも人間が話しているように聞こえない。被害者遺族が「遺影を持ち込みたい」という意思を表明したとなれば、あっという間に「公平な裁判」「法廷の秩序」といった概念が飛び出し、近代刑法の大原則まで登場して大騒ぎになり、純粋な死者への思いは跡形もなく変形される。

なぜこのようなギャップが生じているのか。これは、現在の法曹界の中心として活躍している人達の常識を見てみればわかる。そして、その思想のバックボーンを見てみればわかる。渡辺氏の『法を学ぶ』は、かつては法学部生の最適の入門書と言われており、多くの法律家が一度は読んだことがある本である。法律の世界に足を踏み入れた人が最初のスタートにおいてこの本を読めば、世界がそのように見えてしまう。次の引用部分では人間の生死が扱われているが、どうにも生身の人間の姿が見えない。殺人事件や自動車運転過失致死事件の遺族が裁判所に傍聴に来て、人間の生死にかかわる問いの答えを求めようとしても、多くの場合には期待が裏切られる理由がよくわかる。


p.7~ 変形して抜粋

民法第1条の「私権の享有は出生に始まる」という条文で、「出生」とは論理的にどういう意味であるか。民法の場合には、「出生」によって人間としての権利能力を有し、たとえば「出生」の瞬間に、相続により何百万円の財産を取得することができる。「全部露出説」をとれば、胎児が母体から離れた瞬間には生きていたが、そのあとにすぐ死んだ場合、論理的にはその子は一度生まれて財産を取得したうえで、あらためてその子の死亡により新しく相続が開始することになる。これに反し、胎児が母体から一部出たときにはまだ生きていても、母体から全部出た瞬間に死んでいれば(死産)、そもそも初めから子はいなかったのと同じことになり、相続の問題も生じないのである。このように一度生まれてすぐ死んだのか、それとも死んだ状態で生まれたのかによって、相続の権利関係は全く異なった結果となる。

p.11~ 変形して抜粋

法律学を学ぶ者には、頭の中で、こういう場合にはどうする、ああいう場合にはどうするという論理的空想力ともいうべき素質が必要であるし、またそういう素質を身に付けられるような修練を積まなければならない。その意味では、法律学の勉強は、一種の知的パズルといってもよい。数学や論理学の好きな人は法律学もまた好きになれる素質があるのではなかろうか。逆に論理的な抽象的思考能力が不得手な人には法律学は向いていないのではなかろうか。論理的思考能力があり、抽象的論理の展開が面白くなり、パズルを解いたときのような爽快さを味わって法の論理学にのめりこんでゆくタイプの学生には、法律学が向いているのである。