犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

おめでとうございました

2007-11-03 11:01:37 | 言語・論理・構造
日本語ブームが続いているらしい。これからは日本人も世界公用語である英語を小学生から必修にするのではなかったのか、狭い日本語などに深く関わっていれば世界から後れを取るのではないかといった議論は、とりあえず別の話であるらしい。『声に出して読みたい日本語』『問題な日本語』をはじめとして、『日本語練習帳』『ホンモノの日本語を話していますか?』などの本が目につく。NHKの梅津正樹アナウンサーが「ことばおじさん」として人気を博しており、普段何気なく使っている言葉の語源や、新語に対する違和感の理由をわかりやすく説明してくれている。

「おざなり」と「なおざり」はどこが違うのか。「こちらコーヒーになります」、「ドアを閉めさせていただきます」と言われると、どこかが変だと感じてしまうのはなぜか。このような点を指摘されると、確かに面白い。知っていたようで知らなかったことばかりであり、目から鱗が落ちるような気がする。しかし、これは「当たり前のことを疑う」という哲学的懐疑と似ているが、実際には全く懐疑というレベルではない。これは、一言で言えば、その懐疑が人間の生死から逆算されていないという点に尽きる。

「おめでとうございました」という表現について、日本語ブームの中で色々と分析されている。「明けましておめでとうございました」は変である。しかし、数か月も経った後で祝辞を伝えるような場合には、「おめでとうございます」では変なのではないか。そうかといって、過去形を使えば「今はもう喜んでいないのか」と思われてしまうのではないか。ああでもない、こうでもないと、この種の議論は尽きない。ちなみに、「おめでとうございました」という表現に違和感があると答えた人の割合は、あるところでは54%で、別のところでは78%であったとのことである。また、東北地方や四国地方では違和感を持つ人が少なく、関東地方では多いという調査結果も出ているらしい。

これらの議論は、ソシュールの言語論的転回を経て、さらにラング(言語共同体における社会的規約の体系としての言語)とパロール(文字を象らない音声的な言語)の差異を通してみれば、そもそも問題の設定自体が問題であることがわかる。パロールによって「おめでとうございました」と語ったのであれば、語った本人にとっては、そのように思っているという以外のものではない。少なくとも、「ういめとごおたまでざし」とは語っていない。違和感は、いつでもラングであるところの社会的規約の体系によって後からもたらされるものである。人間は、自ら事前に違和感を持つ言葉を、瞬間的にパロールとして語ることができない。人間は言葉に使われている。

日本語ブームが起きたのは、「言葉は変化する」という当たり前の命題を指摘されたことによって、目から鱗が落ちたと感じる人が多かったからである。しかしながら、言語論的転回を経ずに言葉の変化を外側に立って眺めている限り、無意識にメタの構造を用いつつ、それを見落とすことになる。「ら抜き言葉」は言葉の「変化」か「乱れ」かという争いに決着がつかなかったのも、「変化」や「乱れ」そのものが言葉であることを見落としていたからである。初めに言葉ありき、言葉そのものが言葉である。従って、変化だと思えばそれは変化であり、乱れだと思えばそれは乱れである。議論しても永久に答えは出ない。

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