犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

逆転の理屈の要請

2007-11-05 12:39:36 | 言語・論理・構造
従来の業務上過失致死罪(最高刑は懲役5年)の特別法として、自動車運転過失致死罪(最高刑は懲役7年)が新設される契機となったのが、昨年の9月25日、埼玉県川口市で起きた大事故である。保育園児の列に乗用車が突っ込み、園児4人が死亡し、17人が負傷した。乗用車を運転していた伊澤英行被告については、当時の業務上過失致死の罪では最高となる懲役5年の刑がすでに確定している。遺族らは、事故の責任追及を終わらせたくないとして、現在も伊澤被告らに対しておよそ2億6000万円の損害賠償を求めている。

この事故の後に問題となったのが、危険運転致死罪の適用範囲の狭さであった。被告人は、40キロ以上のスピードで住宅街の細い道を走り、カセットテープを入れ替えるために脇見をし、41人もの人間の行列を見落としている。これが「危険運転」ではなくて何が危険運転かというのが普通の人間の第一印象であるが、近代刑法の罪刑法定主義は、このような「素人の戯言」には耳を貸さない。その後、遺族らが検察官に対して何回も危険運転致死罪(最高刑は懲役20年)での起訴を要請したにもかかわらず、両者の話し合いは全く噛み合わず、結果として被告人は業務上過失致死罪で起訴されるしかなかった。これも、言語ゲームの階層性が如実に表れた例である。

法律家である検察官としては、構成要件に該当しないならば該当しないという話であって、それ以上どうしようもないとういうのが部分的言語ゲームのルールである。これは、2+3=6である、5×7=38であると言えば嘘になるのと同じレベルである。危険運転致死罪に該当するためには、飲酒運転、幅寄せや割り込み、信号無視などの要件が充足されていなければならない。唯一、「スピードの出しすぎによる制御技能の欠缺」という要件に引っかかりそうではあるが、これも法制化の過程で制限速度を50キロ以上オーバーした場合とされており、この事故の場合にはあてはまらないものとされた。

検察官もその職務を離れれば1次的言語ゲームのルールを遂行している以上、遺族の厳罰への要請は、人間として当然理解できる。しかしながら、部分的言語ゲームを厳密に遂行するという職責を負った以上は、これを1人の人間として理解してはいけない。部分的言語ゲームにおいては、人間の生命よりも体系の維持のほうが重要だからである。近代刑法の原則の維持は、今も昔も、ある意味で世論の常識との衝突である。厳密であるべき刑事法の法解釈につき、事件の悲惨さに影響されて解釈を緩めることは、理性の対極にある「心情刑法」であるとして揶揄されてきた。「大事件は悪法を作る」という言い回しもある。

この言語ゲームの階層性、部分的言語ゲームの閉鎖性が、思わぬ方向での人間の心情を生み出す。それは、「せめて被告人が飲酒運転をしていたならば、被告人を20年の実刑にすることができたのに」という心情である。もちろん危険運転致死罪創設のきっかけは平成11年の東名高速における飲酒追突事故であり、飲酒運転撲滅の要請は絶対的であって、被告人に飲酒を求めるのは本末転倒である。しかしながら、園児はこれから70年、80年の人生を生きていたはずなのに、被告人はたったの5年で刑務所から出てくるのか、せめて20年は実刑に服してほしいという遺族の意志からすれば、どうしても論理的にはそのようにつながってしまう。被告人が飲酒をしていたか否かによって法律上15年の刑期の差が出るのは、紛れもない事実だからである。これが、言語ゲームの階層性による逆転の理屈の要請である。