犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

理屈どおりには行かない

2007-11-07 17:55:39 | 言語・論理・構造
その1 福田首相と小沢代表の阿吽の呼吸
自民党と民主党の連立を先に持ちかけたのはどちらか。一国の首相から「阿吽の呼吸」と言われれば、激怒する人はするだろうが、これは言語表現として非常に正確である。実際に、それ以上進みようがないならば進みようがない。何でもかんでも精密に調べれば5W1Hが確定できるはずだという科学主義信仰は、現実には行き詰まっている。特に刑事裁判の共同共謀正犯の事件では、何時何分という単位での一言一句の再現が問題とされ、多数の被告人の供述の間でズレが生じて大騒ぎになることが多い。しかし、阿吽の呼吸の証明を試みるのは野暮であり、裁判が長引くだけである。

その2 民主党・小沢代表の辞意撤回
小沢代表が辞意を表明したときに「無責任だ」と怒った人は、小沢代表が辞意を撤回したというニュースを聞いて、「責任感がある」と再評価する気になったのか。これは多くの人にとっては無理である。そうであれば、何を求めて怒っていたのか。そもそも最初に辞意を表明したことに対して怒っているのであれば、それは単に怒りたいから怒っているというだけの話であって、何か生産性のある行為に結び付くものではない。これが政治的なオピニオンの内実である。自民党を支持するか民主党を支持するかの違いは、巨人を応援するか阪神を応援するかの違い以上に好みの問題であり、主観的である。

その3 池袋パルコ飛び降り自殺の巻き添え
巻き添えを食った男性に同情が集まれば、死にたいならば自宅で首を吊ればいいという文法が主流になる。それでは、年間3万人を超える自殺者への対策、8階建てのビルの屋上から落ちる瞬間の女性の心境、最愛の娘を亡くすと同時に無関係な人を巻き込んでしまった遺族の心境、これらの文法はどこにあるのか。そんなものはどこにもない、これが正解である。語られないものは存在しない。「マスコミは多角的な視点を提供しない」と言って批判していれば楽であるが、実際の問題はもっと恐ろしいところにある。

その4 福岡市東区・飲酒運転死亡事故で懲役25年を求刑
昨年8月に幼児3人が死亡した事故で、危険運転致死傷罪などに問われた今林大被告(23歳)に対する論告求刑公判があり、検察側は最高刑の懲役25年を求刑した。このニュースを見て誰もが反射的に考えてしまうのが、23+25=48 という計算である。そして、一瞬は今林被告の身になって、そのような人生を送ることの絶望を想像してしまう。その後、多くの人は4歳・3歳・1歳で人生を終えた子どもの存在を思い出すであろうが、思い出さない人は厳罰化反対のイデオロギーに陥る。哲学的な自問自答を経ない刑罰論は不毛である。