犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中嶋博行著 『この国が忘れていた正義』 第1章

2007-11-20 13:57:22 | 読書感想文
第1章 国家プロジェクト「快楽殺人者の更生計画」

近代法の刑事司法の原点は、被害者の復讐感情を代行する「応報刑」ではなく、責任原理と犯罪者の改善更生・社会復帰を目的とする「教育刑」にある。そして、それは人類が歴史の苦い経験の中から試行錯誤を経て獲得した真理である。これは、人権尊重国家に生きる者にとっては疑い得ない常識であり、すべての大前提であるとされている。それでは、この疑い得ない常識を疑うことはできないのか。なぜ地球上の人類は、20世紀までが苦い経験を積み重ねる試行錯誤の時期であり、よりによって20世紀に永久の真理を発見し、そこから後は人類の滅亡に至るまで20世紀の人間の考えたことに従わなければならないのか。哲学的思考が揚げ足を取りたくなるのは、何よりも形而下的な現在の絶対性である。

神戸市児童連続殺傷事件の少年Aこと酒鬼薔薇聖斗は、少年法によって堅く守られ、その更生に全力が注がれた。しかしながら、現行法の建前はどうであれ、哲学的思考としては、「なぜ彼を更生させなければならないのか」という問いを突き詰めることができる。更生しようがしまいが、死者は戻らないではないか。殺人者であれば、少年であるかにかかわらず、命をもって償うほかないのではないか。更生が償いにならないのであれば、単なる現行法上の仮の選択肢として採用しているのみであり、次善の策ではないのか。このような疑問を封殺し、更生先にありきの結論を絶対視するイデオロギーは、生死を扱いつつ、生死を正面から見据えていない。

殺人事件とは、生死に関する問題が最も純粋な形で現れたものである。それは、在るものは在り、無いものは無いという存在論と切り離すことができず、生死に対する感受性は、存在に関する感受性そのものである。生は生であり、死は死である。ここに少年法における改善更生・社会復帰という理屈が混入すると、単純な存在論的な問いは一気に面倒臭くなる。1人の人間としての素朴な疑問を法律家がわざわざややこしく説明して、それで収集がつかなくなるというお決まりの構図である。さらには心理学者や教育学者がテクニカルタームの洪水の中で評論を繰り返し、ますます物事を難しくする。そこで完全に忘れ去られるのが、「自分が死ぬ」という当たり前の事実である。生死に関する問題を論じる以上、このごく当たり前の事実を見失えば、その議論はどこか物足りない。

仮に少年Aこと酒鬼薔薇聖斗が再犯し、その事実が公になったような場合には、世論はまた大騒ぎになる。厳罰派は、「だから更生など無理だったのだ」と鬼の首でも取ったように怒りながら喜び、その隠しきれない喜びが遺族を傷つける。人権派は、「そもそも最初に顔写真を掲載した雑誌が彼の更生を妨げたことに原因がある」、「本人は社会復帰をしようとしたが周囲の無理解に原因がある」といった無理な理屈を持ち出す。政治的なイデオロギーでは、およそこのあたりが限界である。哲学的には、次のように問われねばならない。少年Aこと酒鬼薔薇聖斗は、更生しようがしまいが、いずれ病気か何かで死ぬ。さて、彼が更生せずに死んだとき、あるいは更生して死んだとき、彼に殺された2人の人間の人生にはどのような意味があったのか。