犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中嶋博行著 『この国が忘れていた正義』 プロローグより

2007-11-06 10:36:49 | 読書感想文
プロローグ 女性検事の「大腿」事件 正義はこうして実現した

平成16年12月7日、JR中央線の国分寺駅から武蔵小金井駅の電車内で、有名大学の硬式野球部員5人が集団で女性会社員に痴漢をして逮捕されるという事件があった。被害者からすれば、何よりも5人の大柄な男性に囲まれた恐怖が最大の問題であって、声を上げられなかったのも、その後のトラウマも、この点を抜きにしては語りようがない。マスコミも当初は、5人の男性に囲まれるのがどのような恐怖か、女性の視線に立ってそれを再現していた。ところが、結局は主犯格として実際に女性の下半身を触っていた学生のみが起訴され、周りで取り囲んでいた残りの4人は処分保留で起訴することができなかった。これも、日常言語による写像を強引に専門用語による写像に変換するという言語ゲームの階層性のひずみが見事に表れた例である。

なぜ検察は残りの4人を起訴できなかったのか。それは、警戒中の私服警察官が犯行を見つけた時に、早く取り押さえすぎたからである。部分的言語ゲームにおいては、事件は現場ではなく法廷で起きている。すべての物証は証拠物として法廷に持ち込まれ、すべての目撃者の記憶は証言として法廷に持ち込まれる。被告人が構成要件に該当する行為をしたか否か、それを決めるだけの手続が裁判である。従って、すべては証拠が確保されて立証できるかという観点から逆算されなければならなかった。しかし警察官は、4人の具体的な共謀の会話を確認する前に、あるいは4人で女性を触り始める前に、主犯格の学生を取り押さえてしまった。これを捜査ミスだと言ってしまえば、警察官でありながら早急に女性を救出しないことが正しいということになってしまい、進退きわまった状態となる。法治国家の弱点が明らかにされ、実に後味の悪い結末であった。

痴漢を確実に逮捕するためには、女性はしばらく触られ続けなければならない。この結論を大真面目で正当化するのが言語ゲームの階層性である。法治国家からすれば、最大の真理は法律の条文であって、すべては条文との対応で捉えられる。法曹界を二分した争いとして、「スカートの内外論争」というものがあった。強制わいせつ罪(刑法176条)が成立するためには、スカートの中に手を入れることが必要か否かという論争である。この論争は、罪刑法定主義の根幹である刑罰の明確性にかかわるものであり、「実行行為」と「実行の着手」とを分けて考える近時の有力説まであって、専門家にとっては非常に知的好奇心を刺激する問題であった。ここまで来てしまうと、もはや法律家には犯罪被害者の存在は目に入らない。部分的言語ゲームの条文の主語はいつでも加害者であって、被害者は受動態でのみ登場するにすぎない。このような言葉が世界を作れば、世界はそのように見えてくる。

「スカートの内外論争」が起きたのは、この世には都道府県迷惑防止条例違反が何らかの実体として存在し、さらに強制わいせつ罪が何らかの実体として存在する、法体系においてこのようなイメージが確立していたからである。そして、痴漢が女性の大腿を触った時点で迷惑防止条例違反が成立し、さらにスカートの中に手を入れた時点で強制わいせつ罪が成立する、この時間の流れの存在を信じていたからである。こうなってくると、痴漢を重く罰するためにはスカートの中に手を入れられるまで待たなければならないという結論が非の打ちどころのないものとして必然的に導かれてくる。閉鎖的な部分的言語ゲームの中では、このバカバカしさを自ら解消する方法はない。バカバカしいと認めてしまえば、壮大かつ厳密な体系に蟻の一穴が開くからである。