犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

条文はどこにあるのか

2007-11-15 15:28:38 | 言語・論理・構造
条文とは一体どこにあるのか。普通の人は、「六法全書の中にあるに決まっている」と答えるだろう。もちろんその通りである。しかし、六法全書は法律ではない。六法全書は紙の上にインクが印刷された物質であり、条文そのものではない。条文は言葉であるが、言葉は紙やインクといった物質ではない。普通の人が生活する分には、そんな小難しいことを考えなくても一向に構わない。しかしながら、言葉を扱うプロであるはずの法律家が条文が言葉であることを忘れるとなれば、これはスタートが間違っており、その後が全部狂うことになる。

法律学のパラダイムでは、条文の拡大解釈や縮小解釈、反対解釈や類推解釈という技術を駆使して、条文の客観性を維持しようとする。そして、罪刑法定主義を大原則とする近代刑法においては、拡大解釈は許されるが類推解釈は許されないとされる。それでは、一体拡大解釈と類推解釈はどのように区別できるのか。このように問われるならば、紙とインクは何も答えることができない。言葉は物質ではないからである。

条文の世界は部分的言語ゲームであり、その中に入り込んでしまった人間は、条文を通してしか人間存在を見ることができなくなる。万引きやひったくり、スリや置き引きなどのこの世の現象は、すべて刑法235条の窃盗罪として罰せられるが、刑法235条の窃盗罪が「成立している」わけではない。条文は物質ではなく、言語である。犯行に着手すれば未遂となり、いずれ既遂に移るという時間的な流れは、現実にこの世に「成立している」わけではない。人間が言葉によって「成立させている」。すなわち、客観ではなく主観である。

専門用語を駆使する法律家は、「万引き」や「ひったくり」、「スリ」や「置き引き」などという日常用語を不明確であるとして軽視し、「本当は」刑法235条の窃盗罪が成立していると信じている。そう信じることによって初めて、事後強盗罪や常習累犯窃盗罪といった専門用語の展開が可能となる。そして、一般人は刑法235条の窃盗罪が成立していることを知らないが、自分達はそれを知っているという自負を持つようになる。しかしながら、刑法235条も言葉であり、言葉は紙やインクではない。六法全書の紙の上に印刷された「刑法235条」という文字は、あくまでインクであり、条文そのものではない。

専門用語を使いこなしている法律家は、日常言語しか扱えない一般人に比べて犯罪という現象を正確に捉えている、これがこの世の大前提である。裁判員制度の導入に伴う議論も、この点は大前提とされている。しかしながら、専門用語も言葉であって、この点においては日常言語と何も変わらない。法律学は、「条文とは一体どこにあるのか」という哲学的な問いには弱い。しかも、このような問いに対して、法律家は一般人と同じく、「条文は六法全書の中にあるに決まっている」と答えて平然としている。これでは、言葉を扱うプロとは呼べない。