犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

犯罪被害者週間全国大会2007 (全電通ホール) その3

2007-11-28 11:36:45 | その他
被害者の体験談とメッセージ
田代祐子さん・「青森被害者語りの会」代表

田代さんの息子の尚己君は、2001年6月、横断歩道を歩行中に車に轢かれて命を奪われた。当時小学校2年生であった尚己君は、軽いダウン症の障害を負っていた。被告側からは例によって、「被害者はダウン症で働くことができないので逸失利益はなく、その分の損害金は支払えない」との抗弁が主張されることになる。田代さんにとっては、逸失利益がゼロだということは、尚己君に人間としての価値がないと言われていることと同じであった。そして、これまで一番大切にしていた宝物を土足で踏みつけにされ、心臓をえぐり取られているような気持ちに陥った。

田代さんは現在、障害児の逸失利益を認めてもらうための活動をしている。ここでも例によって、客観的で実証的な法理論の壁が立ちはだかる。「現に障害児に逸失利益を認めてしまったら、生きていればもらえないはずのお金がもらえることになる。これは死んだことによる不当な利益である。このような『死に得』を認めることは、著しく正義に反する」。近代合理主義のパラダイムによってこのような問題設定がなされてしまえ、もはや答えは出ない。簡単なことをわざわざ難しくする理屈の典型である。死に得が著しく正義に反するというならば、それは最初からその程度の正義だったのであろう。もしもその正義が本物であれば、田代さんが心臓をえぐり取られているような気持ちに陥ることもないはずである。そのような気持ちを正義の力によって抑え込むこともできないならば、その正義は最初から正義に値しない。

近代合理主義のパラダイムは、逸失利益の計算方法を詳細に発展させ、客観的な法秩序を確立した。その法秩序は、田代さんの「人間としての価値がないと言われていることと同じであった」という言葉は単なる主観であり、感情的な誇張や歪曲であることを小賢しく証明する。しかしながら、田代さんがそのように感じたという事実それ自体は、何らの虚偽も含んでいない。その言葉は、人間の存在そのものを経由して真実である。近代合理主義のパラダイムがその真実を軽視するということは、実は自らの手に余ることを恐れていることと同義である。そして、自らはそれに気付いていない。客観的で実証的な法理論の確立は、人間の生死に対する鋭敏な感覚を鈍らせた。この感覚の点については、現代人は古代人よりも確実に退化している。死亡した障害児に逸失利益が認められないことによる苦しみは、現代人が無条件に人類の進歩を信じ、古代人に対して優越感を持っていることの歪みの表れでもある。

人間の生死の問題は形而上的であり、死亡した人間の逸失利益の計算は形而下的である。形而上の話は抽象的で役に立たず、形而下の話は具体的で役に立つ、近代人はこの信仰の下に詳細な理論を組み立ててきた。しかしながら、人間が生まれて生きて死ぬものである限り、形而上の問題を限りなく隠すことはできても、完全に消すことはできない。それが、障害児には逸失利益が認められないといった場面で一気に噴出することになる。尚己君の命を奪った被告は、なぜ「被害者はダウン症で働くことができないので逸失利益はない」との抗弁を主張したのか。弁護士が専門家の常識としてそのような主張をしようとしているのを、なぜ体を張って止めなかったのか。それは、突き詰めれば高い賠償金を払いたくないという点に尽きる。どんなに「死に得を認めることは著しく正義に反する」との理屈を積み上げたところで、その実態は値切り交渉に他ならない。これを否定したいのであれば、まずは田代さんのえぐり取られた心臓を元に戻すのが先であろう。